プロローグ 中 ~見つめ合う瞳~
月明かりの中、静寂に沈む入江。
時折フクロウの声が響く中、その船は静かにたたずんでいた。
ラディオサ・フォルタナ号。
此処より遥か西方、タルピア内海沿岸の諸国群の内、クサンドル商人連合に所属する交易船である。
タルピア内海から大西海の沿岸航路を主要な活動域としている、極平均的な商船であった。
しかし、大西海にて季節外れの嵐に遭遇し船体はマストが折れる大損害を受ける。
帆走不能となった船は、未知の海流に運ばれ漂流のの末、霧の海域を抜けとある島へと流れ着いた。
その島で食料と水を確保したフォルタナ号は、今夕修理を終えその身を休めている。
時刻は夜半過ぎ。
かすかな波音だけが響く中、甲板に姿を表す者があった。
恐らくは船員なのだろう。
まだ若く、見た目は見習いをようやく抜けたあたり。
破れた帆を再利用した防寒具に身を包みながら、軽くあたりを見回している。
「……うう、寒い寒い。何だってこの島はこんなに寒いんだ? 導北星の高さからして、国元とそう変わらん日の長さだろうに」
この島の気候に慣れないのか、身を震わせて向かう船員。
行き先は新調されたマストの上の見張り台だ。
フォルタナ号は、三本のマストを持つ。
その何れもが季節外れの突風により折られ、帆もズタズタに裂けてしまっていた。
なおかつ季節外れの嵐により折れたマストも何処かに飛ばされてしまってたのだ。
辿り着いたこの島に、針葉樹の林を見つけたのは幸運だったと言うより他ない。
丁度いい太さと高さの樹を切り出し、マストとして据えるのが、船体の修復で最も困難な作業であった。
切り出された木材と葛を束ねたロープで作られた簡易クレーンを用い、なんとか建て終えたのが夕方の話。
この船員もその作業に参加し、疲労困憊となったとなったのだが、見張りの順番は無慈悲に回ってくる。
もっとも、彼を始め殆どの船員は、眠りにつくことなどできなかったのだが。
「まぁ、口から吹雪だの吐く化け物が居るんじゃぁ、寒くもなるのかねぇ」
船員は、昼間見た光景を思い出す。
白銀の山峰の彼方でぶつかり合う、白銀の鱗の二匹の蜥蜴の化け物。
炎だの雷だの吹雪だの、決して口から出ていい代物では無いモノが、狂ったように吹き散らかされて、遂には山の頂上が吹き飛ぶ様を。
それはこの地の豊かさに浮かれていたこの船の船員全てに冷や水を浴びせる結果となって居た。
もしあの化け物達が争っていたのが、自分たちが今いるこの入江であったのなら、船員らの命など容易く踏みつぶされていただろう。
更には見たことも無いような化け物が居るこの島にこれ以上滞在するのは危険だと、船長は翌日早朝にこの島を離れると決定している。
無論、反対する船員は誰も居なかった。
もっとも、
「いや、ここの食い物が食えなくなるのは惜しいけどなぁ……」
この船員は、この地で得られた食料の味を忘れられない様子であったのだが。
何しろ、この入江に隣接する森は、只の果実であっても信じられないような美味で船員たちを楽しませていたのだ。
野生の果実であるのに、まるで人に食べられるように育てられたかのよう。
国元では船乗り病の薬として果実を育てる風習があるが、それらの果実と比べても甘味が桁違いだ。
船長や仕入れ役はこの果実を多めに詰め込み、国元で増やせないか算段を立てていたらしい。
しかしあの化け物共を呼び寄せるかもしれないと言う意見も出たため、積み込みを諦めたのだった。
「肉も魚も美味いしなぁ……惜しいよなぁ………ん?」
ぼやきながら、見張り台に上る為のシュラウド(網目状のロープ)に向かう船員。
そこで、ふと波間に視線を向ける。
月明かりに照らされる中、何か見えたような気がしたのだ。
しかし、ひとしきり見回しても、何も見つからない。
「……気のせいか? 昼にあんなもの見たから、目がおかしくなったかもしれない……目は大切にしないと、不味いってのに」
昼間の化け物の吐いた雷光は閃光を伴い、多くの船員の目を焼いていた。
焼き付きが中々戻らず、見張り役がしきりに目を気にしていたのを、この若い船員は覚えている。
自身も実は同様の症状かと不安を覚えたその時、
「…へっ?」
「…あっ!」
目が合った。
波間から微かに突き出した、可憐な少女の顔の、その瞳と。
「な、何だ!? 人!? 女の子!?」
「や、やばっ! 見つかっちゃった!? お姉様に叱られちゃう!」
「言葉を!? って、ちょっと、オイ!?」
慌てて舷側に駆け寄ると、波間に大きく跳ねる影一つ。
若い船員は、その影を見逃さなかった。
上半身は、可憐な少女。そして下半身は、尾鰭を持ったイルカのような姿を。
船乗りたちが語る伝説のそのままの姿に、若い船員は海の伝承の名を叫ぶ。
「マ、海乙女!?」
「っ! 海豹乙女よ! 一緒にしないで!!」
「へっ? ご、ごめん!」
離れてゆく海の少女から、強めの抗議が為され思わず謝る船員。
突如上がっ大声に、甲板下で眠っていた船員たちが目を覚ます気配を感じながら、若い船員は泳ぎ去るその姿を目で追った。
海豹乙女を名乗った海の少女は、慌てているのか海に潜ることもせずそのまま沖へと泳ぎ去って行く。
「……セルキーって、なんだ?」
呆然と、そして陶然と告げられた名を繰り返す若い船員。
その頃ようやく慌てて駆け付けた他の船員たちが目にしたのは、最後に大きく跳ねたシルエットのみであった。
「それで、逃げ帰って来たの? このお馬鹿!」
「だってぇ……」
「だってじゃないのよ、判ってる? あんたが姿を見せたから、厄介なことになるかもしれないのよ?」
一方、フェルタナ号近海の海底では、海豹乙女たちが拠点を築いていた。
『外』よりやって来た船が、如何なる者で、何を目的にしているかは、この数日で波間からすっかり調べ尽されていた。
霧が晴れた夜光の領域の『外』が、距離は離れているとはいえ、『門』から出た先と同じであること。
あの船は、夜光の『門』があるガイゼルリッツ皇国の南、沿岸諸国群の一つから流れ着いたこと。
そして、二匹の化け物……寒冷地に住まう二匹の氷雪竜のじゃれ合いに恐れおののいて、この地を離れる事を。
しかし最後の夜、年若い一匹が失敗を犯してしまう。
自身も好きな魚を褒めるその顔を、直接見たくなってしまったのだ。
波間からこっそりと伺うだけの、ちょっとした出来心。
しかしそれが何の運の巡りか、視線がぶつかり合った。
更には短いながらも言葉を交わしてしまっている。
彼女達海豹乙女の支配者である海王に、何と申し開きをすべきか、リーダーの海豹乙女は頭を抱えたくなる想いだった。
「それより酷くないです? 海乙女に間違えられたんですよ? ほんと失礼しちゃいますよね!」
「あんたが、何時もアザラシ皮を半脱ぎのまま泳ぐからでしょうが!」
余談ながら、海豹乙女とは、その名の通りアザラシの姿と乙女の姿の二つを持つモンスターだ。
人間の姿にアザラシの皮を被ることで姿を変えるのだが、半脱ぎで海乙女のような姿になるモンスターではない。
ただ、この顔を見られた海豹乙女は、普段からアザラシの皮を半脱ぎの状態で過ごすと言う奇妙な存在であった。
そのくせ、海乙女と間違えられると腹を立てるのである。
「ああもう、海王様に何て言えばいいのよう……そもそも、昼に氷雪竜が暴れていたのも問題なのよ。やるなら『外』の船から見えないところでやりなさいっての」
ぼやき続ける海豹乙女のリーダー。
しかし、そこに思いがけない声がかけられた。
「見たまま聞いたままを話せ。取り繕う必要はないぞ」
「えっ!?」
不意の言葉に慌ててリーダーが周囲を見回すと、傍に立つ者があった。
少年の姿の、しかし溢れる魔力は津波のような彼は、夜光の領域の海を任された海王レオンであった。
今回は少し短め




