第51章:俺にも譲れないものがある(我意)
光琉とならんで玄関まで降り、光源の乏しい早朝の街路へと出ていく父の背中を見送った。
光琉はしばらく寂しそうに表情を曇らせながらも、俺の筋肉痛の治療を律儀に最後まで済ませてくれた。俺は妹の前で再びズボンを降ろす必要に迫られ、緊張と羞恥と自尊心の消耗に耐えねばならなかったが(もちろん、最後の一枚は脱いでいない! その点は強調させてもらう)。
治療を終えると、光琉は朝食の準備に取り掛かった。昨日と違い、兄妹そろって早起きした今朝は登校までにたっぷりと余裕がある。
朝食の支度を妹に任せた俺は、朝の時間をゆっくり過ごす……気にはなれなかった。自室でクローゼットの奥をあさり、自宅用のジャージを何ヶ月ぶりかに引っ張り出して身につけると、再び玄関へと降りる。シューズの紐を結び終えたところで、背中から光琉に話しかけられた。
「あれ、にいちゃん、こんな時間からどっか出かけるの? 家でジャージ姿なんてめずらしいじゃん」
「ちょっと、その辺をランニングしてこようと思ってな」
俺が応えると、光琉はあんぐりと口を開きながら大きくのけぞってみせた。漫画の一コマだったら、背景にイナズマが描かれることだろう。
「ら、ランニングですって!? 万年ものぐさ陰キャのにいちゃんが、早朝ランニングなんてケンコー的な真似を!! な、何てことなの、神罰でも降るんじゃないかしら……」
「お前、俺に惚れてるんだよね?」とは流石に聞けなかったが……なんとも腹の立つ反応しやがるな、くそ!
「一体どういう風の吹き回し? またキンニクツーになってもしらないよ。ま、そん時はもっかい治してあげるけどさ」
そう何度も脱がされてたまるか。
無礼なアホ妹を無視してさっさと出かけようかとも思ったが、どうしてもひとこと言っておきたくなった。俺は立ち上がって光琉の翡翠色の瞳を覗きこんだ。
「おい、これだけは言っとくけどな」
「な、何よ」
「お前が俺を守るんじゃない、俺がお前を守るんだよ。フェイデアでそうだったように、これからもずっと!!」
「今生ではあたしが守ってあげるから」という先ほどの光琉の言葉が、胸につかえていた。妹の健気な心意気は認めるが、俺にも譲れないものがある。
俺の宣言を聞いた光琉は、すぐには何も言い返してこなかった。大きく眼を見開いたまま、フリーズしてしまっている。心なしか、頬が上気しているようだ。
ん? 俺、何か変なこと言ったか?
「に、にいちゃん、今、あたしのこと、これからずっと守ってくれるって……」
「……あッ!!」
い、いかん! たしかに誤解を招くような言い回しだったかもしれん。
「え、え、そ、それってプロポーズ!!?」
「んなわけあるか! こ、これは違う、男女としてって意味じゃなくて、俺はあくまで兄妹としてだな」
「フェイデアと同じように、ってたしかに言ったよ? ちゃんとこの耳で聞いたよ、あたし!!??」
「べ、別に関係性まで同じってことじゃない! 外面だけの話だ、そこまで厳密に捉えんでも……」
「ふへ、ふへへへへ! んもぅー、にいちゃんってば、気が早いんだからぁ。そういうのはもっと、大人になってからでもよかったのにぃ~」
「気が早いのはお前じゃ。そして俺の話を聞けい!!」
アホ妹にはもはや外部の音は届いていなかった。頬に両手をあてながらポワポワと自分の世界に入って、ヨダレまで垂らしている(拭けよ!)。
ったく、これくらいのことで、世界中の幸福を凝縮したような顔しやがって……
「と、とにかく! 俺はランニングに行ってくるからな。帰ってくるまでに正気に戻っておくように」
捨て台詞を残して、俺は玄関ドアから外へ飛び出した。ああなってしまった妹はスター状態である。三十六計何とやら。
空はまだ薄暗かったが、雲ひとつ見当たらない。今日も快晴になりそうだった。
「あ"~~~~言うんじゃなかった~~~~!!!」
俺はアスファルトの路を駆けながら、頭を掻きむしって叫んだ。朝の涼を含んだ空気が、開いた口内に流れこむ。路の反対側から歩いてくる犬の散歩中の中年女性が不審者に向ける眼差しを投げかけてきたが、そんなことに構う余裕もないくらい俺の頭は沸騰していた。
あらためて振り返れば、妹に対して何と恥ずかしい宣言をしたことか。思い出して身悶えする黒歴史コレクションが、新たに増えちまった。だが同時に、あれは紛うことなき俺の本心でもある。だからこそ、柄にもなくランニングなどしているのだ。
今朝、筋肉痛に苛まれて思いついたことではない。トレーニングの必要性は、昨晩から漠然と感じていた。剣に似たものを手にすればたしかに前世の感覚はよみがえるが、その感覚に身体がついていかない。昨日土僕と戦った際にも、あの程度の時間全力で動いただけで息も絶え絶えになってしまった。
現世でも魔族が"光の聖女"をねらい襲ってくるとわかった以上、そんな体たらくでは駄目なのだ。いくら妹の光魔法が強力とはいえ、それだけではこれからの戦いを乗り切ることは到底できないだろう。発動までに時間を要する魔法を行使する時、あるいは至近まで敵の肉迫をゆるしてしまった時、光琉の身を守るべく近接戦を行う者が必須になる。であるならば、その役目を担うのは俺しかいないではないか。
……いや、今更韜晦は止そう。たとえ代わり得る者があらわれたとしても、妹の生命を他人に預ける気など俺には微塵もない。母との約束ゆえか、兄としての意地か、はたまた前世の想いの残り火がくすぶり続けているのか、はっきりしたことは自分でもわからない。わかっているのは、光琉を守るのは俺でなければ俺がいやだ、ということだけだ。
だから力が要る。少なくとも、サリスの剣士としての本能を十全に活かせる器――肉体を手に入れなければ、話にならない。他にも課題は山ほどあるが、まずは基礎体力を身につけてからの話だろう。また現状、俺がすぐに取りかかれるのはせいぜいそれくらいのものだ。
「ったく、めんどくせえけどしょうがねえな。アホ妹め、どこまでも手を焼かせやがって」
考えてみれば、物心ついてからこれほど自発的に運動することはなかったのではあるまいか。モチベーションに突き動かされているせいか、足腰の張りさえも心地よく感じてきた。毎日グラウンドを何周も走る体育会系連中の気持ちが、すこしわかった気がする。今までは異星人以上に遠い存在だと思ってたもんな、あいつら。
「よっしゃ、やってやる。陰キャの底力を見せてやるぜ!!」
……我ながらおかしなテンションになってきたと思わんでもなかったが、やる気があるのはいいことだとポジティブに解釈しよう。衝動のおもむくまま、俺はアスファルトを蹴る足に更に力を込め、おのれの身体を加速させていくのだった。




