【Case:10 凌雲荘の怪】2
「……俐玖」
「わかってる」
少なくとも俐玖と離れるわけにはいかない。ここが現実空間なのか、それとも幽世に足を踏み入れてしまったのかわからないが、一人になるのは得策ではない。脩は俐玖の手を握った。俐玖がびくっと肩を震わせて、脩を見上げる。
「いや、はぐれると困るだろう」
特に俺が。と言うと、俐玖は「確かに」と手を握り返してきた。宴会場の方に目を向けると、そちらも暗くなっている。だが、お互いの顔ははっきり見えた。これはいよいよおかしい。
「……どこかに迷い込んだか?」
「というよりは、何かから干渉を受けているのだと思う」
と言うことは、脩と俐玖の意識だけがおかしいのだろうか。現実では、二人手をつないで突っ立っているだけなのだろうか。それなら、外から干渉してもらえれば戻ることができる気がする。この際、来宮に殴られるのでも構わない。
とはいえ、こちらもぼんやりしているわけにはいかない。自力で出る方法も探さなければ。その思考に捕らわれていると、急に肩をつかまれた。体の前面から、俐玖が手をつないでいない方の手で脩の肩をつかんでいた。
「どうした?」
「……して……」
「なんだ?」
様子がおかしいことに気づいて、脩は俐玖の顔をのぞき込もうとする。その前に、彼女は顔を上げた。
「どうして、あの子なの……どうして私ではいけないの……?」
「俐玖! 俐玖……ヘンリエッテ!」
おおよそ彼女らしからぬ言葉に、脩は彼女の名を呼んで激しく肩を揺さぶった。焦点の合わなかった眼がはっと脩をとらえる。
「……わかるか?」
「脩」
よし、とうなずいて、脩はこわばっていた肩の力を抜いた。間違いなく俐玖だ。よろめいて突っ込んできた俐玖を支えたところに、声がかかった。
「お客様、どうなさいましたか?」
この旅館の仲居さんだ。そこで、脩は周囲に明かりも音も戻ってきていることに気が付いた。驚いたが、それをおくびにも出さずに口を開く。
「いえ……彼女が少し酔ってしまったようで」
常套句を口にすると、俐玖が「そんなわけあるか」とばかりに脩から離れようとしたが、脩は彼女の肩をだく手に力を込めて押さえた。不満げに足をけられる。
まあ、と口を開いた仲居が、脩を怪しむように見るのがわかった。好青年、と言われることが多い脩だが、状況的には酔っぱらった女性を強引に連れ去ろうとしているようにも見える。
やや膠着状態に陥った脩と仲居だが、その前に第三者がやってきた。神倉と別の仲居だ。
「鞆江、向坂。……何してるんだ?」
邪魔だったか? と大真面目に尋ねられた脩は苦笑して首を左右に振る。俐玖に「すまん」と一言ささやき、膝裏に手をまわして抱き上げた。話していた仲居二人がこちらを見る。
「お騒がせしました。会場に戻ります」
「ご案内します」
神倉とともにやってきた仲居がそう主張した。とても疑われている。
仲居に襖を開けてもらい、中に入ると視線が集まるのがわかった。そのまま俐玖を降ろそうとすると、「待って!」と声がかかった。
「待ってください! 写真撮ります!」
「日下部、お前さっきまでヘロヘロだったよな?」
幸島につっこみを入れられながら、麻美が脩と俐玖をスマホで連写する。ここまで黙っていた俐玖が「もういい?」と顔を上げる。脩の首に腕を回して体を支えたまま、自分でお姫様抱っこ状態から解放された。
「ええー。もう終わり?」
「これ、されてる方は結構怖いんだよ」
と、俐玖。悲鳴も上げなかったので、てっきり途中から寝ているのかくらいに思っていたが、そうではなかった。口を開けばぼろが出そうだったので、黙っていたらしい。一応、脩が適当に場を切り抜けようとしていたのがわかっていたようだ。
「まあ、脩が落とすとは思わないけども」
「来宮、顔怖いぞ」
「……非常に複雑な気分です」
こちらも幸島につっこまれた来宮が絞り出すように言った。聞く限り、俐玖が小さいころから見ているらしいので、妻の従妹という関係以上に可愛がっていたのだろうと思う。
「まあ、そう言うのは後だよ、幸島君、来宮君。それで、二人とも何を見たのかな」
やはり、察しの良い汐見課長である。察しがよいのではなく、ただ感じ取ったのかもしれないが。
当然かもしれないが、そこから作戦会議になった。
「気が付いたら、明かりも音も消えていました。場所自体はこの旅館の廊下で、移動したわけではないと思います」
俐玖がざっくりと説明したが、彼女が説明できるのはここまでだった。彼女は、自分が発した言葉を覚えていなかった。
「どうしてあの子なの、どうして私ではいけないの。そう言っていました」
語尾などが違う可能性はあるが、言葉は合っているはずだ。汐見課長が「うーん」と顎を撫でた。
「おそらく、その時だねぇ。こちらでも異常を検知したから、神倉君が向かったんだけど」
おかげで、場が途切れて助かったわけだ。神倉は特に何もしていない、ということなので、脩や俐玖の予想通り、外からの接触で元に戻れたようである。
「場所を移動していたわけではないようだけど、閉じ込められたら面倒だね。来宮君、藤咲さん。二人は今からこの旅館を出て、外で待機していてくれる? ああ、帰っても大丈夫だよ」
「わかりました」
汐見課長の支持に、二人はすぐに帰り支度を始める。課員全員が、この旅館に閉じ込められるのを防ぐために、もともと何かあれば対応する予定だった二人を、先に帰すことにしたのだ。
「残念だけど、忘年会はここでお開きだね。……とりあえず、日下部さんは部屋に戻った方がよさそうだね」
「大丈夫です……」
さっきまでテンションが高かったはずの麻美は、青い顔をしていた。どうやら、飲み慣れないお酒を飲んで騒いだため、酔いが回ったようだった。
「大丈夫じゃないわよ。ほら、行くわよ日下部さん」
「うう~」
千草に手を引かれ、麻美が部屋に連れて行かれる。二人が脱落しても八人いるのだ。なんとかなる。
すっかり対処する方向で進んでいるが、誰も文句は言わない。俐玖に被害が出ているので、放っておくこともできない。
「とりあえず、はい、鞆江。護符。念のためもってなさい」
「ありがとうございます」
佐伯が差し出した護符を俐玖が受けとり、折りたたんで袂に入れる。それを眺めていた脩はふと思って言った。
「前から思っていたんですが、護符やお守りって、神道でなくても効果あるんですか」
日本は無宗教者が多い。次いでせいぜい、仏教徒だろうか。俐玖はドイツ生まれで、クリスチャンではないようだが洗礼名はある。
「日本の神々は心が広いから、自分の信徒ではないからと言って守らないということはないわ。必ず守るとは言い切れないけど、最悪の事態にはならないはずよ」
佐伯が胸を張って言ったが、それはゲームとかで絶対だめだと言われる奴ではないだろうか。過程を無視して結果だけ引き寄せる系の。少し気になったが、脩は「そうですか」とだけ答えた。
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