第096話 『妖精王解放』⑤
世界の修復を終えた『妖精王』は、世界樹が創り出した天空の舞台の上にいまだ浮いている。
その美しい瞳に感情の色はなく、生理現象として定期的に瞬くだけで、今はもう自身が元通りに修復した世界の姿を映してはいても、見てはいないのだということが傍からでもわかる。
ルーナ曰く、本来であればこのまま世界樹の中心――樹齢数千年規模にまで一瞬で育った大木が幾重にも絡まってつくられた樹洞の中で、龍脈の中核として世界に満ちる魔力を循環し続けるのが『妖精王』の役割らしい。
有事には自動的に動き出し、修復すべきを修復し、倒すべきを倒すのだ。
だが今はその全身が吹きあげる魔導光に包まれたまま、微動だにしていない。
ソルの『プレイヤー』によって強制的に強化を施されているのだ。
だがそれはルーナの説明通りだとすれば器である『アイナノア・ラ・アヴァリル』という妖精族の美少女に対するものであって、『妖精王』に対してではない。
いかに優れた器とはいえ『妖精王』が担う役割に応じた膨大な権能ゆえに、本来その器に満ちるはずであった人格が形成される余裕などない。
ゆえに全自動で『妖精王』としての権能を行使するだけの『妖精王アイナノア・ラ・アヴァリル』が出来上がっていたわけだ。
それを聞いたソルが直感的に器――アイナノア・ラ・アヴァリルをこれまでなかった域で強化すれば、『妖精王』という権能を支配下に置いた妖精族の少女を創り出すことができるのでは、と考えたのだ。
「三桁になってもまるで変らないね……」
だが慎重に10単位で強化を続け、表示枠に示されるそのレベルが三桁に達しても『妖精王』の様子に変わったところは見受けられない。
ただ淡々とその場に浮かんでいるだけだ。
「主殿。万が一に暴走した場合でも、今の我であれば即座に無力化は可能です」
自身の背後に巨大な魔創義躰を臨戦態勢で顕現させているルーナが、緊張感を切らすことなくそう告げる。
油断などけしてしはしない。
『初代勇者』と『神殻外装』という強大な戦力と連携してのこととはいえ、千年前に『全竜-1』であったルーナを倒してみせた『妖精王』の力を甘く見ることなどできはしない。
だが今のルーナは『神殻外装』――最後の一体であった竜の真躰を捕食して完全な『全竜』となっている上、分身体とはいえど『プレイヤー』の恩恵を受けてそのレベルはソルと並んでこの世界における最大の数値に至っている。
今ソルがプールしている経験値のすべてを注ぎ込んだとしてもアイナノアのレベルはソルとルーナには届かず、それでも自我が生まれないのであれば行使できる権能は強化とは無関係な『妖精王』としてのものだけのはずだ。
であれば真の『全竜』たる己と、ソルの『プレイヤー』による補助で完全に上回ることも可能だと判断している。
自在に使いこなせればこそ絶対に欲しい戦力ではあるが、制御下におけないのであれば勝てる時に完全に無力化しておくことも重要なのだ。
「じゃあもう、この際一気にぼくらと同じレベルまで引き上げるか」
それはソルも同意するところであるらしい。
中途半端に強化したまま放置することも出来ないとなれば、己の直感を信じていけるところまで行ってみるべきだと判断したのだ。
――ルーナが『妖精王』を吹っ飛ばしたら、妖精族とは敵対だなあ……
できればそれは避けたいソルではある。
己の直感どおりにならず、器を強化したことがトリガーになって『妖精王』が敵対しませんようにと祈りながら、現在プールしていたすべての経験値をアイナノアへと注ぎ込む。
これで変化がなければ今のルーナによって始末するか、いつ動き出すかわからないまま『妖精王』を放置するかしかない。
だが――
「あ」
ソルとルーナが同時に声を上げたとおり、『妖精王』に変化が現れた。
いやその美しい瞳に意志が宿り、無表情ではなくなった時点でそれは『妖精王』ではなく『アイナノア・ラ・アヴァリル』という一人の妖精族の少女であるはずなのだ。
戸惑ったように自分の躰を確認し、自身の身体を抱え込むようにして震えながら空中で丸まってしまっている。
『妖精王』であったときはなにも感じていなかった強化にともなう女性特有の感覚がなんなのか理解できなくて、本能的にそうするしかなかったのだろう。
「行けたっぽいけど……なんか様子が変だな」
「これは……」
レベルとしては4桁を超え、現在アイナノアのレベルを確実に上回っている者はソルとルーナだけであり、リィンやジュリア、フレデリカとほぼ同格の数値となっている。
強化が終了し、強化に伴う感覚も消失したアイナノアは、恐る恐るという様子で周囲を伺っている。
なにやら知らない場所で目を覚ました野性の小動物が、周囲に脅威がないかどうかを確認しているかのようなその様子は、幼いというよりも動物的にすぎる。
ソルが違和感を感じ、ルーナが嫌な予感を覚えた理由がそれだ。
そしてそのルーナの予感は的中する。
優れた魔力感知でソルとルーナの存在を捉えたアイナノアは、畏れるどころか満面の笑みを浮かべて一直線にソルのところへ飛んできたのだ。
「えっと、これは?」
かなりの勢いで抱き付かれ、ほぼ押し倒されるようにして首元に抱き着かれているソルは動揺を隠し切れない。
そのありさまは無理をすれば子供の無邪気な様子、ストレートに言えば子犬が飼い主にじゃれついているようにしか見えないものだが、アイナノアは華奢とはいえ妖精族の女性としては充分に成長した姿である。
そしてフレデリカやリィン、ジュリアですら見惚れる程の美貌を誇っているのだ。
身に付けている衣装も清楚なイメージのわりには随分ときわどい。
そんな美女に無防備に抱き付かれて、虚心でいられる男などいはしない。
この際胸が薄いことはあまり救いにはならない。
助けを求めるように、アイナノアの抱き付きを阻止しなかったルーナに説明を求めるソルである。
「アイナノア・ラ・アヴァリルという妖精族の少女――肉体的にはそんな歳ではありませんが――の自我はたった今芽生えたばかりということでしょう。妖精族は亜人種の中でも特に魔法に長けた魔導生物種です。自身に強大な力を注いでくれたのが主殿だということは完全に理解しておりますね」
「……つまり?」
珍しく仏頂面で早口で説明するルーナに、結論を求めるソル。
「刷り込みのようなモノです。いま主殿は赤子……というよりも子犬同然のアイナノア・ラ・アヴァリルにとって親や飼い主にも等しい存在ということかと……」
「思ってたのと違う!」
まさに子供というよりも、子犬やひな鳥の反応というわけだ。
なまじ身体は育ち切っているだけにその行動はより具体的で、抱き付いたりじゃれついたりという親愛の情を表現することが可能なだけに質が悪い。
ソルにしてみれば無感情な少女の人格が生まれるような感じを想定していたので、本気でこの状況は想定外である。
これでは大人の女性の身体を持った、ソルが大好きな子犬が突如発生したようなものだ。
子犬なら可愛らしいが、妖精族の美少女に顔を舐められ胸元に顔を押し付けられてぐりぐりされても対処に困る。
「……まんざらでもなさそうですが」
「ルーナ?」
だが引き剥がすのに協力してくれるわけでもなく、初めて聞く冷ややかなルーナの声にソルは慌てた。
人間相手であればそんな反応を示していなかったルーナだが、ソルにとっての巨大戦力同士となればまた勝手が違うのかもしれない。
「主殿の狙い通りではありませんか。言葉から教える必要はありますが、アイナノア・ラ・アヴァリルが『妖精王』を御している限り、主殿の意のままに使えるでしょう」
鼻をならして悪い笑顔でそう言うルーナをあっけにとられるような表情でソルが見つめていると、胸元でふがふがしていたアイナノアも不機嫌そうなルーナの方を見た。
「――♪?」
その瞬間、自分より小さなルーナに向かって突進し、ソルにするのと同じように顔を舐め、胸元に顔を埋めてぐりぐりし始める。
「やめんか」
どうやらアイナノアにとって、ソルとルーナは絶対的な自分の味方だと認識されているらしい。
小さな手でなんとか引き剥がそうとするルーナの様子にもめげず、アイナノアは心の底からご機嫌そうである。
「はははルーナは母親だと思われてるんじゃない?」
「冗談ではありません」
「まんざらでもなさそうだけど?」
「っ――」
先の自身の言葉を主にやり返されて、従僕の顔が珍しく朱に染まる。
ルーナにしてみればソルから弱いものとして扱われるのと同じように、誰かから無条件で味方だと看做される、警戒なくじゃれつかれるという扱いに対する耐性がないのだ。
孤高の最強魔導生物たる竜ゆえの弱点と言えるかもしれない。
そしてソルは自分が美女に抱き着かれるよりも、ルーナとアイナノアという竜種亜人と妖精族のとんでもない美少女同士がじゃれているのを見る方が目に麗しくて楽しいのだ。
まあ最終的にはアイナノアはソルの首にぶら下がり、ルーナは対抗するようにソルの左手を離さない状態で深刻な空気が満ちる地上へ帰還することと相成った。
それを見たフレデリカが、これからソルの後宮候補たちへの重圧を考えて遠い目になってしまったことは仕方がないだろう。
とにかくこれでソルは手に入れたのだ。
すべての迷宮の攻略と魔物支配領域を解放し、最終的には『塔』の最上を目指すために自分が必要だと判断した、『召喚』の際に示された五枚の手札の内の二枚目。
壊れゆく世界ですら再生し、戦場においては自分たちに最も有利な領域を創造する回復・支援・弱体に特化した怪物の一体。
二つの意味で捉われていた、『妖精王アイナノア・ラ・アヴァリル』を。
そしてこれより破壊――『全竜』と、再生――『妖精王』を手にした『プレイヤー』による、人の世界の再構築が始まるのだ。




