第055話 『旧支配者』
大陸北部に存在する世界宗教『聖教会』における信仰の中心地。
聖都アドラティオ。
それは四大大国のひとつとして北部一帯に覇を唱え、大陸において最も古い歴史を誇るアムネスフィア皇国内に、特区自治領として存在している。
清貧を尊ぶはずの『聖教会』としては自己矛盾の極みとしか見えない壮麗な教皇庁、その最奥には代々の教皇しか立ち入ることを許されない神域が存在する。
逸失技術によって完全に制御されているその空間の入り口にあたる場所には、今はもう誰も解読できない神代文字で『人類幸福安心委員会』と記されているのはなんの冗談か、あるいは本気か。
すでに神域へ踏み入れ、真の闇の中で緊張した表情を浮かべているのはもちろん当代の聖教会教皇、グレゴリオⅨ世。
旧支配者たちから『聖教会』が任せられている『神』の管理をしくじったため、千年ぶりにこの空間に呼び出されることになった不運な教皇である。
「七鍵封罪の一、封印されし邪竜――『全竜』ルーンヴェムト・ナクトフェリアの開放が確認された」
「同時に淫魔個体№17の消失と『第Ⅸ衛星』の機能停止も確認されている」
「残るは『第Ⅳ衛星』と『第Ⅶ衛星』のみか。脊髄反射的に攻撃したのは迂闊だったな。彼らに旧世界の逸失技術兵器は通用しないことなどわかりきっておっただろうに」
グレゴリオⅨ世が緊張に耐え切れなくなる限界ぎりぎりで空間に光がいくつも燈り、今現在『聖教会』が把握している状況を再確認するかのように並べ立てはじめる。
不可思議な光によって画かれた神代文字が複雑な文様を形成し、常に動き続けている。
すべての光それぞれが良く見るとすべて違っており、その奇妙さからは拍子抜けするくらい普通に話すその声もみな違っている。
共通しているのはすべて重みを感じさせる、年老いた声だということくらいだ。
「申し訳ございません」
その声を受けて、日頃は誰からも傅かれている教皇が深々と頭を垂れる。
今光として現出している『旧支配者』たちから、常に起動することを許されている『攻撃衛星』
すでに3つしか現存していない逸失技術の粋、その一つを無為に失ってしまった以上、どのように責められてもグレゴリオに反論などできるはずもない。
全竜には児戯にも等しいとばかりにあっさりと砕かれはしたが、現代の人の手に負えない魔物を神の奇跡として屠り、人の世における『聖教会』の影響力を絶対とするにはこの上なく有用な兵器だったのだ。
なによりも天空から雲を霧散させて降りくる光の柱というビジュアルは、人に神の存在を信じさせるに足る外連味に満ちている。
それをむざむざと失った罪は軽くない。
少なくとも聖教会において『旧支配者』たちに関われる立場の者たちであれば、通じないことを知識としては叩き込まれていたのだから言い訳の余地などない。
「それも問題だが、『ロス村の奇跡の子供たち』は無害ではなかったのか」
「リーダーとサブリーダーは極凡庸な冒険者だという報告が上がっていたので油断しておったな。今にして思えばその報告と『黒虎』が積み上げた実績の乖離にはもっと警戒しておくべきだった」
「今さら言ってもはじまらん。我ら全員が間抜けであったというだけの話だ」
だがとくにグレゴリオを糾弾することもなく、淡々と現状を確認し、自分たちの甘さを悔いている。
教皇庁としては現世で行う義務を果たしており、それを精査し判断する自分たちに瑕疵があったと看做しているらしい。
――助かるかもしれない。
グレゴリオは『旧支配者』たちに悟られぬように生唾を呑み込む。
「他の七鍵封罪は大丈夫なんだろうな」
「今のところはな」
「だが時間の問題だ。我らに彼らは滅ぼすことはできん。かといってもう一度封じられるかと問われれば、それも難しかろう」
「とはいえ放置も出来まい」
「2人目の『勇者』の選定を急がねばならんな」
余計なことを一切言わないと決めたグレゴリオは聖教会の教皇ゆえに、今『旧支配者』たちが語っている内容を知識としては持っており、ある程度理解も出来ている。
それだけではなく先日実際に映像で全竜と淫魔の戦闘を確認していることもあり、『旧支配者』が与えてくれる力に対抗できる者などいるはずがないという妄信が崩れてもいる。
言われてみれば当然なのだ。
本当に無敵なのであれば、自ら『旧支配者』などとは名乗るまい。
だが自身が教皇としても2人目となる『勇者選定者』になれるとなればさすがに興奮を隠せない。
それはつまり、歴代の教皇たちよりも確実に多くの頁を割いて自身の存在が歴史に刻まれることになるからだ。
妄信は崩れても、グレゴリオは自分たちの最終的な勝利を疑うまでには至っていない。
なんとなれば千年前、見事にその敵たちを封印して見せたのが『旧支配者』とその先兵であった当時の『聖教会』なのだから。
「今回の『岐神』はソル・ロックで間違いないのだな?」
「全竜ルーンヴェムト・ナクトフェリアを使役していたのは確かです」
グレゴリオとしてはできるだけ無言を貫きたいところだが、それでも問われれば答えねばならない立場だ。
旧支配者と聖教会にとって『岐神』とはつまり敵。
全竜を使役する者がそれだと『旧支配者』たちが看做すのであれば、グレゴリオとしては聖教会の総力を挙げて神敵必滅を実行するだけである。
「では2人目の勇者には適任者がすでにおるな」
「七鍵封罪が八鍵封罪となるか」
「やむを得まい」
「1人目とは違い、2人目は今はまだただの冒険者に過ぎん。時は必要だぞ」
「そこは『聖教会』に期待してもよかろう?」
「……お任せください」
勇者を選定し、それが十分な戦力となるまで聖教会が時間を稼ぐ。
『旧支配者』にそう命じられれば粛々と従うだけだが、グレゴリオにしてみれば「別に倒してしまってもかまわんのだろう」という気分だ。
確かに全竜ルーンヴェムト・ナクトフェリアは驚異的な力を有していた。
とはいえその相手は淫魔程度に過ぎず、聖教会は――『旧支配者』たちは淫魔など比べ物にならない力をいくらでも有していることをグレゴリオはよく知っている。
「では『岐神』が動き出せば即応せよ。時さえ稼げればそれでよい。すべての逸失技術兵器の起動、その使用を認める」
「ありがとうございます!」
そして一番欲しかった許可を『旧支配者』が与えてくれた以上、グレゴリオは聖教会が負けるなどと露ほども思っていない。
全竜のとんでもない力を見た上で、それでもだ。
だがすぐに思い知ることになる。
千年前の封印はいくつもの幸運が重なった結果の僥倖でしかなく、支配者たちが自ら旧支配者を名乗らざるを得ないだけの理由がきちんとある事を。
なぜ千年前に明確な敵を滅ぼすことなく、封印するだけに留めたのか――留めざるを得なかったのかを。
『旧支配者』が嘘偽りなくグレゴリオに伝えた通り、『聖教会』の持つすべての力を投入しても、それは時間稼ぎ程度にしかならないのだと看做されている。
「我ら旧支配者の後継たる人類に、実在する神など不要。神は非実在であってこそ神である。現世では技術と進化を極め、常世に不在の神を崇め、常夜に不在の魔を恐れ、人はもっとも人らしく。神と怪物を殺すのは常に人であらんことを」
「神と怪物を殺すのは常に人であらんことを」
中心の光が唱える聖教会における影の聖典「裏アドラ文書」の文言、その最後の部分だけを他の光たちと共にグレゴリオも唱和する。
それがグレゴリオが自身の――『聖教会』の力を心から信じていた最後の瞬間となった。




