第046話 『全なる竜』⑤
「もう終わりか?」
『聖教会』からの砲撃もあっさりと無効化され、万策尽きた淫魔がルーナの目の前に吊るされている。
不可視の力で縛られているらしく、身動ぎ一つもできない状況だ。
「あぁああぁ……」
言葉は発せるようにされていても、もはや淫魔の口からは意味のある言葉は出てこない。
今この瞬間にもルーナはなんらかの手段で淫魔に苦痛を与え続けているらしい。
大人と子供の勝負にすらならない、圧倒的という言葉ですら生温い絶対的な彼我の戦力差が竜と淫魔の間にはあったのだ。
すでにルーナの瞳には戦闘の熱狂はなく、脆弱な人や知恵なき魔物とは違う、数百年を閲した魔族であってもこの程度かという落胆を、主の前ゆえになんとか隠しているといったところだ。
主から戦闘狂かつ相手を見縊って油断しているとみられるのは、従僕にとって恥だと思っているらしい。
「主殿。主殿の『ぷれいやー』ではこやつの『れべる』はいくつになっておりますか?」
「不明だね。僕自身とのレベル乖離が大きすぎると見えないんだよ」
「そうなのですか。この程度であっても今の世界ではそれなりの強さということですね」
「うん、まあ、はい」
「?」
それなりどころではない。
バジリスクですら詳細情報を取得可能だったソルの『プレイヤー』が通じない相手というだけで、相当な強さである事を保証しているといえる。
いやそれ以前にルーナの庇護下でなければ『邪眼』や『魅了』は相当な脅威だろうし、攻撃力だけが高くても勝てない相手がいるということはよくわかった。
淫魔は相手が悪かっただけであり、対冒険者パーティーで考えれば最悪の敵と言える。
精神操作系の魔法やスキルに対抗する手段を持っていなければ、喰らった時点で負けが確定するというのは『転移』魔法の流用に似ている。
怪物、化け物たちを基準にすれば、如何に人という存在が脆弱な存在なのかを思い知らされるなあと嘆息するしかないソルである。
それにただ単純な力押しの攻撃だけで言っても、淫魔が放った無数の光線の奔流を防ぐ手段などソルには思いつかない。
リィンの防御系スキルでなんとか凌げたとしても、都市へ向かっていた分については諦めるしかなかっただろう。
アレを何発も放てると仮定した場合、あっさりルーナが無力化したこの淫魔一体で王立軍程度であれば薙ぎ払えるということだ。
事実、ルーナがあのとんでもない竜砲とでもいうべき極太ビームで薙ぎ払っていなければ、城塞都市ガルレージュは今頃廃墟と化していたことは疑いえない。
ソルの想定している、自由に迷宮や魔物支配領域を攻略すための拠点を構えるのであれば、あの規模の攻撃を凌げるだけの用意が出来なければソルとルーナは逆に身動きができなくなってしまう。
そんなに多くないとはいえ大切な存在がないわけでもないソルとしては、自分とルーナがいなくてもすぐには陥落しない、少なくとも帰還までは持ちこたえられる強固な拠点を造り上げる必要があるということだ。
意気揚々と迷宮から帰還したら、拠点が壊滅していましたでは話にならない。
そのあたりも含めて、今夜のこの「デモンストレーション」がうまく機能してくれたことを祈るばかりのソルである。
「……ソル君、助けて」
普通に倒したらどれくらい「レベル」が跳ね上がるのか興味があるところだけど、それは『禁忌領域』の解放時でも充分かな、などと思いつつ眺めているソルに、フィオナの声と表情で淫魔が懇願する。
ルーナがびっくりしたような表情を浮かべたのは、まともな会話などできないくらいの苦痛を与えているにもかかわらず、淫魔がソルに語りかけたからだ。
ルーナには手も足も出ないだけではなく、逃げられないこともすでに淫魔は理解している。
『聖教会』が誇る逸失技術による不意打ちですら、苦も無く無力化して見せた本物の『邪竜』が与える死の咢から逃れる術などあるはずもない。
つまり淫魔が生き永らえられる方法は、ソルの慈悲に縋るしかない。
この恐るべき邪竜はソルが命じさえすれば、今この瞬間から淫魔と仲良くすることすらまるで厭わないだろう。
この場における最強、淫魔の生殺与奪の権を握っているのはソルなのだ。
「それ悪手だとは思わないんですか? ちょっと考えたらわかりそうなものですが」
だがソルが見せたのは嫌悪感だ。
当然だろう。
お世話になった恩がそれなりにある相手を喰い殺した張本人が、その姿と声を借りて命乞いなどしてきたら誰だって胸糞悪い。
「この女になる、から……淫魔の記憶と意識を封じて、この女の記憶だけにするから……だから……」
「なんの意味があるんですかそれ」
なにを言われてもソルは、いまさらこの淫魔を助命するつもりなどない。
だが言下に否定しつつも、今の淫魔の提案はなかなかに興味深いモノではあった。
本物のフィオナは死んでいる。
それも生きながらに喰われるという、冒険者でなければまず経験することのない凄惨な死に方でだ。
それは間違いないが、完全にその時点までの記憶を引き継ぎ、姿形や癖すらも完璧に継承した存在が自らの意志を放棄してなり切った場合、それはいったい何なのか。
そんなことが本当にできるかどうかは知らないが、実際にやられていたらソルは間違いなく躊躇しただろう。
淫魔はやり方を間違えたのだ。
提案するまでもなく、ただそうすればよかったのだ。
ルーナが今も与えている偽証など不可能な苦痛に晒されながら「私はフィオナです」と泣き叫んでいたら、もしかしたら存えていたかもしれない。
だがもう遅い。
「死にたくない……消えたくない……もう一度我が王に逢うまで、私は……」
「フィオナさんも死にたくなんてなかったでしょうね」
ソルは淫魔が抱えている希望や目的など知ったことではない。
それが淫魔にとってどれほど崇高でかけがえのないものであったとしても、そのためにフィオナを殺し、ソルをも殺そうとしたからには力及ばねば踏みにじられて当然なのだ。
己の目的の成就のために他者の犠牲をよしとした者は、己もそう扱われる。
それは何人たりとも逃れ得ない規律だ。
強大な力を得たソルであってもそれは例外ではない。
己の夢を叶えるためであれば邪魔になる他人の夢を踏みにじることを厭うつもりがない以上、それは覚悟しておくべきだとソルは思う。
だからこそ、殺すべきは殺すのだ。
自分が明日、見逃した相手に殺されることがないように。
「ああぁあ食べないであぁあやめてああぁ」
興味を失って踵を返したソルを合図とし、ルーナが淫魔を喰い始めた。
ソルはてっきり魔力で顕現させた真躰の咢で一呑みにするか、なんかこう吸収するような感じで「喰らう」のだと思っていたがどうやら違うらしい。
調子はずれの狂気を孕んだ淫魔の断末魔に混ざって、ぽきゅだのぱきゅだの水気をたっぷり含んだ音や、枯れ木が踏み折られるような乾いた音がいくつも聴こえてくるのだ。
それに合わせて、もはや官能的にさえ聞こえる淫魔の短い絶叫が重なる。
なにも知らずにそれだけを聞いていたら、先のアランとの情事の際にあげていた嬌声とも思える。
――ルーナが自分の口で直接喰ってるの!? うわあ見たくない!
ソルは決して後ろを振り返らないことを、強い意志で決めた。




