第042話 『全なる竜』①
深夜。
城塞都市ガルレージュの中央街区、その中でも一等地にあるひときわ立派なお屋敷。
その数多ある部屋の中で最も金のかけられた豪奢な寝室。
その空間に綯交ぜになって響く荒れた呼吸と途切れ途切れの喘ぎ声、汗に滑った肌が打ち合わされる音が、本来あるべき夜の静寂を乱している。
床に乱雑に脱ぎ散らかされた男女の衣服と、ベッド脇に置かれた小テーブルの上で倒れて高価な酒を零しているボトルとグラスから立ち昇る酒精の香り。
僅かな体臭と香水と酒精が混ざりあってどこか甘く漂うその空気が、部屋に満ちる淫靡な雰囲気をいや増している。
中天に差し掛かった今宵の満月からの光が室内を蒼と黒に染め上げ、きしきしと音を立てる天蓋付きのベッドの上で絡み揺れる男女の肢体、その陰影を艶めかしく浮かび上がらせている。
「クソっ。クソが。なにを偉そうに。ソルの分際で」
全裸の女を組み敷き、自らも全裸で汗に濡れながら悪態をついているのはアラン・ルイス。
元『黒虎』の副リーダーだった魔法使い。
そしてソルの幼馴染の一人でもあった。
相手と自らの汗で濡れた長めの蒼氷色の髪を額や頬に張り付け、上気したその顔に浮かんでいる表情には、口にしている強気な言葉とは相反して焦燥の色が濃い。
ソルが自分たちと袂を分かったその翌日に、はやくもあんなとんでもない力を得ていることは完全にアランの想定外だった。
要らなければ棄て、必要になればちょっと優しくすれば取り戻せる。
自分たち『奇跡の子供たち』の中での落ちこぼれ程度、アランにとってはその程度の認識でしかなかったのだ。
それがアランですら媚を売らねばならない大物冒険者をあんな目に遭わせるだけの力を、自分たちが捨てた翌日に手に入れているなど、あってはならないことなのだ。
この期に及んでも自分たちが捨てられた側だなど、アランは露ほども考えていない。
だがその力の持ち主が明言したとおり、ソル自身のものであれあの少女のものであれ、その力がソルの意志どおりに行使されるのであればそれはソルの力なのだ。
少なくともその力を行使される側にとって、なにをどう言い繕おうがその事実を変えることなどできはしない。
そして今アランは、その力を叩きつけられてもなにも文句を言えない立場なのだ。
昨夜ソルの屋敷にスラムの冒険者崩れたちを差し向けたのは、ほかならぬアランであるがゆえに。
そしてそのことを、己の迂闊さでまず間違いなくソルに悟られたという確信がある。
言わずもがなのことを言って自らの首を絞めたとしか言いようがないのだが、アランにしてみればあの軽口は今のソルの力を知る前にしたものなので仕方がなかったのだと自分を正当化している。
自己欺瞞をいくらしてみたところで、状況がなに一つ変わるはずもない。
だがアランにしてみれば、悪いのは昨夜ソルを始末できなかった馬鹿どもであり自分ではない。
アランが「ジュリアに治させればいい女になる」と密かに判断していたエリザがしれっとソルの配下に収まっているところを見せられれば、嫌味のひとつも投げつけるのは格上として当然の権利だとも思っている。
だが今アランを焦燥――より正確に言えば恐怖させている原因が昨夜からソルと共にいたのであれば、アランの言う馬鹿ども程度の手に負えるはずがないという現実からは頑なに目を逸らしている。
始末するのを失敗したのは残念だが仕方がない。
そう割り切って最低限、誰が仕掛けたのかを悟られさえしなければいくらでも次があった。
だがそれを自らの愚かさですべて破綻させたのだと内心では自覚しているがゆえに、アランは焦り、恐怖し、結果として酒と女に逃避しているのである。
そうでもしなければ、とてもではないが眠れない。
なによりも多くの冒険者たちの前でみっともなくへたり込み、実力はどうあれ見た目は獣人系の美少女に見下ろされながら、なにも言えなかった自分の姿が脳裏から離れない。
惨めでみっともなく、アランが見下す弱者を体現したような自らの醜態。
あるいはその羞恥があるからこそ、偽りの怒りで恐怖に震える本心を覆い隠すことができているのかもしれない。
「クソが!」
「ん……なに、を怒、ってる、の?」
「黙れ!」
激しい動きとともに乱暴に命じられ、自分でも嬌声なのか悲鳴なのか区別がつかない言葉にならない声を必死で女は噛み殺す。
アランに組み敷かれている女――フィオナは素直に口を閉ざし、乱暴に打ち付けられる腰からの快感によって我知らず漏れ出ようとする嬌声を唇を噛んで切なげに我慢している。
その表情がアランの嗜虐心を刺激したらしく、より一層激しく乱暴に動きながら滑らかなフィオナの濡れた首筋に、血が滲むほど強く歯を立てる。
「っや――」
快感と痛みに耐えて目じりから涙を流すフィオナをベッドに強く押し付け、獣の貌を浮かべたアランが低く唸りながら痙攣する。
動きを止めた男女二人からは、爛れた熱を孕んだ荒い吐息だけが発されている。
互いに弛緩した体には大量の汗が浮き、それが雫となり肌を流れて高級なシーツへと至って余韻の染みを生み出している。
呼吸が落ち着くにしたがって、倦んだような空気が広い室内を支配してゆく。
風呂を浴びるでもなく、清潔とはとても言い難いがこのまま怠惰に眠りに落ちてゆくことをアランは結構好いていた。
酒による酩酊と果てたことによる倦怠感がいい具合に混ざり合い、偽りの怒りで覆い隠していた恐怖を麻痺させて、アランがやっと睡魔に身を委ねられそうになったその時。
「こんばんは」
月光に切り取られたような蒼く染まった寝室中央の広い空間に漆黒の人影が顕れており、おかしな挨拶を投げかけてきた。
そんなものは寝室のドアの前どころか、せめて屋敷の入り口でするべき挨拶だ。
屋敷の主が女と同衾している寝室に突然現れてするものではない。
相手を馬鹿にする意図でもない限りは。
ちなみにソルにはそんな意図は特にない。
転移した瞬間に自分の想定外の状況が展開されていたため、終わるまで待って声を掛けようと思ったら、なんか普通の挨拶っぽいモノしか出てこなかったというだけの話である。
「だ、誰だ!?」
「きゃっ」
月光が射し込んでいる範囲は深夜とも思えぬほどに明るく、不審な人影を視覚で捉えることに苦労はしなかった。
だが自分たちがいるベッドもほぼすべてが月光に照らされており、アランとフィオナの裸体も正体不明者からは丸見えの状況だ。
フィオナはさっきまでの痴態をなかったことにしたかのような清純派のリアクションを見せているが、この時間に男の寝室のベッドの上で全裸な時点でいろいろ手遅れな気がするソルである。
――でもこのリアクションってことは、フィオナさんは最初から僕だと気付いてる、というよりも来るのは僕だとわかっていた感じだな。
まあ勝手に覗いておいての言い草としては大概ではある。
あえてベッドに入っているであろうこの時間を狙ったのはソル自身だし、表示枠でアランとフィオナを示す光点が重なっているのも確認できていた。
だがこんな遅い時間をわざわざ選んだのは、裸を見てしまう程度はおそらく仕方がないにせよ、出来るだけ顔見知り同士の生々しい情事など見たくなかったからだ。
にもかかわらずタイミングとしては最高潮にドンピシャになってしまった。
開戦がずれ込んだのか、元気にワンスモアだったのか、あるいはその双方なのかは知らないが、正直勘弁してほしい。
ルーナの情操教育としても甚だ不適切だし、知り合い同士だとエロいというよりも生々しすぎてなんというか笑えるというか見たくなかったというか、げんなりしてしまう。
一方のルーナは興味津々で鼻息荒く遠慮なく凝視していて、ソルとしては今更目を覆うのもアレなので放置するしかなかったのだ。
わりとシリアスに「起きろ」と言うのを一言目に決めていたのに、いたたまれなく終わるのを待った上で「こんばんは」などという間の抜けた声のかけ方になってしまったのも地味にキツい。
実はわりと悔しいソルなのである。
「あれ? 僕以外にもこんな顕れ方ができる奴がいるのかな?」
だがそんなことを悟られるわけにはいかないので、内心を隠して飄々と嘯く。
「ソルか!」
「そうだよアラン」
ここで「だから誰だ!」と重ねられでもしたら残念もここに極まれりといったグダグダっぷりだが、アランはきちんと言い当ててくれた。
その声には驚きと非難と恐怖がいい具合にカクテルされていて、なんとか状況をシリアス寄りへ戻すことに寄与してくれている。
その問いにそっけなく答えた自身の声も含めて、間抜けな導入をなんとかなかったことにできるかとソルが期待したその直後――
「主殿、主殿! 今のが夜伽というやつですね? そうですね? 我は覚えました!」
ソルが会話を始めたことで自分も話していいと判断したルーナが、瞳を輝かせて鼻息も荒く、せっかく緊張感を取り戻しつつあった空気を完膚なきまでに台無しにしてしまった。
「……うん、ちょっとルーナは黙ってようか」
「はい」
どうやらシリアス展開はもう不可能らしいとソルは思わず天を仰ぐ。
――アランを――幼馴染を自らの意志で殺す夜なのに、どうにも締まらないな。
であれば、せいぜい冗談のように死んでもらおうとソルはすぐに思いなおした。
誰に唆されていたのだとしても、自らの意志で先に幼馴染を殺そうとしたのはアランの方なのだ。
それをやり返されたからと言って、まさか文句はないだろう。
それにソルは別にアランを拷問をしようなどとは思っていない。
ちょっとした実験――『プレイヤー』が力を与えている相手が殺された場合、どんなフィードバックが自身に発生するのかを確認するのにちょうどいいと思っているだけだ。
それすらもどちらかと言えばついでの範疇であり、本命はアランを唆した黒幕――まず間違いなくフィオナ・バニスターの方である。
その正体と、できれば背後にいる組織までを引きずり出せればベストと言ったあたりだ。




