第031話 『ピグマリオン』②
その信じられないような体験をしてしまえば、今のエリザのようになってしまっても無理なからぬことと言えるかもしれない。
ヨアンとルイズに至っては、昨夜死体の処理をしていた時よりも青白い顔をして完全に俯いてしまっている。
エリザたちにとってなにが一番怖かったかといえば、高級店で売られている商品たちには値札が付いていないことだった。
気楽に「これいいんじゃない?」とか「似合いそうですよね」などといった会話を交わす、ソルやリィン、ジュリアの金銭感覚がまったく理解できない。
総額がいくらになっているかもわからないのに、「じゃあ今までに選んだものをすべて貰います。エリザ、ヨアン、ルイズ。今着替える服を適当に選んで。トータルコーディネートは店の人に任せればいいから気に入ったのをどれか一つ選んでくれればいいよ」とか言い放ったソルが、下手をすれば昨夜噴水の上に浮いていた時よりもなお怖い。
『高位冒険者が本気になったら口説けない女はいない』などと嘯く冒険者の話を聞くたびに女性として腹立たしい思いをしていたエリザなのだが、やっと今その本当の意味を理解できた気がしている最中である。
――つまりあれは女性を馬鹿にした言葉というよりも、高位冒険者という存在がどれだけとんでもなく稼ぐのかということを、敢えて露悪的に表現していた言葉だったのですね。
エリザがそう思ったのは、女の部分を男に入れ替えても問題なく成立することを思い知ったからだ。
恋愛感情という真摯な想いを軽視するつもりなどないが、とどのつまり金とはその者が持つあらゆる力が兌換され、他者との価値の共通化がなされたものだ。
高位冒険者が「本気になる」とはつまり、想いはもちろんその力の全てを掛けてでも口説きたい相手ということで、ある意味軽視とは真逆の評価でもあるとも言える。
度し難い男どもの、巧くもなんともないテレ隠しとさえ言えるのかもしれない。
だからといって気にくわない言い回しである事に変わりはないのだが。
だが気にくわなくとも貴女にはそれだけの価値があるんだよと、見栄でもなんでもなく湯水のごとくお金を使うことで明示されるという行為が孕む、まるで麻薬の如き快感には抗い難いものがある。
実際にされてみなければ、この感覚を共有するのはとても難しいだろうとエリザは思う。
この散財がエリザの「女としての魅力」の対価として行われていたとしたら、物で釣られる女じゃないわと毅然と切り捨てられる自信は正直なところあまりない。
そういった打算だけではなく、これだけのお金を自分に使える相手の不興を買うことに恐怖を覚えるのも事実だろう。
だからこそヨアンとルイズは真っ蒼になっており、エリザですらソルの目を見て話せないという状況になっているのだ。
投資とはつまり期待である。
エリザたち3人はソルの言う実験の被験者としてこれだけの投資に値すると期待されており、それに見合うだけの成果を上げられなかった時に自分たちがどうなるかを考えると思わず吐きそうになるのだ。
「女としての魅力」に対する投資なのであれば、極論我が身を差し出せばそれで済む。
だがそうではないことを知っているだけに、エリザたちに圧し掛かる重圧は半端なものではないのだ。
ソルに差し出せるものなどなにも持っていないと思っているだろう男であるヨアンが、最もキツさを感じているのかもしれない。
昨夜は奇跡を見せつけられた。
冒険者崩れの強者たちを瞬殺し、神様がそうするように自分たちに力を与え、ほんのついでのようにエリザの傷を治してくれた。
だからこそその時には心の底から崇拝していればそれでよかった。
だが昨夜ソルが口にした「報酬」とも違う、ただの「投資」として俄かには信じられない、そのくせ奇跡とは違ってどうしても生々しさを伴う大金をつぎ込まれるということ。
それがここまでの重圧になることを、エリザたちは初めて体験するとともに理解したのだ。
絶対者からの期待とは、凡人にとってとてつもなく重い。
欲しい物をなんでも買ってもらえてやったー! では済まされない。
「どうした?」
買い物の途中から明らかに様子がおかしいエリザを本気で心配してソルが声をかける。
その普通さこそが、今では怖いエリザである。
正直自分たちの支配者なら支配者らしく、もう少し傲慢に振舞って欲しいものだとさえ思ってしまう。
「ソル君。初心を思い出しましょう」
「?」
呆れたようなリィンの忠告を俄かには理解できなかったソルだが、ジュリアからも笑われて自分がなにを言われているのかを自分なりに理解したらしい。
「べつに無駄遣いをしたつもりはないんだけどな」
珍しく不満そうな表情を浮かべているソルは、一日でこれだけの買い物をしたことをしっかり者の幼馴染二人に責められていると勘違いし、それは妥当なものだと反論したのだ。
違うそうじゃない(リィン)
なにもわかっていない(ジュリア)
ああぁ(エリザ)
…………(ヨアン&ルイズ)
リィンが指摘したのは、必要だからといって買えないことがほとんどなのが普通であって、それは昔の自分たちもそうだったでしょうという意味だ。
そんな立場の人間が、一方的にこれだけのお金を使われることがどれだけの重圧を与えられることになるのかくらい、想像できるでしょうと。
「その辺は変わらないね、ソルは」
呆れたように天を仰ぐリィンを笑いながら、ジュリアがそれもソルらしいと口にする。
「必要だっていうのはわからなくもないけど、躊躇いとかそういうのはないの?」
「必要なものを買えるのに買わない意味が解らない」
だがいくら必要だと判断していると言っても、今日これまでにソルが使った金額は相当な額に上る。
同じ村出身の『黒虎』の中では自分が一番散財しがちだという自覚があるジュリアでさえ、昨日知ったばかりの相手にこれだけのお金をつぎ込むことには普通に抵抗を覚える。
だがソルは本気で不思議そうだ。
おそらく昨日までのソルであれば、ジュリアの今の感覚を理解してくれていた可能性が高い。
つまり今日のソルはすでに、エリザたちが裏切るかもしれないという可能性を一切考慮する必要がなくなっているということだ。
人が裏切るのは、そうした方が自分にいろんな意味で利があると考えるからに他ならない。
その可能性を一切排除できるだけの絶対の力――ソルに従っていることこそが己にとって一番の利益なのだと、他人を確信させられるほどのもの――を手に入れたということだ。
あるいはそれに伴い、金というものに対する価値観がまるで変わってしまっているということもあり得る。
今のソルにとって金など、必要であれば必要なだけいつでも手に入れられる程度のものになり下がっているということだ。
「我にも主殿の言っておられることは正しく聞こえるのだが……」
「正論ですね、はい」
そのソルが手に入れた力そのものである『邪竜』もまた、リィンとジュリアの言っていることがよくわからないという表情を浮かべて首を捻っている。
それがどことなくおかしくて、ジュリアはなぜか安心して笑ってしまった。
ジュリアがルーナに言った言葉はべつに嫌味などではない。
正論を押し通せるだけの力を持つ者にとっては、それ以外のものはすべて屁理屈に過ぎないのだから。
それに絶対的には大金とはいえ、相対的――ソルの総資産からすれば微々たる金額である事も間違いない。
これからエリザたちに買い与える装備を、『黒虎』で使用していたものと同等のものをとソルが考えているのであれば、これまでに使ったお金など確かに端金に過ぎない。
――普通に一等地にお屋敷が建つものね、私たちの装備一式って。
ちなみに全員分でという意味ではない。
一人一人の装備一式それぞれで、ガルレージュであれば相当な屋敷が建つ。
特に盾役と回復役であるリィンとジュリアの装備には頭一つ抜けて金がかかっている。
それでも不平ひとつ言うこともなくリィンとジュリアが装備を更新していたのは、もちろん直接命に係わることだからというのが大きい。
だがソルが必要だと判断した武器防具を自分たちが買い揃えることが可能な経済力が、そのソルのおかげだと理解していたというのが一番だろう。
そうではなかったマークやアランは、武器はともかく防具に関しては手を抜き始めていたし、店も自分で選ぶようになっていっていたのだから。
とにかく本質的な意味において、絶対者から一方的に施されることへの感謝と重圧を知っている身としては、エリザたちを羨むよりも気の毒に思う気持ちの方が強くなってしまうリィンとジュリアなのである。




