第281話 『封印者』①
ソルたちがサンテシェセル海に存在していた最終迷宮の最初の階層で、金色の多頭蛇を踏み潰していたその同時刻。
観光都市サン・ジェルク第27代都市総督ケントレル・ヴァン・スタントンは豪奢な執務室の中で朝から一人、深く懊悩していた。
ケントレルがその肥え太った身体で座している、公僕にあるまじき豪奢な机と椅子。
いやそればかりではなくこの部屋、いや総督府である建物そのものが、そこらの小国の王宮など足元にも及ばないほどの贅を尽くされている。
それこそが経済規模こそ東ポセイニア都市連盟の五大理事国には遠く及ばなくとも、その利益率においては突出した数値を誇る観光都市サン・ジェルクの経済力を、誰が見ても一目でわかるほどに喧伝しているのだ。
それほどの経済力を持つ都市の総督ともなれば、それこそ中小国家の王族などよりもよほど絶対的な支配力を持っている。
たとえどのような選出形態をとっていようが人が人であることを超越できない限り、組織は上から腐り、それが常態化するという宿痾からはどうしても逃れられないのだ。
一代限りの比較であれば、時に専制君主の方がよほど清廉で民に寄り添う為政者であることもそう珍しいことではない。
だいたい規則としては数年に一度、民意によって総督を選出される方法になっているにもかかわらず、定期的に実質は終身総督が生まれてしまうからこそ、その長い歴史のわりにはケントレルでまだ27代目なのである。
そして現総督であるケントレルもまたその例に漏れず、体調問題などで自ら引かない限りは原則二期に制限されているはずの総督職を続けられる体制を構築し終えている。
つまりこの時代の観光都市サン・ジェルクにおいては、総督という仮面を被った専制君主というやつである。
民主主義は衆愚となり果て、法治とは暴力での支配が被っている帽子に過ぎない。
組織や仕組みが人を変えることなど本質的にはついぞありえず、人そのものこそが変わらなければ、それが集団形成する社会が変わるはずがないというのは摂理といってもいいのだろう。
まあだからこそケントレルの悩みは深い。
真っ当といっていいのかどうかは論議が分かれるところではあろうが、2期を務めあげればいいだけなのであれば、次代へ丸投げする判断をしていたことは間違いない。
だが自分が自分の意志で引退するまでこの観光都市サン・ジェルクを支配するつもりのケントレルとしては、ソル・ロックという絶対者の存在を無視することなどできるはずもないからだ。
「ええい、頭の痛い……あれだけの力を持っているのであれば、いっそ神の如くあってくれれば諦めもつこうというのに……」
黒檀の机を丸々とした指でコツコツと叩きながら、苦渋に満ちた表情を浮かべている。
『聖教会』が束ねた大陸中の国家を敵に回したエメリア王国を、たった一国で戦勝国と成した実力は嘘でも冗談でもない。
その上、本来人の身では諦めるしかないような津波や暴風という自然災害――原因が魔大陸の浮上であるとはいえ――をただの一人の犠牲者も出さないどころか、東沿岸部の社会的経済基盤にもほとんど被害を出すことなく防ぎきってみせたのだ。
ケントレルが口にしたとおり、その力のみで言えば神にたとえても誰も文句は言えまい。
いやすでに聖教会をすらも支配下に置いたソル・ロックのことを、現人神だと崇め始めている連中も相当数存在していると報告を受けている。
ケントレルとて一個人としてなら、ソルのことをお気楽に顕現した神の化身だと信じたくもなることを理解できなくもない。
だがケントレルは自らを支配者階級であると自認している。
だからこそ神の如き力を持った存在ですら、己を支配者階級たらしめてきた手練手管で御せると思いあがってしまうのだ。
とはいえ今回はそう簡単に楽観的になれるはずもない。
「もしくはわかりやすく俗物であってくれれば……」
社会的地位、金、女。
もしくは支配者階級たちが頭を垂れ、膝を屈することそのものに快感を覚えるようなただの「力持ちのバカ」であれば、支配は無理でも制御程度であればなんとでもなると思える。
だがソルとやらはどえらい美人を揃えたハーレムを拵えながら、その手のお誘いにはまったく興味が無いとしか思えない答えしか返してこない。
ケントレルとしては、どれだけ美人であっても二桁に届くか届かないか程度の数で満足してしまうようでは、扱いにくい相手としか思えないのだ。
「まあ現状でも悪くはないとはいえる。だが都市内であれば問題なくとも、東ポセイニア都市連盟のことも考えれば、今一歩踏み込んでおきたいところなのだが……」
確かに現状でもサン・ジェルク内に絶対者の支配地域を持ち得たことは僥倖である。
ただソルが「無下には扱わない」から、「多少は優遇しよう」と思えるくらいの関係を構築しておきたいというのも紛れもない本音である。
ありがたい幸運を最大限有効活用することも出来なければ、支配者階級であり続けることなどできはしないのだ。
「……やはり女しかないか」
ハーレムを拵えている以上、女嫌いではありえない。
であればすでに調査が済んでいる「ソル・ハーレム」にいないタイプの美女を少々強引にでも送り込めば無下にはすまい。
己の価値観でそう判断し、その指示を出そうとケストレルが立ち上がろうとした瞬間。
「――貴方のその心配の種は、すぐにいなくなりますよ」
突然ケストレルが聞いたことのない声が、どこかお気楽に安請け合いするような言葉をつぶやいた。




