第205話 『僑軍孤進』③
エメリア王家が誇る『絶対障壁』には及ばずとも、たとえ崩されても自ら再生するその強大な城壁は、壁なき上空までも魔力の壁を以て外部からの侵入を許さない。
記録にこそ残されてはいないが、実際に世界宗教である『聖教会』が誇る逸失技術兵器、『攻撃衛星』からのレーザー攻撃ですら防ぎきるだけの防御性能を誇っている。
だがその存在意義は、実はまるで逆なのだ。
高く固い城壁も、人知を超えた再生能力も、飛行能力を持った魔物どころか、逸失技術兵器による攻撃をも凌ぎきる魔力障壁も。
そのすべてはその内側に抱え込んだ『巨大迷宮』から、地上の魔物など比べ物にならない強力な個体を外に逃がさないためにこそ存在している。
大国の王家や皇室の始祖たちは、それがあった場を首都として利用したに過ぎない。
各国の始祖たちは、その事実をもちろん知っていたのではあろうが。
あるいは世界を滅ぼし得るような魔物を湧出させる『四大迷宮』を管理していた古代のいわば『迷宮護り』たちこそが、今に繋がる四大大国の祖たちなのかもしれない。
つまり四大迷宮で湧出する魔物たちは、他の迷宮、魔物支配領域で湧出する個体の定石に縛られていないのだ。
自らが湧出した場所、階層からなぜか離れたがらないという本能を宿しておらず、己が気の向くままに地上に溢れ、人も動物も、あるいは同じ魔物でさえも意に介さずに蹂躙せんとするいわば「奇行種」ばかりということだ。
それは今からラルフが接敵する、『門番』とても例外ではない。
うっかりラルフが殺され、四大迷宮の魔物たちを千年の長きに渡って封じてきた『封印門』を再び閉じることに失敗すれば、最悪200年前の大厄災、『国喰らい』による七国消滅を超える惨事が、エメリア王国の首都から始まることにもなりかねない。
当然他国はもちろん、『聖教会』や『冒険者ギルド』にこの暴挙が知られれば、エメリア王国は大国とはいえ国際社会において窮地に追い込まれてしかるべき冒険。
まさに危険を冒す行為に、今からエメリア王国は――ラルフは挑戦せんとしているのだ。
ラルフは王家がそこまでして、自国が抱える最大迷宮の攻略をしたがっている理由など知りはしないし、正直興味もない。
別にラルフはソルとは違い、迷宮の最奥を自分の目で見たいなどとは思っていないのだ。
だが今封じることができているから、それが千年もの間続いているから、当然それが明日以降も続くと疑いなく信じていないあたりは流石だと思っている。
なにもしなくても昨日までと同じ今日、今日と同じ明日がずっと続く。
そんな都合のいい「平和」がこの世にない事を、もうとっくにラルフは思い知らされているのだから。
どうあれエメリア王国の悲願である『巨大地下空間』の攻略、その緒をつけるだけでもラルフはエメリアにおいて揺ぎ無い英雄と見なされ、その褒美になにを望んでも認められるであろうことはすでに理解している。
そう大した利益を生み出さない辺境の町であろうが、大規模輸送経路から離れているために衰退の一途をたどっている過去の商街であろうが、強大な隣国と接しているために日々緊張して暮らしている国境城塞都市であろうが、至近距離に魔物支配領域が存在しているため、稀にはぐれの魔物に蹂躙される寒村であろうが。
ラルフがそれが褒美なのだと望めば、王家は喜んで王立軍を派兵するだろう。
金にならないことなど百も承知で、本音では取るに足りないと思っている、貧しい暮らしを強いられている領民たちを全力で護ってくれる。
彼らが晒されている脅威が本質的に制御不可能である魔物に起因するモノではなく、同じ人間である他国との軋轢であるならば、最大限の譲歩をしてでも取り除くように立ち回ってもくれるだろう。
ラルフが国家がそう行動して失う以上の利益をエメリア王国にもたらしてくれるのであれば、一見して無駄に見えるその行動こそが、国家としての最大利益の追求になるのだから。
例えばラルフが冒険者としてどれだけ強くなったとしても、守れる対象は己が身一つだけでは限界がある。
だからこそラルフの夢――辺境の貧しい人たちが安心して暮らせるようにすること――を叶えるためには、強大な『個』による圧倒的な利益を膨大な数の軍を擁する国家に与え、その見返りとして絵空事のような「優しい国家」を、「そうした方が得だから」という理由で成立させる必要があるのだ。
なにも知らない子供が思い描くような甘い理想を夢としていながら、ラルフがその実現のために選んだ手段は、この上なく実際的なものだと言えるだろう。
貧しい者たちが豊かさを目指して平和に安全に公平に――まっとうに暮らせる理想の楽土は、それこそが本来あるべき正しい在り方だからこそ、地上に顕れるのではない。
そうした方が得だと、支配者階級にある者たちが判断するからこそ成立するのだ。
神ならぬ人が「理想」を成立させられるとするならば、それはやはり神の摂理によるものではなく、動物の本能が折り合いをつける形でしかありえない。
人の世の地獄は正しさとやらによって導かれ、楽土は人の欲によって招かれる。
それが現実というものなのかもしれない。




