第125話 『秘匿神殿圕』③
「すごいね」
「綺麗です」
「♪~」
水面に没したソルが思わず口にした言葉に全竜であるルーナも同意し、妖精王であるアイナノアも機嫌よさそうにしている。
確かにそれほどに幻想的な光景だ。
まだ深度が浅いあたりでは頭上から差し込む陽光でゆらゆらと輝く様子も美しかった。
だがその光が届かぬほどに深度が深くなれば、ところどころに浮かんでいる水面上にもあった石の立方体が魔導光を発していて、水の蒼と光の碧が綯交ぜになって仄明るい。
その光に揺らめく水に没した無数の書を並べた石造りの書架の連なりは、現実感を欠くがゆえにこそ美しい。
今の世界とは断絶されてしまった別の世界の叡智たちが、その世界が遺した最後の奇跡で人知れず水底に揺蕩っているという想像を誰しもに想い描かせる。
『全竜』も『妖精王』も空と地上に生きる魔導生物ゆえか、あたかも初めて水族館を訪れた子供のようにその目を素直に輝かせている。
「フレデリカ様が見たら、正気を失いそうですね」
「目に浮かぶよ」
珍しくルーナの方から仲間たちの話題を振ってきたので、ソルは思わず笑ってしまった。
ルーナの言うとおり、もしもここにフレデリカがいたとしたら、常に王女らしくあらんと律している自制心が崩れて、歴史ヲタクの本性がむき出しになってしまうだろうと思ったのだ。
ソルの視界に入る無数の書架に並べられた膨大な『書』が、その一瞥を受けて魔法のように消えていく様を見ればそうもなるだろう。
ソルの『異相空間』をすでに知っているフレデリカにしてみれば、人の身では一冊たりとも手に取ることが出来ぬように封じられている人が時を重ねて得た叡智が、すべて自分たちの手元に確保されて行っている光景に他ならない。
遥か古の時代にあったことに想いを馳せ、それを紐解くことに知的充足感を得る、知に遊ぶ贅沢さを知るフレデリカであればこそ、それは抗い難い快感となる光景なのだ。
「ふふふ」
「♪~」
機嫌よさそうに笑うソルを見て、ルーナも嬉しそうに笑う。
懐いているソルとルーナがご機嫌なので、アイナノアも機嫌がいい時に発する高音の澄んだ声を出している。
普通の海底であれば景色を彩る魚たちの代わりに、次々と消えゆく書の乱舞を愉しみながら、水中散歩を楽しむ3人。
だが――
「いや、いくらなんでもこれは……」
一定以上の深度を超えた時点で、一気にその空間は広がった。
今までの円筒が巨大な球体に通された通路の如く、広大な空間が一気に広がったのだ。
おそらくは千年ぶりに『秘匿神殿圕』への来訪者を感知し、その空間に存在するすべての石の立方体が発光を開始し、普通の人間であれば見通せないほどの球形外縁に幾重にも光の線が浮かぶ。
ついでに不法侵入者撃退用であろう巨大な白鯨がゆらりと近づいて来はしたが、全竜と目があうと逃げて行ったので見逃すことにした。
人語を解するかもしれないし、この場の主であるというのであれば後で話を聞きたいとソルが判断したがゆえだ。
もしもそうでなかった場合、一撃で屠られて魔物素材となる末路である。
とにかく球状の外周はすべて書架となっており、無数の「書」で埋め尽くされている。
当然内部になにもないというわけもなく、浮島の様に重なり合った書架の塊が、それぞれ一つの分野専用の如く無数に浮かんでいる。
ソルの様な素人目で見てもその量は異常であり、一人の人間がすべてに目を通すことなど到底できないだけの規模だ。
「主殿の『異相空間』にも収まり切りませんか?」
「いや、それは平気だと思うけど……現時点ですら総数が3億冊を超えている」
「書」がそれだけある事の意味がソルにはピンとこない。
だが単純に一日に一冊読むとしても3億日、つまり82万年以上かかる。
それもあらゆる言語で記されており、ただ読むだけではなく理解することも必要となれば、一日一冊読破することなど現実的でないことは明らかだ。
つまり今の時点でも、一人の人間には「識る」ことのできないだけの智が集まっているのだ。
それに数十倍する量があるとなれば、さすがに絶句せざるを得ない。
「……人が己の欠片を次世代へ繋がんとする執念は恐ろしいものですね」
「……だね」
自身が永遠に近い時を生きる竜種たるルーナの感嘆に、ソルははっとした。
確かに全竜や妖精王であれば、ここに収められたすべての書を自身で読み、己が血肉とすることも可能なのだ。
だがこれを記した膨大な数の著者たちは、自分がいなくなった先の同じ人にそんなことが可能だとは思ってなどいなかっただろう。
自身の人生を賭した結論、あるいは道半ばの蓄積を、誰とも知れぬ「次」へどうしても繋ぎたかったのだ。
だからこそ「書」という形で、己の欠片を残す。
たとえ誰もそれを拾い、継いでくれる者がなくともだ。
その想いの集積の果てこそが、この『秘匿神殿圕』なのだろう。
「でもこれは……」
だがソルは普通の人ではない。
神の如きといわれる能力『プレイヤー』をその身に宿した特異点だ。
それゆえに普通の人はもちろん、竜種や妖精族といった長命種にも不可能なことでも可能となっている。
ソルの周囲に無数に浮かんでいる表示枠に映されているのは、これまでに『異相空間』へと格納した『書』の数だけではない。
その題名、分野、作者などが簡易に振り分けられ、大部分がソルの読めない字で記されているそれらを原書は残したままに情報として翻訳し、再編集を仕掛けている。
まるでこの『秘匿神殿圕』が、『プレイヤー』を宿した者専用の、あらゆる世界が遺した知識の専用保存領域だとでも言わんばかりに。
だがソルが適当に選んだタイトルの中には、翻訳されてなお理解できない言葉が多数確認できるのだ。
「アヴリオ銀河星系開発記」「時空跳躍理論覚書」「銀河系宇宙記録AD3487」etc、etc。
理解はできない。
だが違和感だけは感じる。
この世界に在ってはいけない「書」が、ここには平然とあるというような違和感。
「どうかなさいましたか?」
「……いや、とりあえず全部回収しようか」
「? はい」
不思議そうに首を傾げるルーナに、ソルはぎこちなく笑って答える。
自分だけではなく、ここはすべてを回収した上で、フレデリカやイシュリーといったこの手に詳しい人間、加えて魔族であるクリードやエメリア王国の王族たちの力を借りた方がいいと判断したのだ。
ここで考え込んでいても埒は開かない。
「ここが底、だね」
「この『秘匿神殿圕』は球形ということですね」
「そういうことだね……でも最深部には書架がなくなっている」
そう思い定めて広大な水中を、書を回収しながら底へそこへとソルたちは沈んでいった。
深度が一定を超えると再び外周が狭くなってきたということは、ルーナの言うとおりこの空間は球形を成しているのだろう。
だが底に着く頃には周囲はのっぺりとした壁となり、書架は消えている。
水中に浮かぶ島の様な書架の塊も姿を消し、静謐な水面の底で、魔導光に照らされたなにかが中心に存在している。
「中心にあるあれは……」
「書見台、かな? でも肝心の書は置かれていないね」
正しくは聖書台である。
つまりそこへ据えられていたのは間違いなく聖教会の『聖書』なのだろう。
ここが聖教会の信仰の中心地とされる聖地であり、これだけの仕掛けで大げさではなく「すべての書」が護られている『秘匿神殿圕』であるからには不思議なことではない。
だがその『聖書』は、ソルの言葉通り失われてしまっている。
ただぽつねんと聖書台だけが遺されている。
その周囲には壁面から生えている無数の鎖――その大きさこそ違えど、『召喚』の際に全竜の真躰を縛っていたそれと酷似している――が引きちぎられて水中に揺れている。
「これはいったい……」
少なくとも千年は誰も訪れていないはずの『秘匿神殿圕』である。
つまり千年前――『封印されし全竜』、『囚われの妖精王』、『死せる神獣』、『虚ろの魔王』、『呪われし勇者』、そのすべてが関わった『勇者救世譚』の時点ではすでに『聖書』は失われていたということになる。
それを成したのは何者なのか。
ソルが自分の思索に沈みそうになったタイミングで、緊急用の表示枠が突然浮かび上がる。
ソルが仲間としている者たちの誰かが、ソルと早急に会話する必要が生じたということだ。




