第104話 『支配者』⑤
「あ、じゃあ……そういう意味でも後宮って厳しいよね」
「そうなんだよ。そうなった時のことを考えると正直ぞっとする」
若いがゆえの潔癖性や、男と女の仲に夢を見たいという理想だけではなく、そういった実際的な判断も含まれているとなればソルが後宮に対して積極でないことにも納得がゆく。
「だけどそういう考えがなくても、ソル君が後宮にピンとこない、私たちと迷宮を攻略する方が優先だって言ってくれるのは、正直に言うと嬉しいな」
であればリィンとしては後宮否定、もしくは先送りに一票を投じたいことは当然だと言えよう。
そうなれば少なくとも当面の恋敵が、指数関数的に増加していくことはなくなる。
今の恋敵たちですら強大過ぎるのに、これ以上増えていいことなどなにもないのだ。
ジュリアの言う「そういう仲になってから好きになることもある」というのが事実の一端であるならば、後宮で出逢っていろいろな相性がピッタリだった結果、一足飛びに正妃になられる可能性もなくはないのだから。
「だったらそれを押し通させてもらおうか。僕がピンとくるまで後宮はなしで」
「大丈夫なのかな?」
「今は手一杯とでも言っておけば、しばらくは大丈夫じゃないかな?」
フレデリカがどう判断するかはまた別として、確かにソルの言いようは充分な説得力があると言わざるを得ない。
フレデリカ。
ルーナ。
アイナノア。
エリザ。
おこがましいとは思いつつも、そこに自分も加わる。
政治的な思惑を置くのであれば、一人の女の子としてはそんなところへ愛妾候補として割り込んでいくのはさすがに御免被りたいだろう。
すでにある程度の信頼関係が出来上がっているのは確実で、その上とんでもない美女ぞろいとなれば、自分にどれだけ自信のあるお嬢様であっても気後れしてしまうはずだ。
特にルーナとアイナノアの文字通り人間離れした美貌には太刀打ちできるとも思えないし、もはや最大国家のお姫様であるフレデリカや幼馴染であるリィン、ソル自らが選んだとされているエリザが揃っているのだ。
まじめな顔をしたソルに「しばらくは手一杯だ」と言われれば、ほとんどの者が「そうですよね」としか答えられまい。
実際はそういう関係ではないことなど、傍から見ている分にはわかりはしないのだから。
それにフレデリカが最も円滑に物事を進められる方法として「後宮」という手段を考えていた時とは、明らかに状況が変わってしまっている。
聖教会や汎人類国家連盟を正面から敵に回さず、うまく味方に取り込むがための手段だったわけだが、もはやそんな必要はどこにもないのだ。
聖教会は事実上瓦解し、汎人類連盟は頭を垂れて膝下に平伏している状況。
ソル・ロックという絶対者は今、まごうことなく人類社会の支配者なのだ。
その意に染まぬのであれば、後宮などつくらずともまるで困らない。
ソルとしてはそんなことよりも、本気で心の底から楽しみながら日々大陸中の魔物支配領域を解放し、迷宮の深部を攻略し、その成果によって人の世がより豊かになっていく様を見せつけることで、充分人心は得られるとも思っている。
事実、支配者が後宮で美女と戯れるのに夢中になって安心するのは既得権益者たちだけであって、市井に暮らす者たちではないのだ。
その方向性に不満はないリィンだが、それをいいことにまたしてもまったく関係性が進捗しない状況に陥ることも避けたい。
自分が思っていたよりもソルにとって近い位置にいることを知れたことは大きいが、それでも恋敵たちが強大である事には変わりはない。
藪をつついて大蛇が飛び出す可能性はあれど、虎穴に入らずんば虎児を得ることもまた叶わない。
となればここは踏み込んでおくべきだとリィンは判断した。
「でも、そーゆーことに興味はあるんだよ、ね?」
「……そりゃまあね」
よって少々唐突な感は否めなけれど、ここは強引に年頃の男女らしい、くだらなくも大切な話題に切り替える。
「えっと……私と一度、試してみる?」
「……まだちゃんと好きにはなれてないのに?」
さすがに想定外のリィンの大胆な発言に、ソルがあからさまに引いた表情を見せる。
しまった踏み込み過ぎたかと後悔しても、覆水はもはや盆へは返らない。
それに引いていることは事実でも、同時にソルが僅かに赤面していることもまた事実。
「娼館で知らないお姉さんと試されるよりはマシ、か、なぁ……」
「――すっごいこと言うねリィン」
毒を食らわば皿までと今一歩踏み込んだリィンの発言にさすがにソルも虚心ではいられないらしく、盛大に狼狽している。
ソルにしてみればもうちょっと手前のあれこれについてかと思っていたら、いきなり娼館などという生々しさが過ぎる単語が飛び出したのだから無理もない。
後宮がどうのこうのの話をしておいて、今さらという話ではあるのだが。
「ジュリアがね!? そういう関係から、好きになることもある、とか? 言ってて?」
「……経験者の発言は重みが違いますな」
「……ね」
リィンにしても勢いがつきすぎて踏み込み過ぎただけなので、これ以上具体的な話に持っていけるような術も経験値も持ち合わせているはずもない。
ジュリアという助言者の存在を明らかにして、二人して沈黙してしまうことしかできなくなってしまっている。
前半のわりと真面目な話題に対して落差がひどすぎるとも言えるが、17歳の男女として考えればこちらの方が本来の姿といえるのかもしれない。
だが――
『乳繰り合っているところを邪魔してすまぬが、御身にお願いがあって罷り越した。伏してお願い申し上げるゆえ、某の話を聞いてはいただけまいか』
この居た堪れない空気を救おうとしたわけではないのだろうが、突如第三者の声が空気を震わせることなく、直接二人の脳内へと響く。
ソルとリィンが思わず見つめ合ってしまったことからしても、双方にこの声が聞こえていることは間違いない。
だがここは個室なのだ。
リィンは純粋な疑問を以てきょろきょろと周りを見回している。
だがソルはそれ以上に真剣な面持ちで同じく周囲を確認し、複数の表示枠を浮かべて全周を警戒している。
『プレイヤー』の警戒網を掻い潜り、そればかりか今この瞬間にルーナがここへ転移して来ていないことからも、全竜ルーンヴェムト・ナクトフェリアの結界内に、それと知られることなく侵入可能な存在が話しかけてきているということだからだ。
その内容が下手に出ているものであろうが、警戒せずにはいられない状況である。
『言葉通り伏しております。御身の足元です』
だが二人がかりで周囲を確認しても発見できない状況に対して、飽きれたような響きを含んだ声が今一度響いた。
これでソルの緊張はほんの少しマシになった。
最初の声を含めて二度も向こうから話しかけてくるということは、少なくとも先制攻撃の意志はないと看做すことができるからだ。
その気であればすでに初撃は放たれていて然るべきだろう。
「なにこの子、すっごく可愛い!」
「えー」
だが言葉通りに机の下をのぞき込んだ結果発見し、リィンが抱き上げた小動物に対する意見はソルとリィンでほぼ正反対らしい。
この世界には本来存在しない漆黒の「猫」そのもののその姿は、確かに可愛らしいと言えるだろう。
無駄に尻尾の数が多いことは気になるが、簡単に増やせるのであれば愛玩動物として手元に置きたがる人間がとんでもない数になるであろうことはまず間違いあるまい。
抱き上げられて無抵抗にみょーんと伸びている姿を、リィンが可愛いと評価することにソルにしても否やはないのだ。
だがその可愛らしい小動物が人語を話すことが、ソルにはとても気持ち悪い。
可愛らしい声でにゃーとでも鳴いていてくれれば、リィンと変わらぬ評価もできるのだが。
『某は神獣アヴリール。『全竜ルーンヴェムト・ナクトフェリア』と『妖精王アイナノア・ラ・アヴァリル』を支配する御身に、我ら獣人種を救っていただきたいのだ』
そして今の時代に生きる人間であれば見たことなどないはずのその姿を、ソルはすでに知っている。
『封印されし邪竜』を召喚した際に展開された、『囚われの妖精王』と共に浮かんでいた他の4枚の手札のうちのひとつ。
『死せる神獣』
純白の毛皮を持つ巨大な獣が、地から幾本も生えている巨大な鈍色の槍に貫かれ自らの血でそれらを染めている。
失われた眼の光と力なく垂れ下がった幾本も生えている巨大な尾が、この強大な存在がすでに終わってしまっていることを強く感じさせる『死』の象徴。
その凄惨な姿の主が、ただ小さくなっただけで今リィンに抱き上げられているのだ。




