ファーティマの洗礼5
ファーティマの洗礼5
いくら名門貴族の出とはいえ,たがが一人の少女を洗礼させることに、両陣営にとって重大な意味が含まれている。ポーラたちにとってみれば初めて自分たちの外に人間がいることを改めて思い知らされたわけあるし、ルバイヤートたちからすれば外敵というものを始めて自覚するに至った。その存在は自覚していたものの、あくまでも交易する相手であって武器を忍ばせてくることはないと思っていた。ニネベ侵攻は完全に寝耳に水の出来事に他ならなかった。
海を越えて聞こえくる北の足音に存在に非常に興味を抱いていた。
事実、支配階級においてはケントゥリア語は必須科目であったぐらいである。
だが、交易というかたちで異教と通じ合っていたとしても神に対する思想の違いは如何ともし難いものあった。同族嫌悪とはいうがアイマン派とザワヒリー派の争いの方がよりリアリティがあった。それが武力によって認識を急に変えざるをえなくなってしまった。
ケントゥリア語を知るものにあって洗礼という言葉の意味を知らないはずがない。産まれた赤子は聖職者の手によって洗われ、新しい仲間として受け入れられるのだ。
それは越えられない壁のはずであった。それが崩れるとあっては話が変わってくる。それも名門一族の子女が、である。そんなファーティマが洗礼を受けるとは誰もが耳を疑った。けっしてあってはいけないことのはずだった。
儀式は、古代には闘技場であった場所が選ばれた。それは無意識のうちに見世物だという自覚があったせいか。
風はほとんどない。空には雲ひとつ見つけることができない。蒼穹の空という言葉がこれほどに適当な情景がかつてあっただろうか?しかし内心は不安と戸惑いでぐっちゃぐっちゃになっている。本当に主はこのようなことをお許しになるのか、というわけである。
しかし、本当に熱い。まだ晩春だというのにこの気温はどうしたことか。汗が身体中に小さな滝をつくっっている。が、ポーラたちからすれば太陽は暴君におもえたがファーティマにとっては薄ら寒いとさえ思えた。
水をかける仕事はクートン枢機卿に任されている。重たい僧衣は暑いからと行って拒絶するわけにはいかない。しかしそんな内面を表面に出すことはしない。内面の動揺と裏腹にファーティマは涼しい顔で水を用意する両手を合わせて神に祈る姿勢を取っている。身体に注がれる水はまるで剣のように硬い。この世で水ほどに柔らかいものはないと認識していたがそれは虚偽だったのか、まるで身体が裂かれるようだ。男たちの視線だといいたいところだが、それよりも好奇な意味合いを多分に含んだ女たちのそれの方がよほど暴力的に思えることが不思議だ。
ふいにクートンのものと思われるダミ声が真っ青な空を汚した。
「ここにこの少女が我らの同胞になりしことを宣言する‥」
人を力で圧服しようとすることが同胞だと?
男たちの前で素肌を晒す違和感よりもよほど少女にとってみればショックだった。これから自分はどうなるのだろうか、という保身よりも、もっと大切な何かを失いつつあるのではないかという思いが凌いでいた。
その正体がわからないままに少女は魚をデザイン化したアクセサリーに首を通らせねばならない。本当に主はファーティマの内心を読み取ってくださるだろうか。
観客たちの声は歓声だとも動揺だとも受け取れる。異様に肌の黒い人間のような生き物がまさに人間になってしまったのだ。この事実をどのように受け止めるべきなのか、それは此処個人の内心に任されている。しかしながら目の前の出来事は枢機卿によって施行されたのだ。本当のことを言えば自由などあるはずがない。それは確かに正しいのだが、内面の動揺はわけのわからない声となって喉の中に轟き続ける。
それでも辛うじて立っていられるのはアイーシャの指示があるからに他ならない。それにしてもいったい、これから何が起こるのだろうか。事態は完全に少女の想像の範囲外にある。今にも空が落ちてくるような気がする。
ポーラは無駄だとわかってはいてもアイーシャの瘴気を探し求めていた。とうぜん、吐息すらこちらに気づかせようとはしない。
ファーティマがあれほど落ち着いていられるのは、アイーシャの指示があるからに決まっている。が、その存在感を完全に消せるとはどれほど恐ろしい相手なのか。彼女を倒さないかぎりニネベを攻略できたとは言えまい。
わからないことは幾つもある。アイーシャが認めた上での洗礼なのだろう。このことはルバイヤート全体にとって利益になるという自覚がある上でのことに決まっている。ルバイヤートたちに内在する他者性を確立しきっていないポーラとしてはこちらはこちら、あちらはあちらという思考方法に達しない。心のどこかでアイーシャたちに魅了れているという自身を認めたくない。気づかぬうちにそういう心理が働いている。
ポーラはマリーに尻を捻られるまでそうした自分に気づくことはなかった。
「どうしたのだ?」
「何かわからないけれど、無性に腹が立ったのです」
「どうしてそれを私にぶつけるのか?.…………。どうでもいいがこのことはどのような効果をもたらすだろうか?」
「無駄な血を流さずしてエイラート奪還できるかもしれません。しかしそれには私たちの予想をはるかに越える力が必要でしょうが…」
マリーは気づかぬうちにルバイヤートを人間扱いしていた。
ポーラはそれに気づかぬフリをして言葉を続ける
「それもこれも絶対的な軍事力を背景にしたうえでのことだろうが…」
彼女は自分の言葉を打ち消したくなった。じっさいはアイーシャという存在の大きさが洗礼に結びつかせたのだ。
どうしてか、アイーシャのことを口にしたくなかった。少なくともそういう空気ではなかった。
誰かの声が耳を打つ。それがマリーのものだと気づくまでに時間を有した。それほどまでに自分の世界にはまりこんでいていた。
「あの少女の後に続く者が出れば、それはそれで主のお御心というものかもしれません」
ポーラは不安を禁じえない。振り上げた拳を何もせずして下ろすには少女は好戦的し過ぎた。戦いはまだ始まったばかりなのだ。緒戦の段階でそのようなことを決め付けられては困る。未だに酔いから醒めていないものが多すぎる。アイーシャは何処かで健在なのだ。




