雪待ちの人
今年、ロシュは冬越えを、この小さな町コルタで行うことになった。
ロシュは行商人だ。相棒の馬ベンターと一緒に、小さな馬車に荷を載せて国中を旅して回っている。といっても行商など形だけで、決まったルートで現地人のお伺いを立てて仕入れなどをしているわけでもなく、気紛れにあっちへふらふら、こっちへふらふら。ぶらり旅の途中で見つけたものを各地で売ったり買ったりすることで生計を立てているだけの道楽者だった。
そんなロシュが雪の時期に立ち寄ったのが、このコルタ。黒い尖塔が特徴的な小さな教会を中心に、灰色の石造りの建物が密集して出来た町だ。近隣で良質な粘土が採れるらしく、陶磁器産業で暮らしている。
ロシュは、この町でいくつか陶磁器を見繕って購入し、代わりに保存の利く干した果物や茶葉などの嗜好品を主として売って、次の町へ赴こうとした。
そこを町の人に引き留められた。
「ここから一番近くの町にゃ、どんなに急いだって雪が降るまでには間に合わん。かといって、近くの村では冬の間じゅう客人をもてなすだけの余裕もない。悪いことは言わないから、今年の冬はここで過ごしなさい」
幸い、コルタの町は小さくてもそこそこ裕福で、客人を受け入れるだけの余裕はあるそうだ。ロシュが世話になっている宿屋の主人も、仕事を手伝ってくれるなら、馬も引っ括めて食事も代金も多少融通を利かせてくれるという。ここは町の人の助言に従ったほうが良さそうだと判断したロシュは、好意に甘えてこのままこの町で世話になることにした。
❅ ❆ ❅
ロシュが世話になっているのは、宿屋〈ヒタキの集い亭〉。数少ない厩のある宿屋で、馬車も置くことのできる、行商御用達の宿だった。仕事を手伝うという約束だったので、日中は買い出しや配達、夜は食堂の手伝いをすることとなった。
市場が開放される朝。ロシュは相棒ベンターを連れて、宿屋の主人に頼まれた食材を購入する。頼まれているのは、肉、根菜類、小麦粉の袋なんてものもある。馬がいることで重いものを気軽に調達できるようになったので、ロシュ――というよりベンターは重宝されていた。お陰で、給金代わりに賄いはサービスしてもらっている。夜の手伝いは忙しいが、日中の配達はたまにしかないため暇もあり、仕事量は適度。居候の身でかなりの高待遇に感謝しつつ、ロシュは今日も質のいい食材を次々に購入していった。
帰り道。朝市に三日通い、少し町に慣れてきたロシュは、普段通っている大通りとは別の小道を行くことにした。住宅と住宅の間、馬がすれ違うのもやっとの細い道。緩く右に曲がった石畳の下り坂は、曇天の所為で暗い灰色だ。それだけに人通りはなく、大通りと違って馬を歩かせやすい。蹄の音に気を遣う必要はあったが、こちらのほうが気楽で、ロシュは悠々とベンターを歩かせた。
カーブを曲がり、坂を下りきったところで、ロシュは道の左端の人影に気付いた。小さな一軒家、花のないプランターが掛けられた小窓の下に木のベンチが置いてあって、そこに一人の女性が腰掛けている。娘時代を抜け出したばかりの若い女だった。木綿のシャツに毛織の紅いスカート姿に茶色と赤の毛糸で編んだ肩掛けを羽織り、真っ直ぐな黒髪を垂らして空を見上げている。
呆けているだけにしか見えない女に、ロシュは眉を顰めた。日差しもなく、こんな肌に染み込むような寒さの中でなにもせず外にいるなんて、どうかしているとしか思えない。とはいえ、ロシュは行きずりの身。変わり者の世話を焼く義理はない。見なかったことにして女の目の前を通り過ぎようとした、そのとき――。
「おはようございます」
なんと、その女が話しかけてきたのだ。しゃらしゃら、と粉雪が降るときのような細い声。淡雪を連想させる儚い女性だった。
「……おはようございます」
挨拶されたからには、帽子を少し傾けて挨拶するロシュを、彼女は何処か遠くを見るような眼差しで見上げた。
「お見かけしませんね。旅人さんですか?」
「行商をしておりまして。冬の間〈ヒタキの集い亭〉にお世話になることになりました」
まあそうですか、と女は灰色の目を丸くして、
「ではやっぱりそろそろ、雪が降るかしら」
再び空へと視線を飛ばした。
そうらしいですね、とロシュは返す。
「もう山には登れないと伺いましたから。そろそろ降るのではないでしょうか」
「そう。それは楽しみだわ」
女は顔の横で手を合わせ、夢見る乙女のようにうっとりと笑った。
「雪が降ると、なにかあるんですか?」
「ええ。主人がね、帰ってくるんです」
「ご主人はどちらに?」
「隣町に、出稼ぎに」
でも雪の頃に帰ってくるのだ、と彼女は言った。
「早く帰ってこられると良いですね」
では、と帽子を上げて、ロシュはベンターを連れて先を行く。
なんだか現実離れした女であった。この冷え込む朝に外にいることもそうだが、存在そのものがまるで幻のような、存在感が稀薄な女だった。
話も何故だか夢物語を聴かされたときのようで――。
ふと、ロシュはあることに気付き、振り返った。
女は家の中に入ったようで、ベンチにはもう誰もいない。
だから、確かめようがなかったのだが――
隣町に行くには、小さな山を一つ越える必要があった。
その山は、麓のこの町に比べて早く降雪し、山頂付近では道が雪に閉ざされるという。
だからロシュは引き留められ、こうしてコルタで過ごすことになったのだが。
――だとするならば、あの女の主人はもう、冬が明けるまで帰ってくることはできないのではなかろうか。
「ああ、その娘はクロエだね」
買い出しから戻り、購入した品を宿の女将に確認してもらっている間、ロシュはさっき出会った女のことを話した。長いことこの町で過ごした女将は心当たりがあったらしく、すぐに誰なのか教えてくれた。
「あの娘は天涯孤独でね、幼い頃に親を亡くして教会で育ってきたんだよ。だけど、一昨年に良い相手と結婚して、ようやく家族ができて、幸せになれたはずだったんだけどね」
「……はずだった?」
言葉に引っ掛かりを感じてロシュ問い返すと、女将は瞳の色を暗く沈ませた。
「昨年、旦那がね、死んでしまったんだよ。帰り道に、峠で雪に降られてね」
一晩雪の中で過ごし、寒さに耐えられず逝ってしまったところを発見されたという。
「では、彼女はその頃から心を病んでしまわれたのですか」
彼女の会話と女将の話の齟齬を見つけたロシュが、儚げなあの女の様子を思い浮かべて発言すると、
「心を病む?」
女将は怪訝そうに眉を顰めた。
「なに言ってんだい。確かに、旦那が死んだ後しばらくは打ちひしがれていたけどね。近所が世話して、夏には絵付けの仕事をするようになって、今は独りでも真っ当に暮らしているはずだよ」
「主人はね、私にお土産を持って帰るって、と約束してくれたんです」
クロエと遭遇してから四日。同じ小道を通り続けたロシュは、毎朝彼女と話をした。と言っても、買い物帰りのため、五分程度の立ち話である。
心を病んではいない、と女将は言っていたが、毎朝外でロシュに会う彼女は、いつも自分の夫の話をしていた。夫が早く帰ってこないか、待ち遠しいのだ、とまるで夫が生きているかのように話す。
「お土産、ですか?」
「ええ。スノードロップの花を」
え、とロシュは目を丸くする。
「スノードロップは、春告げの花でしょう?」
「そうなんですけれどね、でも持って帰ってきてくれるって」
それから彼女は頬を紅潮させ、何処か遠くを見る目で笑う。
「いったいどういうことなのかしら。それがすごい楽しみなんです」
そうしてまた、空を見上げる。
「……早く、雪が降らないかしら」
まだ空気が凍てついているこの時間、彼女が毎朝外でベンチに座っているわけは、空模様を確認するため。雪が降れば夫は帰ってくるのだ、と無条件に信じているようだった。
まるで、彼女だけ一年前に取り残されているような。
そんな印象を受けたロシュは、暇な日中に一度客を装って、彼女が働いているという工房を訪れたことがある。その工房は己の技術を客に見せるためか、職人たちが働いている姿を容易に見られるようになっていた。
食器を選定するのを装って盗み見た彼女は、ロシュが朝に見かける乙女な姿とは打って変わって、立派な職業婦人にしか見えなかった。黒髪をきっちりとまとめ上げてバレッタで留め、シャツを肘の上までまくりあげ、深緑色のエプロンを絵の具で汚して。真剣に真っ白い皿に絵筆を走らせる様は、淡雪のような儚げな印象などまるでなく、悲壮を乗り越えしっかりと地に足を着けて立つ、活力に満ちた強い女性の姿だった。
それなら、朝のあの姿はなんなのだろう。ロシュは気になり、毎朝クロエのもとへ通って、見極めようとした。いろいろ話を振ってみたりしたが、結局彼女はロシュの前では、夫の帰りを待つ若妻の姿を崩さない。ロシュは、昼間の絵付けの女とはもはや別人なのでは、とさえ思うようになっていた。
スノードロップの土産の話を聴いたあと、買い出しの品を無事に女将に納めたロシュは、暇な時間を持て余し、荷の整理をすることにした。旅する身で私物はさほど多くないので、もっぱら自身が抱える商品の整理となる。
食器、玩具、置物小物に装飾品――気紛れに買い漁るロシュの扱う品は、多岐に渡る。本当は食べ物も扱うが、この町で冬を越すことを決めたあとに全て売り払ってしまった。保存食とはいえ、悪くなる前に誰かに食べてもらったほうが良い、と思って。
そのはずなのに、荷整理の途中で、どうしても雑貨とは思えない、油紙に包まれたなにかを見つけた。売り忘れた菓子かなにかかと思い包みを開けば、それは花の球根だった。
指で摘む大きさの雫型の、薄い茶色の皮に包まれた球根。
奇しくもそれがスノードロップのものであると、ロシュは思い出した。
――植付けの時期にはもう遅いが、なにかの慰めにならないだろうか。
淡雪の精のようなクロエの姿を思い浮かべたロシュは、買い出しに行く朝に、その包みを小さな若草色の袋に入れて胸の中に忍ばせた。
その日の朝は、鉛のように重たい雲で空が一面覆われていた。空気は骨身にまで染みるほど冷たく、剥き出しの手が一瞬で凍るほどだった。
そんな気候でも、クロエは変わらず自宅の前のベンチに腰掛けて空を見上げていた。シャツに毛織のスカート、編み物の肩掛けという、相変わらずの姿で。明らかな悪天候の予感に、期待に口元を綻ばせて空を見上げていた。
「おはようございます」
ロシュはいつもの通り、クロエに声を掛ける。
「おはようございます」
たちまち空気に溶けていきそうなか細い声で、ふんわりと笑うクロエは返した。
それからしばらく話し込み、いつものように別れようとしたところで、内心構えていたロシュは懐から若草色の小袋を取り出した。
「もしよろしければ、これをどうぞ」
「まあ、なんでしょう?」
「花の球根です。売れ残りの品を見つけまして」
良かったら植えてみてください、と土しか入っていない窓のプランターを指差した。伝えてはいけないような気がして、なんの花なのかは伝えずに。
「そうですね。今はなにも育てていないから」
そう言ってクロエはロシュの手から小袋を受け取り、両手で包み込むようにして眺めた。それからふとなにかを思い出したような表情をして、スカートのポケットを弄りはじめる。
「それでは、私はお礼にこれを」
彼女が細い手で差し出したのは、白い陶磁器に花の絵を付けた、楕円形のブローチだった。
描かれているのは、スノードロップ。
「仕事の合間に私が描いたものなのですけれど、不出来でやっぱり店には置けなくて」
ふわふわとした、掴まえにくい普段の声とは一転。芯の通った声で、クロエは言った。
確かに絵は輪郭が曖昧で、ピンぼけの写真のようだった。
「大した値段にはならないと思いますが、小さなものですし、ほんの少しでも足しになれば、と」
彼女の言うとおり、子どもの玩具の値段にしかならないだろう。そうは思いつつ、なにかの因果を感じて、ブローチを受け取った。
「どうか、道中お気をつけて」
普段とは違う別れの言葉を不思議に思いながら、ロシュは宿へと引き返した。
朝の仕事を無事終え、ベッドの上に寝そべりながら、さきほどもらったブローチを眺めやる。
つるりとした真っ白い陶磁器に描かれたスノードロップ。白い花を縁取る濃灰色の先は滲んで曖昧。花を支える茎や葉は緑の濃淡だけで表されており、本人が言っていた通り、陶磁器に描くものとしては随分と稚拙であった。
しかし、それがなんともロシュを惹き付ける。
まるでクロエそのものだ、とロシュは思った。
その日の昼過ぎから、雪が降り始めた。
はじめ、ひらひらと花弁のように風に舞っていた粉雪は、夜が近づくにつれて重さを増していき、翌朝には水分を含んだ重い雪となって、町中を白く染め上げた。
雪の積もった翌朝も、馬がいるから、とロシュは朝市に出掛けた。一通り食材を買って、住宅街の細い小道へと急ぐ。クロエが待ちに待った、雪の降った朝だ。彼女の様子が気になった。
果たして、彼女は今朝もそこに居た。いつものようにベンチに腰掛けて。
いつもと違って、目を閉じて壁にその身を預けて。
頭に、肩に、スカートの膝に降り積もった雪が、彼女の状態を示していた。
眠っているかのように安らかな表情だった。
ロシュは彼女の前で膝を付き、厚手の手袋を着けた手でそっと彼女の雪を払い落とした。どれほど丁寧に払っても細かい雪を完全に落としきることはできず、小さな雫となって、女の身体を濡らしていく。
雫は周囲の光を反射して、きらきらと神秘的に空の彼方へ逝ってしまったクロエの身体を飾り立てた。
ふと、ロシュは、彼女の手がなにかを握りしめていることに気づいた。手袋を外した手で、慎重に彼女の手を開かせる。
現れたものに、息を呑む。
出てきたのは、若草色の小袋だ。スノードロップの球根を入れて渡した、ロシュの小袋。
ロシュはクロエの手から小袋を取るようなことはせず、もう一度彼女に握らせて、ゆっくりとその場を離れた。道中、誰にどう知らせるかを悩み、結局宿に戻って女将に伝えることになる。
クロエの葬儀は厳かにしめやかに行われた。ロシュもまた、葬列の端に紛れて彼女の旅立ちを見送った。
そして、クロエと話すこと以外、同じことをからくりのように繰り返す冬の日々がはじまって――。
❆ ❅ ❆
朝一番でも屋根から雫が滴り落ち、小鳥が賑やかに囀り飛び回る。灰色を明るく染める朝の光は、雪溶けの季節の訪れを予感させた。
「そろそろ、旅立ちの算段をしないとな」
行き慣れた住宅街の小道を歩きながら、ベンターに話し掛ける。朝市の帰り道、毎日の話し相手を亡くしたロシュは、こうして馬に声掛けをすることが多くなった。
住宅と住宅の間、馬がすれ違うのもやっとの細い灰色の道。緩く右に曲がった石畳の下り坂は、暖かい朝の日差しできらきらと輝いている。しかしそれでも人通りはなく、大通りと違って馬を歩かせやすい。
カーブを曲がり、坂を下りきったところで、ロシュは何気なく左側を見た。小さな一軒家、雪の積もったプランターが掛けられた小窓の下に木のベンチが置いてあるが、そこに腰掛けるものは誰もいない。
ベンターに話し掛けるロシュも、その前を通るときだけは押し黙る。相棒もまた、蹄の音を潜ませる。
そして、何事もなかったように普段は通り過ぎるのだが――。
なにもないはずのプランター。そこに緑色を見つけたロシュは、中を凝視した。
溶けかけの雪を掻き分けて、恥ずかしそうに土から覗く数枚の葉。
スノードロップの新芽たち。
ロシュはポケットの中に手を入れて、クロエからもらったブローチを握りしめた。
なんとなく手離し難くて持ち歩いていた、素朴なブローチ。
夫の帰りを待ち続けた彼女は、スノードロップの花を受け取ることができたのだ、とロシュはようやく悟ったのだった。




