私を否定しないで3
家に帰りたいと訴えたウルリカに待っていたのは、不許可の通知と貴族の名前を覚えるという宿題だった。ベルトルドはウルリカに貴族の常識を教えるつもりのようだ。
本を開いてみると、最初に書いてあったのは王家に関することだった。初代の王から順に名前と生没年、偉業などが書いてある。貴族の家がいくつあるのか知らないが、本の分厚さから考えると一桁では済まないだろう。
「貴族はこれを全部覚えているのでしょうか」
近くにいるアンに話しかけるとすぐに答えが返ってきた。
「はい。歴代の王の名は必ず覚えなければいけません。貴族の家に関しては、自分と関わりがある家と敵対している家は自然と覚えられます。それ以外は必要に応じて知識を増やしていくといいでしょう」
「私もこれを覚えなければいけないのですか」
「社交界で交流するなら、必ず必要になります。相手の名前を間違えることは、最大の侮辱と受け取られかねません」
名前を間違えるなというのは、魔法薬店の仕事をしていたときに店長から言われていたことと同じだ。ただし客に渡す薬を取り違えないようにするための予防策という意味合いが大きい。薬は調合を間違えると命に関わる。客の命と店の信用を落とさないよう、ウルリカも気を使っていた。
――馬鹿にされたと思った貴族が、報復したりするのかな。命に関わるって意味では平民も貴族も似たようなものなのかも。
なおさら社交界なんて出たくない。
「読書がお気に召さないのであれば、刺繍などもご用意できます」
本を閉じたウルリカに、アンがそっと囁いた。
「刺繍はちょっと……」
ハンカチに名前を入れる程度の腕しかない。趣味にするほど興味もなく、作りたい図案なんて思いつかなかった。道具を持ってこられても、布と糸を無駄遣いするだけだ。
他にやることもないので、ウルリカは仕方なく本を読み始めた。王家の成り立ちのあたりは神話のようで意外と楽しめたのだが、時代を経るにつれ他家との繋がりや戦争、国内の騒乱などの知識がないと理解できない部分が出てくる。傍系に王権が移ったところで、読書を中断した。
――時間がかかりそうね。
きっと貴族は歴史も含めて家庭教師から教わるのだろう。子供のうちから何年もかけて覚えていくのだ。読み書きができるだけの平民が独学でやるのは限界がある。
ベルトルドには正直に知識不足を打ち明けようとウルリカは決めた。ものを知らないと呆れられるかもしれないが、記憶力がないと馬鹿にされるよりはいい。
アンに伝言を頼もうと振り返ったとき、ノックもなしに扉が開いた。
「あなたが兄様の番?」
勝手に入ってきた狼獣人の少女は、冷ややかな目でウルリカを見下ろしてきた。
「人族ごときがお兄様の番だなんて。どうせ魔法薬で騙しているんでしょう?」
兄様という言葉と、ベルトルドと同じ濃い灰色の髪ですぐに妹だと予想がつく。堂々とした態度はウルリカが想像する貴族そのものだ。言葉の強さも、身内以外には心を開かないという狼族ではよくあること。昨日さんざん人の悪意に触れたせいか、悪口程度では動揺しなくなっていた。
特に反応がないウルリカのことを、少女は気に召さなかったらしい。可愛らしい顔を不機嫌に歪める。
「なんとか言いなさいよ。それとも驚いて声も出ないわけ?」
「ええ……そうですね。驚いています。罵倒の種類が少なすぎて。昨日、メイドから言われたこととほとんど同じです」
「なんですって!?」
怒りで体を震わせた少女だったが、ウルリカを攻撃してくることはなかった。高貴な身分の女性は自分では動かず、他人に全てやらせると聞いたことがある。使用人を引き連れていない今は、いきなり殴られる心配はなさそうだ。
「私をメイドと同列に扱うなんて何を考えているのよ。いい? お兄様の番といえども、私たち貴族とお前は同等ではないの。本来なら、私が現れた時にお前は這いつくばって出迎えなければいけないのよ。これだから教養がない平民は……」
ため息をついた少女は、ソファに置いた本に気がついた。
「あら。今更、貴族について勉強しているのね。社交界に出られるのは二十年後かしら」
「そうかもしれませんね」
上品に笑う少女に同意すると、自慢げな表情に変わった。
「頭の出来が違うのね。私なんて十歳になるころには全て覚えたのよ」
ここで少女を褒めて媚を売れば、満足して帰っていくのだろう。ウルリカは自分に何の足しにもならない言葉を言うよりも、疑問を解消したくなった。
「では第二次キアトリス戦争について教えていただけますか? 第五代国王だったルードヴィグ王が参戦なさった経緯について」
「はあ? そんなの国境付近で外国同士の戦争が始まったからに決まってるでしょ。こっちに被害が及ぶかもしれないから、様子見を兼ねて出兵したのよ。当時の身分は王じゃなくて王太子。覚えておきなさい」
「そもそもの発端である第一次キアトリス戦争はどのようにして始まったのでしょうか」
「レンフィール王国の国王が亡くなったとき、国王の娘が嫁いだ隣のゾラ王国が継承権を主張してきたの。国王の孫にも継承権があるはずだって。そのせいで関係が悪化したのと、宗教的な対立も合わさって開戦したのよ。お前って本当に何も知らないのね」
こちらを小馬鹿にしつつも、質問したことには答えてくれるようだ。
「ヴィルヘルム王の時代に結ばれた三角同盟で海路を含む交易路が発展したそうですが、具体的にどのような同盟でしたか? 製糸技術の向上にも影響があったようですね」
「ま、待ちなさいよ。そんなの一度に教えられるわけないじゃない! 明日まとめて答えてあげるわ」
高圧的な態度だが、本当は悪い人ではないのかもしれない。まともに会話をしてくれるのが嬉しかった。
「……お前、本気で貴族の中に入りたいの?」
「いいえ。家に帰りたいです。華やかな生活は向いていません」
「その割には知識を得ようとしているようだけれど?」
「他にやることがないので」
ため息をつかれた。
「人族は番の本能に鈍いと聞いていたけれど、本当だったのね。お兄様は本気よ。お前を手放すつもりなんてないわ。逃げようとしたら足の腱を切られるでしょうね。お前が私たちの生活に慣れなさい。そうすれば傷つかずに済むわ」
「でも……」
ウルリカに上昇志向があって、平民の生活に未練がないなら、上手くいったのだろう。
「でも?」
「恋人がいるんです」
少女は心の底から嫌な顔をした。
「お前と話しているといらつくわね。いい? 貴族の結婚に恋愛感情はないの。全て家のために動いているわ。お兄様にも婚約者がいるのよ。それなのに、お前が現れたというわけ」
「婚約者がいるのに番を求めるのですか?」
「問題はそこよ。お前が貴族なら、円満に婚約を解消してからお前を選んだでしょうね。でもお前は平民よ。貴族の婚約を解消する理由に乏しいわ」
そこまで言って考えこんだ少女は、続きをなかなか話そうとしなかった。
「……貴族同士の結婚は続行。お前は良くて愛人扱いでしょう。お前自身は、お兄様以外の相手を求めることはできないわよ。隠れて恋人と付き合うなんて無駄ね。番の仲を引き裂く者の末路は、どれも悲惨なんだから。目の前で恋人を引き裂かれたくなかったら、未練なんて捨ててしまいなさい。大切に持っていても傷が増えるだけだわ」
言いたいことを全て言い終えた少女は、来たときと同様に挨拶もなく帰っていった。
残されたウルリカの頭の中には、少女の言葉が残っている。未練を捨てなければ傷が増えるという意見には同意だ。ここで生きていくしかないなら、エリクのことは忘れないといけない。
すぐに捨てられるような浅い感情ではなかった。
――貴族同士の結婚を認めつつ、私は一人だけを愛しなさいですって?
貴族社会ではそれが常識なのは、よく理解した。だが受け入れるかどうかは別だ。
身分の違いで扱いが違うなんて当たり前。物心つくころには、世の中はそういうものだと感覚で理解している。生まれてから死ぬまで、自分は貴族と関わることはないだろうと思っていただけに、つい最近まで知らなかった貴族の愛人扱いされる未来から逃げたくなった。
貴族同士の結婚を解消できないのは、家の存続に関わることなのだろう。貴族でなくても大商人といった富裕層でもよくあることだ。ベルトルドと正式な婚約者との間に生まれた子供は、当然ながら貴族としての権利を有している。継承順位によっては将来のヘルニウス伯にもなれる存在だ。
もしウルリカとベルトルドの間に子供ができた場合、その子に与えられるのは貴族の庶子という扱いだけ。純粋な貴族にはなれず、平民の中に混ざれば異物として浮いてしまう。
そもそも、今のウルリカの生活は番のベルトルドあってのものだ。彼がいなくなった途端に、屋敷を追い出されてもおかしくない。正妻から見れば、夫の番なんて鬱陶しい存在だろう。すぐ近くに、自分が一番になれない理由がいるのだから。
――番の本能って厄介ね。
身分差結婚について様々な弊害を知っているはずの貴族ですら、番を見つけてしまったら放置できない。
後ろを振り返ったウルリカは、アンの姿がないことに気がついた。教師役をしてくれそうな少女が帰ってしまったため、彼女の次に詳しそうなアンに歴史のことを聞きたかったのに残念だ。
窓を開けて外を見下ろすと、武装した獣人が敷地内を歩いているのが見える。屋敷を抜け出してもすぐに発見されてしまいそうだ。敷地を囲む塀は高い。しかも門のすぐそばには守衛小屋があるため、ウルリカが自力で逃げるのは難しい。
メイドの攻撃すらまともに避けられなかったのだ。武芸に優れた獣人に見つからずに外へ出るなんて不可能に近い。
――でもここから逃げないと、私の心は死ぬわ。




