79話 守るためのもの ― 一花Side
「本当にどうしようもないくらい馬鹿だよ」
ふふっとどこか楽しそうに笑っている葉月に花音もレイラも、もちろんあたしも、目を丸くしてしまう。
なんで今その笑顔なんだ?
今の葉月は子供の頃の葉月だ。何もかもが楽しくて幸せで、そうやって笑う葉月の笑顔だ。
「葉月?」
花音も不思議に思ったのか、葉月の隣から顔を覗き込むように見ている。そんな花音に構わず、葉月は微笑んで、あたしが持っていた眼鏡を奪っていた。
「おい?」
「ねえ、いっちゃん?」
返すように手を出したあたしを無視して、葉月が目元を緩ませてその眼鏡に視線を向けている。
「この眼鏡をいつから、縛る道具にしてたの?」
縛る道具?
さすがのあたしも葉月の真意が分からない。なんでそんなことを聞いてくる?
「私も全然気づいてなかった。ただ、大事にしてくれてるだけだと思ってた」
「……当たり前だろ?」
美鈴さんとお前が作ってくれたものだ。大事にして当然だ。
クルクルとその眼鏡を回しながら眺めている葉月に、隣にいる花音は分からなそうに首を傾げていた。「葉月と葉月のお母様が一花にあげたものですわ」と補足をするようにレイラが教えている。
カチャンと葉月が唐突にその眼鏡から手を外した。
自然とその眼鏡はテーブルの上に落ちる。今までみたいに壊れることなく、ただただ静かにテーブルの上に置かれた状態になった。
「壊れない」
「知ってるが?」
「うん、そういう風に作ったから」
満足そうに葉月が頷いて、あたしに視線を向けてくる。
でも、いつものふざけた葉月じゃない。
「これは、いっちゃんを守るために作った」
……知ってるが?
「いっちゃんを縛るために作ったモノじゃない」
いつになく真面目な声のトーンで葉月が言ってくるから、耳に響いてくる。葉月の真面目な姿に花音もレイラも口を挟んでこない。縛る?
それでも葉月は続けてくる。
「私とママが、いっちゃんを守るためだけに作ったんだよ」
……そうだな。
『一花ちゃん、この前、砂が目に入って痛がってただろ? それを見て、葉月が何とかしてあげたいって思ったらしくてね」
これをくれた時の浩司さんの言葉はまだ覚えている。
「……ちゃんと覚えている」
「うん」
「百年壊れないと豪語していたな」
「そう。そういう素材を使って、ママと作った」
葉月は「だけど」と言葉を繋いできた。
「縛るためのものじゃない」
ハッキリと、告げてくる。
「いっちゃん」
「……」
「いつから、この眼鏡を縛る道具にしたの?」
葉月のその再度の問いかけに、何も答えられない。自分でも分からなくて、目を合わせていたくなくて、テーブルの方の眼鏡を見た。
いつから……? あたしがこれを縛る道具にしている?
あたしは、いつから――
「私はね、いっちゃん。いっちゃんを確かに縛ってたよ。私の目的の為に、ずっとずっといっちゃんを縛ってきた」
その眼鏡をまた葉月が手に取った。
「自覚してるよ。分かってたよ。申し訳ないっていつも思ってたよ。でもね、この眼鏡はいっちゃんを縛るために渡したものじゃないんだよ」
その声は悲し気で、葉月が自分を責めている声だ。
それは手に取るように分かるのに、何も言葉が出てこない。
「いっちゃんが自分を縛っているのは分かってたよ。いっちゃんの心に傷をつけたのは、他ならない自分だから」
違う……。あれは、あたしが勝手に――
「ほとんど記憶にはないけど、その時のこと、ちょっとは覚えてるよ。いっちゃんの手が首にあったの覚えてる。あの時は、自分の願いが叶うって、嬉しくなったの覚えてる。でも同時に、いっちゃんを苦しめてしまうって分かってた。いっちゃんが泣いてたのも覚えてる」
今でも思い出す、あの感触。
「いっちゃんは悪くない。悪いのは私なんだよ」
違う。楽な道を選んだ自分が悪いんだ。
「どうしようもなく自分を許せなくて、どうしようもなくいなくなってしまいたかったから。望んでたよ、私はちゃんと。だから、いっちゃんが自分を責める必要なんて、どこにもないんだよ」
それでも選んだのはあたしだ。
その方法を選んだのはあたしなんだ。
「あの時のことでずっといっちゃんは縛ってる。自分が悪いんだって縛ってる。自分はそういう人間なんだって」
そうだ。あの時のことで、あたしはそれを自覚して――
「何度でも言うよ、いっちゃん。いっちゃんは悪くないんだよ。私なんだよ。皆を傷つけるって分かってたけど、それでも自分の願いを優先した私なんだよ」
お前は、何も悪くない。
気づけなかったあたしたちが悪いんだ。
「この眼鏡はね、いっちゃん。いっちゃんを縛り付けるために渡したものじゃないよ。いっちゃんを守るために渡したものだよ」
困ったように葉月は笑った。
「馬鹿だなぁ、いっちゃん。さっきのレイラに言ったこと、いっちゃん自身にも言えるのに」
「さっき?」
「いっちゃんが背負う必要はどこにもないってことだよ」
……確かに言った。レイラに。でもそれは――
「……あたしが決めたことだ」
「決める必要もないんだよ、いっちゃん」
決める必要がない?
葉月はおかしそうに、穏やかな声で、また眼鏡をクルクルと回しだした。
「私がいっちゃんとレイラにトラウマを与えた。おじいちゃんたちにもいつ死ぬかもしれないって怖さを与えた。それをいっちゃんが叶えようとした。いくらほとんど記憶がないって言っても、それはもう消せない事実だ」
ピタッとその手が止まる。
「いっちゃんが罪の意識に囚われることはないんだよ。いっちゃんがそう思えるようになるまで、何度も何度も言うよ」
お前はそう言うだろう。
お前は優しいから。
いつも変な事をしてるし、周りに迷惑をかける行動をするけど、お前がそういうやつだってことを、昔から知っている。
だけどな、あたしはそれを認められないんだ。
自分のことを許せないんだ。
そう言いたいのに、何も言えない。
そんなことを言っても、葉月はまた同じことを言ってくることが分かってるから。
あたしが何を答えても、葉月もあたしが変わらないことを分かってると思う。
そんなあたしを心配して、葉月が今まで避けてきたことをこの場で言い出したのは、さすがに傍観できなくなったのか?
葉月の目を見れなくて、ギュッと膝の上で握っている自分の拳を見つめてしまう。
「いっちゃん」
「……」
「ねえ、いっちゃん」
懇願するかのような葉月の声に、ゆっくりと顔を上げた。
ずっと待ち望んでいた、子供の頃の葉月の笑顔がそこにある。
「私はここにいるよ、いっちゃん」
いつもの合図。
けど、今は別の響きに感じる。
何故だ……?
葉月は穏やかに微笑んで、それでもまっすぐあたしを見てきた。
「いつからいっちゃんは、ここが現実じゃなくなったの?」
……え?
「私はここにいるよ、いっちゃん。いっちゃんに見えてる?」
「お前……何を?」
「私がここにいるんだよ、いっちゃん」
さっきより強く、ハッキリと、伝える為に葉月が言ってくる。
葉月はここにいる。
ちゃんといる。
分かってる。
「分かって……いるが?」
「本当に分かってる? 辛い未来だけ見てない?」
辛い未来?
「何度でも言うよ、いっちゃん。私はここにいるんだよ」
ポンポンと自分の胸に手を当てながら、葉月は微笑んでいる。
それは何を示している?
「自分を縛りすぎて、見えなくなってるよ、いっちゃん」
「見えなく?」
「私がここにいる意味。いっちゃんがここにいる意味」
葉月がいる意味、あたしがいる意味。
それは、絶対に揺るがない事実。
「……こっちが、現実だ」
あたしの答えに、葉月がまた満足気に笑った。
そうだ。
現実。
ここは、あの世界じゃない。
あの地獄みたいな世界じゃない。家族じゃない。
「いっちゃんの望むことをすればいい。好きな事をしていい。嫌なことはしなくていい。本当は背負う必要もないことを背負っているのも、いっちゃんが本当にそれを望むなら、私は何も言わなかったよ」
言い聞かせるような、その葉月の声が、胸に響いてくる。
ああ、ちゃんとやっぱりこいつはあたしのことを分かってると、そう感じる。
「でもね、いっちゃんが笑わない未来は嫌だ」
葉月のそのハッキリとした声は、絶対に覆らない、葉月の意思。
また困ったように、葉月は笑う。
「いっちゃん、怖いんだよね? 怖いの、分かるよ」
そうだ。怖い。
いつか、また葉月にやったことのように、同じことをしそうで怖い。
「私もまだ怖いよ。私のせいで、誰かがいなくなっちゃうの、怖いよ」
あたしも怖い。せっかく家族にも恵まれているこの世界にいるのに、誰かを傷つける未来がくるかもしれないのが怖い。
「でもね、花音が教えてくれたよ」
「え?」
花音? 意外な言葉が葉月から出てきたから、伏せようとしていた顔を上げてしまう。花音は花音で自分の名前がいきなり出てきたから、目を丸くさせて葉月を見ていた。
「花音が教えてくれたよ、いっちゃん」
「あの……葉月?」
「守ればいいって、教えてくれたんだよ」
嬉しそうに、葉月があたしじゃなく花音に微笑んでいて、でもすぐにあたしに視線を戻してくる。
守る? 確かに言ってたが。
「だから、いっちゃんも守ればいい」
「あたしも?」
「その怖い未来がこないように、守ればいい」
怖い未来がこないように?
「私はここにいるんだよ、いっちゃん」
また同じことを伝えてくる。
……ああ、そうか。
そうだな。
でも今度はやっと、その意味が分かった気がした。
お前は、ちゃんとここにいるんだ。
しっかりと、目の前の葉月を見る。
あの頃の、子供の頃と同じような笑顔でいる葉月がいる。
こいつがここにいる。
だから、ここはあの世界じゃない。
ここは優しい世界だ。
母さんも、姉さんも兄さんも父さんも、あたしを愛してくれる。
源一郎さんも学園長も沙羅さんたちも、あたしをちゃんと暖かく見守ってくれている。
レイラも、あたしのことを友達として心配してくれている。
そんな優しい世界だ。
今までにないくらいに、今、ちゃんと実感が胸の中に広がっていく。
優しい世界にいることを、あたしは信じていなかったのか。
いや、信じてはいたんだ。母さんたちに愛されて、源一郎さんたちに支えられて……だけど、葉月の件で、あたしは前世の記憶をベースにしていたのかもしれない。
いつか、あんな風に自分の都合で誰かを傷つけて嗤う人生を、送るのかもしれないと。
昔の家族みたいになるんじゃないかと。
あいつらがいる人生が当たり前だったから。
葉月を殺そうとしたこと、それは紛れもない事実だ。
そこできっとあたしは昔の家族と、葉月を殺そうとした自分を無意識に重ねた。
『ああ、自分はあいつらの家族なんだ』と。
だけど、違うんだ。
葉月がいる。
あの世界を知っている葉月が、この優しい世界にいる。
ここは紛れもない現実だ。
ゆっくりと目を瞑った。
そして――
『あたし、一花が好きだから!』
思い浮かんでくるのは、舞の顔。
あたしを好きな舞がいる世界が、現実なんだ。
ずっと、あたしを好きでいてくれたのは紛れもないあいつだ。
なんであたしのことを好きなんだって、何度も何度も思った。
でも、傷つけるのが怖くて、
自分のことを信じられなくて、
だからずっと自分の気持ちに向き合ってはこなかった。
向き合う必要もないと思っていた。
あたしがいなくても、きっとあいつは持ち前の明るさで、この先の未来を楽しくやっていくんだと。
でも、この一年、あいつに救われた自分がいる。
あいつがバカをやってると、昔を思い出した。
あいつが笑っていると、なんだかこっちまで楽しい気持ちになった。
あいつがあたしを心配して明るくさせようとする言葉も行動も、心を軽くした。
あいつがあたしを見る目が、
あたしを好きなんだと思わせてくるあの目が、
いつもどこか安心させてくれた。
そんなあいつを傷つける自分が嫌だと、心の底から思っている。
胸に手を置いた。その奥に感じるこの気持ち。
どこか温かくて、
どこか切なくなって、
でもあいつのことを考えると、ずっと消えないこの気持ち。
……これが、答えなんだろうか?
さっき伝えられた葉月の言葉が頭に過る。
――守ればいい、か。
あたしがあいつを守れば、そのあたしがあいつを傷つける未来は来ないのだろうか。
ゆっくりと目を開けると、そこには満足そうに微笑んでいる葉月の顔がある。
「いっちゃんの、望むようにしていいんだよ」
あたしの背中を押すような一言。
あたしが何を考えていたのか、お前は分かってるんだろうな。
つい苦笑が漏れる。
本当に、お前には敵わない。
ゆっくりと、あたしはその場から立ち上がった。
「一花ちゃん?」
「……ちょっと出てくる」
花音がいきなり立ち上がったあたしを不思議そうに見上げてきて、葉月がふふって笑いながら花音の頭を撫でている。
レイラも分からなそうにあたしと葉月を見比べていた。
「なんですのよ、いきなり?」
「あのな、レイラ」
レイラの横で立ち止まって、頭にゴンと軽く拳を置いた。
「お前がそこまで気を遣う必要はないからな」
「は?」
「お前に出来る事なんてたかが知れている」
「はあ!? 馬鹿にしてますの!?」
食って掛かろうとしてきたレイラはあたしの置いた拳から逃げられないのか、「なんで動きませんのよ!?」とか言っていた。それ相応の力でお前の頭を押しているからだよ。
「お前が源一郎さんたちのやっていることを手伝うのは別に止めないが」
「わたくしだってやれるってことですわ!」
「出来る範囲でやるんだな。そんな目の下に隈を使ってまでやることじゃないし、お前がそんなことをしなくても、あたしはちゃんと自分のことを考えられる」
そんなに心配しなくても大丈夫だ。
ここは、ちゃんと現実なんだから。
レイラが自分がさっき言ったことへの返事だと分かったのか、頭を上げようとしてきた力が弱まった。
こいつは、今もどこかあたしと葉月への負い目を持っているんだよな。
「お前はちゃんとあたしと葉月の幼馴染だ」
「なっ……」
「それをあたしと葉月はちゃんと分かってる」
どこか抜けていて、バカで、察しが悪いんだか良いんだか分からなくて、いつも自分の気持ちをまっすぐ伝えてきて、残念な発想は変わらなくて、
でも、
「ちゃんと大事な幼馴染だ」
ポンポンと拳のままレイラの頭を軽く叩く。
顔は見えないが、「なんでずのよ……いぎなり」とか涙声になっているから、いつものみっともない顔で泣きそうになっているんだろうな。あとは葉月と花音に任せるか。
レイラの傍を離れて、扉を開けた。
「いっちゃん、眼鏡はいいの?」
出て行こうとした背中に、葉月の少し弾んだ声が飛んでくる。
そうだな。
「それは、あたしを守るためのものだろ?」
今から行く場所に、あたしを守るための道具はいらないからな。
貰ってから片時も手放さなかったその眼鏡をしないで、あたしは舞を迎えに行くために部屋を後にした。
今までにないくらい、心も足も軽かった。
お読み下さり、ありがとうございます。




