65話 お互いの為に
何かの気配がした。
……誰か……いるのか?
重い瞼を無理やり動かした。光が入ってきて、眩しいとさえ思ってしまう。
「起きた?」
母さんの声だ。
でも視界はぼやけていて、まだはっきりとしない。代わりに昔なじみの優しい手の感触が、頭に置かれるのを感じる。
「病院……か?」
「……そうよ。優一に電話したの、覚えてる?」
ああ……そうだった。確か、舞に昨日……。
昨日の夜のことを思い出す。
舞に告白されて、それをあたしが振って、あの悲しそうな舞の顔を見て……。
視界もどんどんクリアになってくる。布団から手を出した。自分の目の前まで持ってきて、じっと見つめた。
もうさすがに動くか。
手を開いたり、握りしめたりを繰り返す。母さんは黙ったままだ。そういえば……今、何時だ?
視線だけを窓の外に向けると、外はまだ暗かった。眩しかったのはどうやら部屋のライトのせいだったらしい。
「母さん……今、何時だ?」
「もうすぐ朝よ。お腹でも空いた?」
「いや……」
葉月に連絡しないと。
頭に浮かんだのが真っ先に葉月のことで、そんな自分に苦笑した。
舞のことじゃないのか、と自分で自分にツッコミを入れてしまう。
もう、癖になってるんだよな。
母さんの手をどかして、体をゆっくりと起こした。酷く重く感じる。
久しぶりのあの感覚。
息が苦しくて、フラッシュバックは止まらない。体が震えて動けなくなる。
母さんが隣で心配そうにあたしを見つめているのに気付いた。
「……大丈夫だ」
「まだ横になってなさい」
「本当に平気だ。久しぶりだから、ちょっと自分で制御できなかっただけだ」
「それで一時心肺停止になったのよ」
……死ぬところだったのか。
予想外の母さんからの回答に、さすがに何も答えることはできない。だから、いつもより心配そうなのか。
「優一とあなたの傍にいた鴻城家の使いの方のおかげで、今回は事なきを得たの」
「……後で礼を言っておく」
「そうじゃないでしょう、一花」
問題はそこじゃない、と言わんばかりに、母さんが今度はベッドに置かれた手を握ってくる。その手の温もりは、心配している母親の手だ。
「原因は分かっているの?」
「……分かっている」
どうしてまた発作が起きたのか、嫌でも分かる。
舞を振った。
それが舞を傷つけた。
自分が誰かを傷つけたことを、強く意識したからだ。
安心させるために、母さんの手を握り返した。変わらず辛そうな目であたしを見てくる。
「大丈夫だから」
「一花ちゃんのその言葉は信用してないのよ」
「あたしは葉月か。あいつの言葉と行動よりは信用しろ」
「無理をしてるんじゃないの?」
無理をしてないと言ったら、嘘になる。
でも、これは自分で招いたこととも言えるんだ。
「無理はしてない。ただ、ちょっと……そう、ちょっとだけ、昔を思い出しただけなんだ」
「……何故?」
舞のことは言えない。きっと母さんなら、舞の告白を好意的に捉える筈だ。その未来を怖がって、逃げているなんて言えない。余計心配させてしまう。
無理やり口元に笑みを浮かべる。
「心配しないでくれ。本当に大丈夫だから」
「死ぬとこだったのよ……」
「死ぬつもりはサラサラない。思い込んでいた葉月と一緒にするな」
死ぬ気はない。
これっぽっちもない。
あたしは自分の存在が母さんたちにとって邪魔だとは思っていない。
こんなに心配してくれて、愛してくれているのを分かっている。
でも、
「母さん……」
前に母さんが言ってくれたことを思い出す。
『もう自分を許しなさい』
そう言ってくれた温かい言葉を思い出す。
だから、ちゃんと伝えようと思う。
「あたしは、自分を許せそうにない」
母さんが一瞬だけ目を見開いて、でもすぐに悲しそうに目元を歪めた。自分の握っていない方の手を、胸元に置く。心臓の鼓動を感じた。
「許したくない。簡単に許したら、それこそ駄目になりそうだ」
「一花ちゃん……」
「忘れちゃ駄目なんだ。あたしが自分でしたことを」
忘れたら、また同じことをしそうで怖いんだ。
大事な人を傷つける自分が嫌いなんだ。
「この先、もう絶対したくないことを、忘れちゃいけないんだ」
あの時、あたしは簡単な答えに手を伸ばした。
葉月を楽にする方法を選択した。
「間違えたくないんだ」
『許さない』というのが、あたしの答えなんだ。
母さんたちが、そんなあたしを心配しているのは分かっている。
前に言ってたみたいに、娘が苦しんでいるのを見るのは辛いのだろう。
「それが、美鈴さんたちへの罪滅ぼしになる気がしてるんだ」
罪滅ぼしになっている気がして、
逆にあたしは助かっているんだ。
「……美鈴は、絶対一花ちゃんのことを責めてないわ」
「分かってる。美鈴さんたちはきっとそうだ」
ふふっと、困ったように笑ってしまった。
冷静に考えれば、そう思う。
美鈴さんたちは何も思っていない。
そんなことで、あたしを責めたりするような性格じゃない。
「だけど……そう思っていないと、罪悪感に潰されそうだ」
誰もあたしを責めていない。
自分がやったことを責めていない。
だからこそ、苦しくなる。
「母さんたちには悪いと思う。心配させてばかりで、こんな自分で」
でも、それがあたしだ。
逃げることはできない、あたし自身だ。
罪悪感をどうしても拭い去ることはできないんだ。
少しだけ顔を俯かせた母さんが、座っている椅子から体を浮かせて、あたしを優しく抱きしめてきた。
「あなたがいつか自分を許せる日がくることを、母親として願っているわ」
「……ああ」
「あなたの幸せを、誰よりも願っているの」
「分かってる」
「私だけじゃないわ。優一たちも、それに源一郎さんたちもよ」
ちゃんと伝わっている。
申し訳ないと思っている。
でも、すまない。
どうしても、その罪悪感は消えてくれないんだ。
ポンポンと宥めるように、母さんの背中を叩く。「一花」と耳元で母さんが呟いた。
「あなたがちゃんと前を向けるまで、私たちはいつでも待つわ」
耳に入ってきたその声は切実で、でも母さんは分かっているんだと思った。
母さんは分かっている。
あたしが何を言われても、自分を許すことが出来ないことを。
だから、見守るという選択肢を選んでいたんだ。
誰かに慰められても、
励まされても、
結局、自分で乗り越えるしかないんだって。
これはもう、
自分の問題だ。
「だから……大丈夫だって言っているだろ」
「美鈴の言葉の次に信じられないのが、まさか自分の娘の言葉になるなんて思わなかったわね……」
「あの人と一緒にするな」
「私の可愛い娘に全くもって変な影響を与えた美鈴が悪いのよ」
……何かを思い出したのか、段々声音が怖くなってきたな。だけどすぐに母さんは冷静になったのか、ゆっくりと体を離してそっと頬に手を当ててくる。
「……とにかく、一花ちゃん。今回のは見過ごせないわ。まだフラッシュバックがあるかもしれないから、もうしばらくはここで休みなさい」
有無を言わさぬ母さんの声に、さすがに否とは言えない。
「……分かった。だが、葉月に連絡させてくれ。今は安定しているとはいえ、学園で何をやらかすか分かったもんじゃない」
「こんな時でも葉月ちゃんを優先しなくてもいいじゃないの……」
「もうこれは長年しみついた癖なんだよ……花音はいるけど、物理的にあいつを止めさせられはしないしな。それに……落ち着かない」
「はあ……分かったわ。でも確かに葉月ちゃんのことは……そうね、見張りがいないと駄目ね。鴻城家の血筋の人間は、何をやらかしてくるか分かったもんじゃないから」
今は葉月が引っ張られることじゃなく、あのバカげた行動に目を光らせないといけないんだよな……葉月が心配というより、学園にいる生徒たちの安全の方が心配になる。
……そうだった。忘れるとこだった。
あいつを休ませるためのメッセージを送ろうとして、母さんに視線を向けた。
「母さん……姉さんに頼んで、あの薬を持ってきてもらえないか?」
「……そうね。でも、あまり飲みすぎてはダメよ?」
「分かってるさ、それぐらい」
昔はしょっちゅう飲んでいたものだ。フラッシュバックを抑える薬。姉さんと母さんの特製のもの。効力は高くないが、まあ、気休めにはなる。
とりあえず薬を飲んで、しばらく寝よう。
身体が重いのは、休めていないからだろう。気を失ってはいたが、絶対ずっとあの時の悪夢を見続けていたはずだ。
心配そうな母さんに、「また起きそうだったら、すぐに呼ぶから」と言って、部屋から追い出した。いつまでもここであたしを見続けるわけにはいかないだろ。母さんだって暇じゃないはずだ。
誰もいなくなった部屋で、ふうと体の力を抜いてベッドに横たわった。
さすがに死ぬわけにはいかない。
そんなことをしたら、母さんたちを悲しませる。
それはあたしの望むことじゃない。
また自分のもう震えていない手を見た。
身体は正直だ。
違うことを考えていても、逆に考えないようにしていても、でもすぐに忘れていないと言ったように反応してくる。
思い浮かべるのは、舞のあの辛そうな顔。
そのまま腕を自分の目元に乗せる。視界が暗くなったせいか、より鮮明に昨日の舞の顔が思い浮かんできた。
……あいつ、あのまま帰ったよな。花音たちもいたから、大丈夫だとは思うが。
心配になるのは、あたしの身勝手だ。
あたし自身が傷つけたっていうのに。
そのまま声にならない乾いた笑いが口から出てきた。
あたし自身が突き放した。
だから、もう戻れない。
もう、舞のあの慌てふためく姿を見ることは出来ない。
もう、あの分かりやすい行為を見ることは出来ない。
あたしに何とか振り向いてほしくて、舞はこの一年色々とやってきた。
無理やり抱きつこうとしたり、
頬にキスしようとしてきたり、
デートみたいなのを誘ってきたり、
その度に、誤魔化すように、ふざけながら色々としてきた。
顔を真っ赤にしながら。
「馬鹿野郎だ……」
この一年のあいつの顔が思い浮かんでくる。
こっちが予想外のことを言ったり、でも予想通りのことを言ったり、その度に顔を真っ赤にして慌てたり、何でだよとこっちがツッコむような行動を取ったり、
そして、
いつも明るく笑っていた。
『あたし……一花が好き』
あいつの精一杯の気持ち。
踏みにじったのは、
そう決断したのは、
他ならないあたし自身で。
あいつの気持ちに応えることができない、自分が嫌いで。
だけど、
それ以上に、
あいつの未来の笑顔を奪うかもしれない自分が、怖くて。
自分を、
信じられなくて。
「あたしが……馬鹿野郎だ……」
忘れてほしいと、
もう傷つかないでほしいと、
そう想う自分は本当に身勝手だ。
だから、
舞の為にも、
自分の為にも、
もう、ルームメイトは解消しよう。
それがきっと、
お互いの為になるから。
お読み下さり、ありがとうございます。
これで中編、やっと終わりです!
来週からは後編になります。




