39話 お願い
「この時はどうかな? 記憶にある?」
「…………刺したことは……覚えてる……」
目が覚めた葉月は、母さんと兄さんとも会話が出来ていた。ポツリポツリと、母さんの質問にも答えている。
だけど、全部が元に戻ったわけじゃない。
知らない内に、やっぱり葉月は自分を傷つけようとする。
「……いっちゃん?」
「ああ……そうだ……」
あたしが止めると、葉月は我に返ったように驚いた様子であたしをじっと見てくる。ハーハーと息を荒げて、ゆっくり深呼吸して落ち着かせている。
「今――何、してた……?」
「腕を刺そうとしたんだ……」
「そ……う……」
前とは違って、それでも葉月はちゃんと分かっているようだった。それだけは救いだった。
それと、もう一つ。
「あのね、葉月ちゃん。源一郎さんたちが――」
「やだ! いやだ!」
源一郎さんたちに会うのを酷く嫌がった。ギュッとあたしに縋りついて離さなくなる。
最初は無理やり会わせた。
源一郎さんたちは喜んでいた。沙羅さんなんか泣いて葉月を抱きしめた。
だけど、葉月は源一郎さんたちを突き放した。
だんだん呂律が回らなくなってきて、前みたいに前世の言葉を喋り、嗤いながら自分をまた傷つけようとして豹変した。
慌てたさ。
どうして、とも思った。
次の日、葉月はその時のことを覚えていなかった。そして嫌がるようになった。会いたくないと、叫んで泣いて、あたしを見てギュッとしがみついて離れない。
葉月は不安定のままだ。
唯一の救いは、ずっとあの狂気じみた行為をしなくなったこと。目を覚ますとリセットがかかるみたいに、ちゃんと話せるようになった。
あとは、窓の外に見える空を、よく見るようになった。
「曇りだな」
「うん……」
寂しそうに葉月はポツリと返事をする。
その時は、いつも葉月が消えそうに見えた。
それに……葉月は美鈴さんたちのことを何も言わない。
その事もより一層不安にさせる。
母さんたちも源一郎さんたちも、いつの間にか美鈴さんの話はあまりしなくなった。また葉月があの二人を追い求めるようになるのが怖いからだ。
あたしも、あまり美鈴さんたちのことを話に出さなくなった。それでまたあの日々が来るかと思うと、口に出すのが怖いというのが本音だ。
源一郎さんたちは母さんたちともよく相談していた。本当はずっとそばで看病したいはずなのに、我慢して会わないようにしている。豹変する姿を目の当たりにしたからだ。
「葉月ちゃん、思い出せる範囲でいいの。その時、どんな気持ちだったかな?」
「……死にたくなった」
「どうしてかは、分かる?」
「もう……分からない……」
記憶がない時のことを、母さんは丁寧に刺激しないように慎重に話を聞いている。
「死にたくなって……一杯になる」
それしか考えられなくなると、葉月は言った。
「呼んでくる……」
「誰が呼んでくるの?」
「……子供の私が」
その子供の自分の手を掴みたくなると、葉月が母さんに答えていた。そうすると、もうそれしか考えられなくなると。
そんなの、どうすればいいんだ……? どうすれば、葉月は明日のことを考えられるようになる? その手を掴まなくなる?
葉月の話を聞いて考え込んでいたら、「でも……」と葉月は言葉を続けた。
「いっちゃん見ると……分かる」
「一花を見ると、何が分かるの、葉月ちゃん?」
兄さんも葉月と会話している時はいつも一緒だ。ジッと観察するかのように、兄さんは葉月の答えを待っていた。
「こっちが……本当だって……」
それはあたしと共通の認識だ。
葉月にとっても、あたしがここにいることが、こっちの世界が現実だっていう証。
葉月の答えを聞いて、兄さんが顎に手を置いて考え始めた。
「葉月ちゃん、それは本当じゃないって思ってるってことなのかな?」
「……分からない」
「なるほど……葉月ちゃんにとって、どれが本当か分からなくなっちゃう。だけど、一花を見ると本当だって分かる」
うーんと考え込んで、兄さんが今度はあたしの方に視線を向けてきた。
「一花もそう言ってるよね。葉月ちゃんがいるから、こっちが現実だって分かるって」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ、合図を決めたらどうだろう?」
突拍子もないことを言いだしたな。合図? 何のだ?
母さんが兄さんの言葉を聞いて、ハアと溜め息をついていた。頭が痛そうにこめかみを指で押さえている。
「あのね、優一……こんな時にあなたの実験好きを出さないでちょうだい」
「母さん、これは大事なことじゃないかな? 葉月ちゃんも一花も、お互いがいるからこっちが現実だって分かるって言ってるんだよ。合図を決めれば、死にたくなって頭が一杯になるってことを抑えられるかもしれないってことに繋がらない?」
繋がるか……?
葉月も分からなそうに首を傾げているんだが。
そんなあたしたちをよそに、兄さんは「こんなのはどうだろう?」と少し目を輝かせて口を開いた。
「葉月ちゃん、君はここにいる。今ここに。それは今分かってる?」
「うん? うん」
「死にたくてそれで頭が一杯になってる時は分かってる? 分かってないんじゃないかな? もちろん、一花がいない時だよ」
「……そんなの分かんない」
「そうだよね。その時の記憶がないからね。だから、これが合図。一花を見るか、もしくは僕たちが今どこに君がいるのか聞く。そうしたら、葉月ちゃん、意識してみて」
「……意識?」
頷きながら、穏やかな笑顔を葉月に向けて、兄さんは続けた。
「頭がそれだけで一杯になっても、それを聞いたら意識して。練習してみよう。それを合図に、ちゃんとこっちが本当だって思えるように。もちろん、一花を見てもそれだけで本当だって思えるように。そうすれば、それだけしか考えられないってことにはならないんじゃないかな? 記憶が飛んじゃうってことも無くなるかもしれないし、葉月ちゃんの中で、子供の葉月ちゃんの手を掴まなくても良くなるかもしれない」
「そんなの……可能なのか?」
「一花、人にはね、色んな可能性があると思うんだ。やってみないと分からない。ただ僕はね、葉月ちゃんがこっちを現実だって思えれば、その行動は減るんじゃないかって思ったんだ」
尤もらしい事を兄さんは言っているが……そうなったらどうなるのかっていう結果を知りたいって顔になってるぞ。
母さんも分かっているのか、またハアと溜め息をついている。
ただ、兄さんは確かに実験オタクだが、ちゃんと葉月を心配しているのも分かっている。
確かに、それで葉月があの行動を取らなくなれば、それに越したことはない。どうして死にたくなるのかその原因を知りたいとも思うけど、今は葉月の命の安全の方が優先だ。止められる要素を増やすことに異論はないな。
母さんは仕方なしという感じで了承してくれた。母さんも、それで少しでも解決できるならいいかとでも思ったのかもしれない。それとは別にカウンセリングもしていくと言っていたけど。
その後しばらく、葉月と兄さんと一緒に何度も何度も練習した。その甲斐はあったのか、合図を言うと、葉月がだんだんと我に返る時間が早くなったように感じる。あたし以外でも、兄さんが確認しても我に返る回数が増えていった。
けれど、源一郎さんたちへの態度は変わらなかった。
「会いたくない」と言い、無理やり会ったら、葉月はやっぱり豹変する。
その度に見る源一郎さんたちの悲しそうな表情に、いつも胸が痛んだ。
「なあ、葉月。源一郎さんたちはお前のことを――」
「……いいんだよ」
何がいいんだよ。
空を眺めている葉月を見ると、そう聞くことも出来なくなった。
「いっちゃん……」
「なんだ?」
「……レイラ……どうしてる?」
ある時、葉月が空に視線を向けたまま、ボソッと呟くように聞いてきた。
レイラはもう学園に通っている。たまに悪夢に魘されることもあるようだが、それでも日常生活を送れるようになったと母さんが嬉しそうに話していた。
「……今でもバカなことやってるだろうさ」
「そっか……」
その声がどこか嬉しそうに聞こえた。
その時のことは覚えてるのか――と、その声を聞いて思った。
葉月の記憶はあやふやだけど、あの時の血塗れの葉月をレイラに見せたことは記憶に残っているんだろう。自分を傷つけている時のことは、断片的に覚えているって言ってたからな。
「会うか?」
「会わないよ……その方が、レイラもいいでしょ?」
「今はそうかもしれないが……」
「いいんだよ」
本当にそれでいいんだって、葉月は寂しそうにしながらも困ったように笑っていた。
もうあの頃には戻れないとその笑顔が伝えてきて、あたしも何とも言えない寂しさが胸の中に沸き上がる。
そういえば……レイラに葉月が元に戻ったことを伝えていないな。一応、伝えるか? それで、あいつも少しは安心できるかもしれないし。
久しぶりに連絡を取ってみようかと考えたところで、葉月にまた名前を呼ばれた。
「なんだ?」
「いっちゃん……ここを出たら、いっちゃん、付いてきてくれる?」
窓の外に視線を向けながら、予想外のことを言ってきた。思わず目を丸くする。
ここを出たら? ここって、この屋敷のことか?
「ここを出たいんだよ」
その声が切実で、空を見ている葉月をじっと見た。
確かに、ずっとここにいるわけにもいかないかもしれない。
だけど、ここを出るなんて源一郎さんたちも許可を出すわけない。
「そんなの……無理だろ」
「出来るよ。いっちゃんがいてくれれば……わかるから」
こっちが現実だと――そういう言葉が続く気がした。
それはあたしにも分かるが、だけど今でも葉月は不安定だ。今は兄さんや母さん、他の看護師たち、それに源一郎さんたちがいるからすぐ治療できる。もしあの状態の葉月になったら、あたし一人でも止められるのか、不安が残る。
「なあ、葉月」
「ん?」
「お前……なんでそんなに源一郎さんたちを遠ざける?」
やっぱりそれが今の一番の疑問だ。
分かってるはずなのに。葉月のことを誰よりも今大事にしているのはあの人たちだって。
あの二人がいなくなってからはそうだから。
そんなあたしの疑問に、葉月は空から視線を外さずにポツリと呟いた。
「それが、いいんだよ」
消えそうな声で、やっぱり同じことを言う。
「いっちゃん」
「……なんだ?」
「いっちゃん、無理ならいいよ」
それは、さっきのついて来いって言った話か?
「だけど、私はここを出る」
消えそうな声だったのに、それはハッキリと伝えてきた。
分かる。
まだあの二人が生きていたころ、こんな感じで何かをやるとハッキリ伝えてきた時は、葉月の決意は固いんだ。
「あのな、はづ――」
「いっちゃん」
空からあたしの方に視線を向けてきた葉月の目を見て、もう覆らないとやっぱり思った。
「ここにいたら、何も出来ない」
それは、何かをしようとしているのか?
そう聞こうとする前に、葉月は微笑んだ。
「何も出来ないのは、嫌だ」
……そう言われたら、何も言えなくなるじゃないか。
あの時決めた。
お前を止めると。
お前が覚えていないかもしれない、あたしがやったことに対する償いをすると。
「……あたしがいれば、お前、大丈夫なんだな?」
「うん」
目覚めてから、美鈴さんたちのことを一切口に出さない葉月がいる。
源一郎さんたちのことを遠ざけようとする葉月がいる。
目を離すと、すぐいなくなろうとする葉月がいる。
そんな奴を――一人に出来るわけないだろうが。
決めたんだ。
何度でも止めてやると、自分で決めた。
それはもう、
あたしの中で覆らない。
「…………条件が一杯あるからな」
あたしがそう言うと、葉月が少し目を大きくさせていた。
止めてやるさ。
葉月、お前が死を望まないように。
明日を喜べるように。
まだ本当は死にたくてたまらないくせに、それを止めるためにあたしに言ってきたこと、ちゃんと分かってる。
そうさ、分かってる。
お前がまだ死にたい事、分かってる。
何かを企んでる事も、分かってる。
だけどな、あたしはそれを止めてやる。
その欲が無くなるまで、ちゃんとあたしが止めてやる。
お前に頼まれたからじゃない。
止めることは、あたしが決めたことだ。
葉月の願いを源一郎さんたちに伝え、葉月が脅すような形で、あたしと葉月は星ノ天学園中等部の寮に入ることに決まった。
お読み下さり、ありがとうございます。




