37話 自分が決めたこと
簡易的なあらすじ。
葉月が発狂し自害行動を繰り返す中で、そんな葉月を止めるために心をすり減らしていった一花が、ついに緊張の糸が途切れ、葉月に手を掛けようとします。それを一花の母親と兄が止め、諭され、一花の心のバランスが崩れました。
最初、流血シーンがあるため、苦手な方はスクロールして読み飛ばしてください。
ハア、ハア、ハアと自分の息が聞こえてくる。
震える手。
動かない体。
汗もどんどん出てくる。
「一花ちゃん、大丈夫。葉月ちゃんは大丈夫」
ゆっくりと、あたしの手を掴んだ母さんが、下に降ろさせていく。
視界には、また無理やり薬を打たされて、グッタリしている血だらけの葉月の姿があった。
「大丈夫よ。大丈夫だから」
優しく、母さんが抱きしめてくる。
いつもみたいに、葉月を止めようとした。
葉月を見張っていた使用人が屋敷のブザーを押したから、みんなで葉月の部屋に掛け込んだ。
そこにいたのは、倒れている使用人と、いつもみたいにニタっと嗤っている血だらけの葉月の姿。
いつもだったら、あたしも近づく。あいつの視界に入るようにする。そうすれば葉月は動きを一瞬止めるから。
だけど、葉月の姿を見た瞬間、脳裏にあの時の葉月の笑った顔が過って。
手に、あの時の葉月の首の感触が蘇って。
動けなくなった。
息が出来なくなった。
罪悪感で、吐きそうになった。
身体がどんどん小刻みに震え始めて、何も出来なくなった。
源一郎さんがいつもより手荒に葉月を押さえつけて、葉月は逃れようと源一郎さんの腕に噛みついていた。メイド長も一緒に押さえつけた葉月に兄さんがいつもの鎮静剤の打ち込んだのが、やけにスローモーションに見えた。
様子がおかしくなったあたしに気づいて、母さんが抱きしめてくれる。
「大丈夫、大丈夫」
あやすように、耳元で優しくそう言ってくれる。
だけど苦しい。苦しくて苦しくて、また脳裏にあの時の葉月の顔が、目の前にいるみたいに浮かび上がる。
手にはあの喉の感触。
食い込んでいくあたしの手の感触。
「大丈夫。葉月ちゃんは生きてるわ」
力がどんどん体から抜けていって、そのまま母さんの腕の中に沈んでいく。
意識が段々と薄れていく。
目が覚めたら、自分の部屋のベッドの上にいた。
「もう……いいじゃない、一花ちゃん」
姉さんが泣きそうになって、ベッドの横の椅子に座って見下ろしてきた。
「もう一花ちゃんは十分頑張ったわ……だから、帰ろう? 一緒に帰ろう?」
あの日以来、あたしは頻繁に倒れるようになった。
フラッシュバックを起こして、体が言う事を聞かなくなる。あの感触を思い出して、呼吸が難しくなる。
そうなると、もう何も出来なくなる。
……限界だって、体が訴えてきているみたいだ。
「帰ったって……ここで葉月から離れたって、誰も何も言わないから。離れた方がもういいのよ」
ベッドの上のあたしの手を姉さんがギュッと握ってきた。
離れる……あいつから、離れる……。姉さんの言葉が何度も何度も頭で繰り返される。
そっと姉さんの手を外して、ゆっくりと起き上がった。
「一花ちゃん?」
「ちょっと……出てくる……」
「ど、どこに? 葉月の所に行ったら、またっ――」
ガチャッとその時、扉が開いた。母さんが入ってきた。ベッドから出ようとしているあたしを見て驚いているようだった。
「どうしたの?」
「一花ちゃんがまた葉月のところに行こうとしてて……」
言いにくそうに姉さんが母さんに答えていた。母さんはふうと困ったように息を吐いて苦笑している。ベッドに近寄ってきて、あたしの頬に手を添えて覗きこんできた。
「大丈夫よ。命に別状はないから。今は休みなさい」
それなら、良かった。
そう思う。
ちゃんとそう思う。
けど、やっぱり罪悪感が込みあがってくる。
どうすればいいのか、もう分からない。
このまま葉月のそばにいた方がいいのか。
それとも、姉さんの言うように離れた方がいいのか。
自分があいつにしたことを考えると、
あの時、完全に諦めてしまったことを考えると、
もう、何も考えられない。
自分の気持ちが、分からない。
悩んでるように見えたのか、母さんがポンポンとまた頭を撫でてくれる。
母さんは何も言わない。
姉さんみたいに帰ろうとも言わない。
あの時葉月にしたことを、責め立てるわけでもない。
ただ、今は休もうと言うだけだ。
休んで……その間に、あいつがいなくなったらどうすればいいんだ。
そう考えると、あたしはこの屋敷から離れられなくなる。
それも分かっているのか、母さんはあたしの意思を尊重してくれていた。源一郎さんもだ。母さんから聞いたと思うのに、葉月に手を掛けようとしたあたしに何も言わない。ただ「一花ちゃんの好きにすればいい」と言う。本当だったら、危険だからあたしを追い出すべきなのに。
行き場のない罪悪感と、いなくなってしまう恐怖と、もうグチャグチャとあたしの心も体も掻き乱されている。
どうにも整理が追い付かない。
誰かに……殴ってもらいたい気分だ。
ふと思い浮かんだのは、美鈴さんたちの顔。
もういない、葉月の両親。
美鈴さんだったら、今のあたしになんて言うだろうか。
会いたい、な。
「母さん……」
「……何?」
「ちょっと……出てくる……」
「……どこへ?」
「あの二人の所へ」
あたしがそう伝えると、母さんは予想外だったのか目を丸くさせてから、少し困ったように笑っていた。あの二人というのが、美鈴さんたちのことだって分かったのだろう。
「じゃあ、みんなで会いにいきましょうか」
逆にあたしも目を丸くさせた。姉さんは最初誰のことか分からなかったみたいだけど、すぐに察したみたいだ。あたしをおんぶしようとしたから「自分で歩ける」と反抗したが、無理に背中に乗せられた。
母さんに助けを求めたが「たまにはいいんじゃない?」と言われてしまったから仕方ないなって思ったが……おい、バカ姉……「一花ちゃん、この一年で胸がおっきくなってる~」とか変態発言やめろ? 怒ろうと思ったけど、前みたいなバカみたいな発言をする姉に、少しだけ気持ちが和んだ気がした。
三人で向かったのは、美鈴さんたちが眠っているお墓。
源一郎さんたちが葉月のそばにいられるようにって、この鴻城の屋敷から歩いて行ける場所に建てた。まあ、ここバカみたいに広いからな。
少し歩くと小さい丘がある。そこにガラス張りの建物を源一郎さんたちが建てたんだ。建物の周りは一面の花畑。美鈴さんはあれで花が好きだったから、源一郎さんが気を遣ったのだろう。
中に入って、そのまま美鈴さんたちのお墓の所へ。さすがに建物に入ってからは姉さんから降りた。口を尖らせていたが、そんなことで不機嫌になるなよ。
美鈴さんたちが眠っている白い墓石の前まで三人で赴いた。墓石の周りは色とりどりの花と、それに美鈴さんと浩司さんの写真がいっぱいある。そういえば、ここに来るのは美鈴さんたちの骨を埋める時以来だ。
写真の二人は、あの頃のまま変わらない。
もう、変わることはない。
永遠にこの姿のままだ。
「幸せそうに笑っているのを見ると……やっぱり腹が立ってくるわね」
隣で同じように写真を眺めていた母さんが不穏な発言をしだした。母さん、きっとこの人に振り回された時のこと色々思い出したんだな。だけど言葉の内容とは裏腹に、声はやっぱり寂しそうだった。
あたしもまた写真を眺める。
変わらない、幸せそうな二人の姿。
葉月も一緒に笑っていたんだ。
怒るかな……あたしが葉月に手を掛けたことを知ったら。
きっと、怒るだろうな。
あんたは、本当に葉月を溺愛していたから。
懐かしくなって、じわっと自然と涙が込みあがってくる。視界がだんだん滲んできた。
本当は、怒ってほしいさ。
何をバカなことをしたんだって。
諦めたことを、怒ってほしいんだ。
視界が滲む。
この二年近く、ずっと泣いてばかりだ。
眼鏡をとって、腕の服で拭った。
ポンポンと、姉さんが頭に手を置いてくる。
母さんの手はそっと背中に添えられていた。
ごめんなさいと、謝って済むことじゃない。
葉月の命を取ろうとした。
この人たちが愛してやまない葉月の命を。
自分達の命より守った葉月の命を。
あたしは、摘み取ろうとしたんだ。
美鈴さんたちの写真を見て、より一層実感する。
自分がしたことを実感する。
なんてバカなことを考えてしまったのか。
そんなあたしが、葉月のそばにいていいのだろうか。
そんなあたしが、葉月のそばを離れていいのだろうか。
あいつはあたしを見て……多分、一瞬だけこっちが現実だって分かっていたはずだから。
だから今、あたしはどちらも選べない。
どうすればいいのか、分からないんだよ……美鈴さん。
『ばかね、一花』
そんな美鈴さんの言葉が幻覚で聴こえてきた。
ふと、自分がとった眼鏡が視界に入る。
『ふふ。ずっと、葉月と友達でいてほしいって願いよ』
あの時――これをくれたあの時、美鈴さんはそう言った。
「一花ちゃん?」
眼鏡を茫然と見ているあたしを不思議に思ったのか姉さんが呼び掛けてきたけど、それよりもあの時の美鈴さんの言葉が、脳に響いてくる。
ずっと友達でいてほしいと、美鈴さんはそう言った。
あたしは、なんでずっと葉月のそばにいたんだろう?
その言葉があったから?
あいつが同じ転生者だから?
あいつがいることが、この世界が現実の証だから?
どうしてだった? という疑問が頭に過っていく。
どんどん記憶が遡る。
……あの時。
そうだ……あの時、決めた。
思い出したのはテロリストに誘拐された時。
葉月は無茶をやった。
一人で勝手に、テロリストたちの所に向かった。
不安になった。何も出来なかった自分に後悔した。
思い知った。
葉月はいつも無茶なことを勝手にするから。
だから、
せめて、
止めてやろうと思ったんだ。
あの時――そう、決心したんだ。
スッと靄が晴れていく感覚がした。
思い出した。
そうだ。あの時、あたしは決めた。
美鈴さんに友達でいてほしいと言われて、そんなの決まってると思った。
あいつは、あたしにとって唯一無二の存在だから。
嫌でもなんでも、友達を止めることはないって思ったんだ。
それは、自分の為でもあった。
あいつがいなくなると、自分も困るから。
だから、止めてやろうと、そう思ったんだ。
「母さん……」
ギュッと眼鏡を握りしめてから、自分の耳にかけた。
そのレンズは美鈴さん特製だ。
絶対にこれから百年は壊れることは無い。
そう、壊れることは無いんだ。
あたしの気持ちは、あの時から壊れてなんかいない。
隣にいる母さんを見上げた。ジッと真剣な表情に変わって、あたしのことを見下ろしてくる。だから、ちゃんとあたしの気持ちを母さんに伝える。ずっと見守ってくれていた母さんに告げる。
「あたしは、葉月のそばを離れない」
どんなに怖くても、
どんなに罪悪感に潰されようとしても、
あたしはあいつを止めるために、あいつのそばから離れない。
「あたしは、これから葉月をずっと止めてみせる」
もう絶対、楽な道を選ばない。
あいつが死にたいというなら止める。
あいつが周りを傷つけたいというなら止める。
前世の記憶に振り回されるというなら、あたしが何度でもこっちが現実だって教えてやる。
あいつの望みなんか知るものか。
絶対絶対、葉月……お前をあたしは止めてみせる。
あの時決めた自分の気持ちを言葉に出したら、母さんがまた困ったように笑っていた。
「後悔しない?」
「しない」
「一花ちゃんがそんな責任を背負わなくていいのよ?」
「そんなもの背負わない。これはあたしの意思だ」
責任とかじゃない。
これはあたしの我儘だ。
じっと母さんを見上げていると、後ろから姉さんがギュッと抱きしめてきた。「一花ちゃんがそんなことする必要ないのに……」と不服そうだったけど、あたしはもう自分のこの気持ちは曲げない。
母さんがハアと息をついた。
「やっぱり鴻城家と……違うか。美鈴と関わったせいかもね~。困ったものだわ~」
口ではそう言っていたけど、どこか嬉しそうに目を細めている。
「一花ちゃんが、そう決めたのね」
「そうだ」
「そう言ったからには、覚悟はできてるのね?」
「もちろんだ」
東雲家のそれはモットーだろ?
久しぶりに、心の底から笑えた気がした。
「自分で決めたことは、自分でやるさ」
ふふっと、母さんが今度こそ誰でも分かるくらいに嬉しそうに笑った。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
辛い思いをされた方がいたら、お詫びいたします。
そして、後書きと前書き、両方長くなり、誠に申し訳ありません。
来週からは、葉月が正気に戻ります。




