36話 諦めちゃいけないのよ
「一花っ!!」
息が苦しい。
ハアハア! と荒い呼吸をしている自分がいる。
母さんの声がしたと思ったら、体を無理やり葉月から剥がされた。
布団の上で、葉月が「ゲホ! ゴホ!」と咳き込んでいるのが見えた。
母さんと一緒に部屋に入ってきたであろう兄さんが葉月の状態を見ていて、声を掛けているのも見えた。
「優一、葉月ちゃんをお願いね」
「分かってる」
ただただ茫然と、あたしは息を荒くしながら母さんに抱きかかえられた。
無理やり部屋から連れ出されていく。
あたし……あたしは……今……?
この鴻城の屋敷で与えられている自分の部屋に連れていかれ、ベッドの上に座らされた。
手が、体が、震えていて……息が苦しい。
「一花……一花ちゃん、聞こえる?」
母さんが険しい表情で、あたしの顔を覗き込んでくる。そっと両頬に手を添えてきた。
「さっき、自分が何をしたか……ちゃんと分かってる?」
さっき……さっき、あたしは……。
「……終わらせ……ようと……した……」
ポツリと、自分がしようとしたことを、呟いた。
終わらせようと、した。
殺そうとした。
葉月を、
あいつを、
「もう……終わらせようと……思った……」
カタカタと震える手を茫然と見つめた。
さっきから涙は勝手に溢れてくる。
「一花ちゃん……」
母さんの悲しそうな声で、胸の奥がギューっと苦しくなる。
頬に添えられていた手がゆっくり背中に回ってきて、母さんが優しく抱きしめてくれた。
だって、母さん……だって……
「あいつが……それを……望んでるんだ……」
葉月が、あいつが……死ぬことを望んでるんだ。
「あいつっ……あいつっ……笑ったんだっ……」
それが叶うって、
あたしがしようとしたことが分かって、
嬉しそうに、前みたいに、一瞬だけ笑ったんだ。
喉を引きつかせながらポツリポツリと呟くあたしを、母さんが黙って抱きしめてくる。
「だから、だからっ……! あ、あたしがっ……ちゃんと、ちゃんともう終わらせようとっ……思ったんだよっ……!」
「一花ちゃん……」
葉月の喉の感触がまだ手に残っている。
その生々しい感触が残っている。
母さんの肩に顔を埋めた。縋りつくように震える手で腕を掴んだ。
「そう、そうすればっ……! あいつも楽にっ……なれるってっ……思ったんだっ!」
それが、あいつの望みだから。
それが、唯一してあげられることだったから。
あたしは、ちゃんと殺そうと思って、あいつの首に手をかけた。
涙が止まらないあたしを、母さんは抱きしめてくれる。ゆっくりゆっくり宥めるように背中を撫でてくれる。その手の暖かさが、また胸を苦しくさせてくる。
「……一花ちゃん」
静かな声で、母さんが耳元で話しかけてきた。
「ずっと――ずっと葉月ちゃんのそばにいたものね。一花ちゃんがそう思っちゃうのも無理ないかもしれない」
母さんの優しい声が、スルリと耳に入ってくる。
「この一年、ずっと頑張ってきたよね。知ってるわ。葉月ちゃんを止めようと、ずっと頑張ってきた姿を見てるから」
「っ……」
「家に帰ろうって言っても、一花ちゃんはそれを断ってきた。葉月ちゃんを大事な友達だって、見捨てないで頑張ってきたのを知ってる。友達思いの優しい子に育ってくれたんだなぁって嬉しくなったのよ」
……違う。友達思いとかじゃない。
ただの恩返しだ。
あたしを認めてくれた、色々くれた葉月に対する恩返しだよ。
母さんが「でもね」と少し体を離して、また顔を覗き込んできた。
「一花ちゃん……葉月ちゃんの望みはね、絶対叶えちゃいけないのよ」
言い聞かせるように、母さんは言葉を紡ぐ。
眼鏡をとって、頬についた涙の跡を指で拭ってくれた。
「それがどんなに葉月ちゃんの望みでも、絶対叶えちゃいけないの。それが、美鈴たちが望んでいることなの」
……美鈴さんたちの、望んでいること?
「諦めちゃいけないの。葉月ちゃんの周りにいる私たちが、葉月ちゃんに生きたいって思わせることを、絶対に諦めちゃいけないのよ」
諦めちゃ……いけない……。
母さんのその言葉が、胸に、脳に、体に響いてくる。
「一花ちゃんは悪くないわ。ずっと頑張ってきた。誰よりも、一花ちゃんが頑張ってきた。気を張って、ずっとずっと心配して、思いつめてしまうほど、頑張ってきた」
眼鏡をベッドの上に置いて、母さんがゆっくりとその手で頭を撫でてきた。
「少し休みましょう、一花ちゃん。大丈夫。それまで絶対葉月ちゃんを死なせない。一番葉月ちゃんを心配している一花ちゃんに、そんなこと報告しないわ」
また抱きしめてきて、あやすように背中をポンポンと叩いてくる。
その手がやっぱり暖かい。
「一花ちゃんが、誰よりも葉月ちゃんに生きてほしいって思ってること、私たちは全員分かってるから」
生きてほしい。
生きてほしいさ。
母さんの……言うとおりだ。
まだ……まだこれから、楽しい未来が待っているはずだから。
もう出てこないと思っていた涙が、また目から零れ落ちていく。
そうか。
あたしはさっき、諦めたんだ。
諦めちゃいけないのに、諦めたんだ。
それがあいつの望みだからって、
諦めて、殺そうとしたんだ。
美鈴さんたちの顔が脳裏に浮かんだ。
そうだ。美鈴さんたちは望まない。
あいつが自分達のところに来ることを望まない。
それなのに、あたしはっ……!
自分が何をしたのか、思い知った。
取り返しのつかない思いを抱いて、後悔で苦しくなった。
そのまま声を押し殺して、母さんの腕の中で泣き続けた。また葉月の喉の感触が手に戻ってきて震えているあたしを、母さんは黙って抱きしめてくれた。
罪の意識が膨れ上がって、
怖くて、
美鈴さんたちに謝りたくても出来なくて。
手に残る感触を思い出して、必死にバランスを保っていたはずの心が崩れていく音が聞こえた気がした。
一花の中で、この出来事はずっと心に残り続けます。




