32話 変化
「目を覚ました?」
「うん、さっきね。魁人たちはもう病室に行ってるよ。一花も来るかい?」
葉月のお見舞いに来たあたしに、少し嬉しそうにしながら兄さんが伝えてくれた。
「全く、あの子も人騒がせなんだから。こんなに待たせないで、さっさと起きなさいっての」
そう言いながら、あたしに付き添ってくれた姉さんも嬉しそうだ。「よかったね」とあたしの頭に手を置いてくる。
葬儀が終わってから2週間。
やっと葉月が起きた。良かった。
安心したと同時に不安も出てくる。
あいつ、絶対美鈴さんたちのこと聞いてくる……なんて言えばいいんだ? 源一郎さんたち、どう伝えるんだろうか。
そんなことを考えながら、葉月の病室に向かった。
コンコンとノックをすると、中から母さんの声がした。母さんもいたのか。
少し緊張しながら扉をガラッと開けると、ベッドの上には上半身を起こしている葉月の姿があった。その姿を見て、心の底からホッとした。
よかった。本当に目を覚ましたんだ。
でも――なんだ、この空気?
源一郎さんたちも、どこか困惑しているような表情だ。
「いっちゃん……?」
葉月のあたしのことを呼んでくる声を聞いて、そこで一安心したのも束の間、葉月は何故か驚いているような表情であたしを見てきた。
……なんだ? なんか様子が変だ。
葉月が恐る恐ると言った感じで、扉近くにいるあたしに手だけを伸ばしてくる。縋るような手に見えた。
「葉月?」
「いっちゃん……」
近くに来てほしいのだろう。だから、ベッドの横に駆け寄った。震える手で、葉月はあたしの腕の服を掴んでくる。
「おい、はづ――」
『いっちゃん、いる。いっちゃん、ちゃんといる』
――え?
思わず、言葉を失った。
こいつ……今、なんて言った?
『いっちゃん、あのね。怖い夢見た。いなくなる。みんないなくなる』
息を、呑んだ。
葉月が今言った内容に、じゃない。
いや、そっちも不安になる内容だが――それよりも、だ。
こいつは今、向こうの言葉で話した。
前世での、英語を話した。
『でも、いっちゃんいるから。良かった』
そこでやっと、葉月はへにゃりと笑う。
そんな葉月に何も言葉が出てこない。
葉月……お前、気付いてないのか?
自分が今、向こうの世界の言語を話しているのを理解していないのか、葉月は不安そうに周りを見てから、また視線をあたしに戻してきた。
『ねえ、いっちゃん。おじいちゃんたち、なんて言ったのかな? さっきね、知らない言葉を話したんだよ。なんでだろ?』
母さんたちの言葉を、分かっていないのか?
様々な疑問が、一気に溢れてくる。
なんだ? 一体なんで、葉月がこんな状態に? だから、源一郎さんたちは困惑していた?
『いっちゃん、なんで黙ってるの?』
クイクイと腕の服を引っ張ってくる葉月。その目は不安そうで、声も寂しげだ。
「葉月、お前……」
『いっちゃん? 今、なんて?』
届いて、いないのか……?
あたしも困ったのが分かったのか、源一郎さんが口を出してきた。
「葉月……僕たちの言葉が分かるかい?」
『? いっちゃん。おじいちゃん、今なんて言ったのか分かる?』
「――駄目だな。蘭花さん、これはどんな症状なんだい? 聞いたことがない言葉を葉月が話しているんだが……」
「それが……こんな症状は聞いたことも……ですが、葉月ちゃんの傷は癒えています。もしかしたら、事故の影響かもしれません。すいません、詳しく検査を行いたいのですが?」
母さんも源一郎さんも、それに周りにいる魁人さんや沙羅さん、メイド長も困惑している。
当然だ。葉月が話しているのは、こっちの言語じゃない。前世で使われている言語だ。あたしもやっと聞き取っている状態だ。
あたしも英語は得意じゃなかったが……仕方ない。話してみるしか、今の葉月と意思疎通を図れない。
必死に前世で勉強したことを思い出しながら、ベッドの葉月を見上げる。やっぱり不安そうだ。当たり前か。起きたら今の葉月にとって、みんな知らない言葉を話している状態なんだ。
『葉月、よく聞け』
『うん?』
あたしが話しだしたからか、葉月も反応した。……それよりも反応したのは母さんだったが。後ろで「え、一花ちゃん?!」って驚いている声が聞こえてくるが、悪いな、母さん。あたしもそれどころじゃない。
『あのな、葉月。お前、今何を話しているか分かっているか?』
『何を……?』
『それは、昔使ってた言葉だ。そうだろ? 今は違う。この世界での言葉は、それじゃないだろ?』
『昔……この……?』
「こっちの言葉だ、葉月」
最後に、言い聞かせるように、今いるこの世界の言葉を使ってみる。聞き取れたのか、そうじゃないのか、葉月が見る見るうちに目をまた見開いていった。
「葉月、思い出せ」
腕を掴んでいた葉月の手を握り返して、内心不安に思いながらジッと見つめた。
葉月は動かない。瞬きもしないで、あたしを見てきた。周りの皆も黙って見守ってくれているのを空気で感じる。
「……こっち?」
ポツリと、小さく葉月が呟いたのにホッとした。忘れてるわけじゃないみたいだ。ああ、そうだ。こっちだ。
「……こっち。この、世界?」
「そうだ。その言葉を、ずっと使ってただろ?」
『ずっと……?』
まだ混乱しているのか、また向こうの言葉で返してきた。ゆっくり、あたしから源一郎さんたちの方に視線を向けている。
「おじい……ちゃん」
はっきり、葉月がこっちの言葉を使った。源一郎さんたちからも安心したような息が漏れていた。
「葉月、分かるかい?」
「おじいちゃん……おじいちゃんいる」
ああ、大丈夫だ。葉月はちゃんと答えている。事故の直後で、記憶が混乱したのかもしれない。
沙羅さんが感極まったのか、葉月のことを抱きしめていた。源一郎さんも魁人さんも嬉しそうだ。その様子を見て、強張っていた肩から力が抜けていった。よかった。
「一花ちゃん……さっきの言葉は……」
後ろにいた母さんの声にハッとした。ホッとしてる場合じゃなかった。
知らない言葉を話したんだ。気味悪がられるかもしれない。
そう思ったら、また嫌な感じに不安が広がっていった。
母さんたちに気味悪がられるのは、さすがに堪える。
ど、どうする? 兄さんには話していたけど、実際この言葉を使ったのは、それこそ葉月が前世の記憶持ちだって知った時ぐらいだ。でも何て言えば――。
「母さん、一花のさっきの事については後で話すよ」
「優一……あなた、知ってるの?」
兄さんが助け船を出してくれた。兄さんは、気味悪く思ってないみたいだ。それもまた心強かった。
母さんには――自分から話してみよう。大丈夫。きっと母さんは受け入れてくれる。そんな気がする。姉さんも、父さんも、きっとそうだ。だからちゃんと、自分の口から――
「ママは…………?」
――――密かに決心していたところで、葉月のその呟きが耳に突き刺さってきた。
「パパは……?」
また呟いた葉月の方に、自分の家族たちから慌てて視線を戻した。キョロキョロと、葉月が源一郎さんたちの周りを見ている。
それを見ただけで、胸が痛くなった。
…………源一郎さんたち、どう伝えるんだ?
沙羅さんは葉月を抱きしめたまま、固まっていた。
魁人さんは、歯を食い縛って視線を逸らしていた。
源一郎さんは――――抱きしめられている葉月を静かに見ていた。
「おじいちゃん……ママは? パパは?…………どこ?」
「……葉月」
源一郎さんの葉月の名前を呼んだ声で、伝えることが分かった。
ちゃんと、伝える気だ。
誤魔化さないで、伝える気だ。
分かってるんだ。
葉月は頭がいいから、一時しのぎの嘘をついても、絶対に見破られる。
それだったら、最初にちゃんと伝えて、ケアした方がいいという判断だろう。
ゴクッと、自然と喉が鳴った。母さんたちもそうなのかもしれない。みんな、今、源一郎さんに注目している。
「葉月、よく聞きなさい」
源一郎さんの声はどこまでも静かだ。その声が、この部屋の空気をひりつかせる。葉月も源一郎さんの様子がおかしいのが分かったのか、目を見開いたまま言葉を発さない。
「二人は、もういないんだ……」
その残酷な真実が、部屋に響き渡る。
「美鈴と浩司君はね、もう会えないんだ、葉月」
シンと部屋が静まり返った。
葉月は何も答えない。察しているのか、分からない。けれど、さっきよりさらに大きく目が見開かれた気がした。
カチ、カチ、カチ、という時計の音が、やけに耳に響いてくる。
「……………………」
やっぱり、葉月は何も言わない。
実際は一瞬なのに、とてもこの無言の時間が長く感じた。息苦しさも感じてくる。
葉月はずっと源一郎さんを見ていて、誰も言葉が出てこない。葉月も何も口に出さない。「なんで?」とも「どうして?」とも問いかけず、固まっていた。
……信じられないよな……当然だよな。
何も言わない葉月を、あたしも見つめるしか出来ない。それが歯痒い。事実を受け入れられない気持ちが、痛いほど分かる。
もどかしい思いで一杯で、ギュッと自然と拳を握っていたら、「でもね、葉月」と源一郎さんが優しい声音でまた言葉を続けてきた。
「あの二人にはもう会えないけど、葉月をずっと見守ってるよ」
それは、願いだ。
ここにいる人達の、あたしの願いだ。
そうであってほしいと、あたしも思う。
だから、はづ――
『…………いない』
――――ゾクッと、背筋が震えた。
葉月のその無機質な声が、葉月の頭に置こうとしていた源一郎さんの手の動きを止めさせていた。沙羅さんもまた、抱きしめていた腕を離し、葉月の顔を覗き込んでいる。
あたしもまた、頭が混乱してきた。
なんで、また……向こうの言葉を……。
瞬きもせず、ゆっくりと顔をあたしの方に向けてきたかと思えば、そのまま後ろの母さんの方、兄さん、姉さんをグルリと見渡している。
その動きが緩慢で、どこか危うい気持ちにさせてくる。
「葉月……?」
つい名前を呼んだ。
でも、葉月は、
葉月はもうあたしを見てこなかった。
顔を俯かせ、ただ茫然と布団の上に置いてある自分の手を見ている。
源一郎さんは黙って葉月を見つめていて、沙羅さんと魁人さんは心配そうに葉月の名前を呼びかけながら顔を覗き込んでいた。
だけど、葉月は何も答えない。
何も反応しない。
そんな葉月の様子が不安で、
どうしようもなく、不安になって。
「は、葉月……おい……」
「……」
たまらず、沙羅さんたちと一緒になって声を掛けた。
布団の上にある葉月の手を握る。
けれど、葉月は何も反応しない。
ただただ一点だけを見つめている。
どこも、見ていない目だった。
……やっぱり気づいたんだ。
源一郎さんはハッキリ言ったわけじゃない。
もう会えないという事実を伝えただけ。
死んだとハッキリ伝えたわけじゃない。
だけど、葉月は頭の回転が早いから。
『会えない』という言葉の意味に――『いない』という意味に気づいたんだ。
ゾワゾワと鳥肌が立ってくる。
ショックを受けるのは分かる。
あたしもそうだった。
信じられなくて、どうしても信じられなくて。
でも、これはなんだ……?
葉月のこの纏う空気が、
葉月の虚ろなその目が、
あたしの目に、肌に、突き刺さってくる感覚は……一体なんだ?
これが生きている人間かと思うほど、今の葉月に生気を感じられない。
魂がそこにあるのかと思えるほど、葉月がそこにいる感覚が全くない。
向こうの言葉をまた話していたとか、そんなのを気にしていられる様子じゃない。
ドッドッドッと、心臓が脈打つ音が耳に響いてくる。
ちゃ……ちゃんといる。
葉月はここにいる。
そう頭で何度も唱えて、何も反応しなくなった葉月の手をまた握ろうとした時に、何故か母さんにその手を取られた。
「涼花、一花ちゃんを部屋から出してちょうだい」
え?
「えっ……でも……」
「いいから」
戸惑う姉さんにあたしの体を押し付けるようにして、腰を屈めて微笑んできた。
「一花ちゃん、葉月ちゃんも疲れたんだと思うの。だから、今日はもう家に帰りなさい」
「か、母さん?」
「まだ、葉月ちゃんには衝撃が強すぎるのよ」
最後の言葉は、あたしにだけ聞こえるように小さい声だった。
その間も、葉月の反応はない。
源一郎さんが、ベッドに座り直して葉月の体を抱き寄せていた。
黙って、ポンポンと葉月の背中を撫でている。
姉さんに半ば無理やり部屋から出される時に、視界に入った。
源一郎さんに抱きしめられている葉月が、どこか幻のように感じて、胸がどんどん痛くなってくる。
――嫌だ。
――ダメだ。
浮かんできたのが、その言葉。
どうして、自分がそんな気持ちでいっぱいになってるのかも分からない。
不安で、不安で。
とにかく嫌で。
今、家に帰るのが嫌で。
葉月をこのままにさせておくのが、とにかく嫌で。
だけど、何も出来ない自分がいる。
手が、足が、
自分の言うことを聞かない。
ただただ姉さんに引っ張られるまま、あたしはその部屋から連れ出された。
その時自分が感じていた感情が、
“いなくなるかもしれない恐怖”だと思い知るのは、
鴻城の屋敷で、
血塗れのあいつを見た時だった。
次話から37話まで、前書き、後書き長くなります。
お読み下さり、ありがとうございます。




