230話 本気 —花音Side※
振り向いてほしくて、思わず叫んだ。
ハアハアと息を切らしながら、ふらつく足を前に動かしていく。先輩たちも舞もレイラちゃんも一花ちゃんも、葉月のところへと近づいていた。
葉月のところまではまだ遠い。
まだ掴めない。
葉月、ダメだよ。
そこから落ちちゃダメ。
葉月の体がグラッと動いて、全員が荒い呼吸を上げながら、緊張して足を止めてしまった。
ゆっくりと葉月が塀の上に立つ。
もう、あと少し動くだけで落ちてしまう。
嫌な汗が流れてくるのを頬に感じた。
こっちに振り向く姿がやけにスローモーションに感じる。少し眉を上げて、私たちを見渡している。驚いているようにも見えた。
あの日、宝月さんに刺されて以来の起きている葉月がそこにいる。
驚いていた感じだったけど、穏やかに口元を綻ばせていた。
とても死を望んでいる人には見えない。
「お前っ……! 何勝手に抜け出してる!?」
一花ちゃんの怒った声が響き渡る。まだ息を整えられてないからか、皆と同じくハアハアと大きく呼吸していた。
葉月は柔らかく微笑んで、私たちを見下ろしてくる。
「来ちゃダメだよ、いっちゃん」
「葉月っ!!」
葉月はしっかりと答えていた。
一花ちゃんの話だと、起きている時はまともに話ができないと言っていたのに。
片手を自分の胸に当てて、笑っている。
「大丈夫、私はちゃんとここにいる」
「お前っ!?」
「今、ちゃんと正気だよ」
正気。
つまり死にたくて、それだけで頭がいっぱいになっていないということ。
一花ちゃんが言葉を詰まらせていた。
驚くのも分かる。私も舞もレイラちゃんも、ここにいる皆が、今の葉月は正気じゃないと思っていたのに。
じゃあ、どうして葉月はここに来たの……? 現実だって分かっているのに?
「ねえ、葉月っち……そんなとこ危ないじゃん。そこから降りてきなよ、ね?」
「葉月……もういい加減になさいな。これ以上、皆に心配させてどうしますの!?」
正気で話が分かると思ったのか、舞とレイラちゃんが葉月の説得に入った。
でも葉月は苦く笑うだけ。
その場所から、こちら側に降りてこようとはしない。
「小鳥遊、悪ふざけはいい加減にしろ」
「そうよ。今回のは一番タチが悪いわね。さっさと降りてきなさい」
「さすがに見過ごせないよ、小鳥遊」
「さっさと降りろ。卒業式の日にこんなことするな」
「(コクコクコクコク)」
先輩たちも葉月に呼び掛けている。
葉月はただ笑うだけ。
ゆっくり1人1人を見るように見渡して、最後に私に視線を止めた。
「よく皆分かったね……私がこの時計塔にいるって」
どこか感心しているように言ってくる。
降りる気はないと、その視線が伝えている気がした。
今にもそのまま後ろに倒れ込み、空にその身体を落とそうとしている気がする。
自然と怖さで体が震えた。
「葉月は空が好きだから、もしかしたらって思ったの」
慎重に――葉月がまだ落ちないように、ゆっくりとそう言葉を出した。そう言ったら、葉月は「ああ」と納得したかのように苦笑していた。
「そっか、それでここに来たんだね」
「葉月……やめて? こっちにきて?」
早く、そこから降りてきて……?
不安げに見ていたら、葉月は視線を私から逸らしてまた周りを見渡している。
優し気に微笑みながら、私たちを見下ろしてくる。
気づかれないように、半歩前に足を動かした。
一花ちゃんに視線を止めていたから。
「ねえ、いっちゃん」
「……何だ?」
空を見上げた。
その仕草だけでも、足が止まってしまう。
私たちから視線を空に変えて、葉月はゆっくり体を横向きにして塀の上を歩き出す。また緊迫した空気が漂う。
そのまま……外に身体を投げないで……?
葉月は穏やかな口調で、一花ちゃんに話しかけていた。
「いっちゃん……この世界は優しいね」
「そうだな。優しい世界だ」
それは、前世の世界の話……?
「いっちゃんにとっても優しい?」
「ああ、そしてお前にとっても優しい世界だ」
「私には優しすぎるなぁ」
「お前だっていていいんだ、葉月!」
「いっちゃんたちがいるべき世界だよ」
「葉月っ……!」
一花ちゃんの苦しそうな叫び声が、私の耳に悲痛に聞こえてくる。
葉月は、自分がいるべきじゃないって思っているの?
葉月にとって、こっちの世界はいるところじゃないの?
ギュッと胸が締め付けられていく。
また一花ちゃんの方に視線を向けた葉月に、一花ちゃんの動きが止まった。さっきから少しずつ近づいているのが分かっているみたい。
「いっちゃん」
「何だ……?」
「解放してあげるよ」
「…………」
解放……?
一花ちゃんは分かっているのか、ギリッと歯を食い縛っていた。
「ストッパーは今日で終わりだよ、いっちゃん」
「――勝手に、決めるな!」
「もう大丈夫だから」
「何が大丈夫なんだよ!?」
「もう止めなくていい」
「あたしが自分で決めたことだ! お前を止めることを、あたしが決めたんだよ!」
ボロっと一花ちゃんの目から涙が零れる。そんな一花ちゃんを優しく微笑んで、葉月は見下ろしていた。
葉月は一花ちゃんに止めさせようとしない。
もうこれから死ぬことを覆さない。
本気、なんだ。
「私も終わらせることを決めたんだよ、いっちゃん」
「やめろ……」
「いっちゃんでも止めないよ、私は」
「やめろっ!」
「だって私は今、正気だからね」
「やめろ、葉月!」
「これがあの日、正気に戻ったあの日に、願ったたった一つのことなんだよ」
「そんなこと――認められるわけないだろうが!! だからあたしが、止めるためにいるんだよ!!」
「意識を持って行かれた時は、いっちゃんで止められる。でも今の私は止めないよ。私は今、ここにいるからね」
一花ちゃんでも今の葉月は止められない。
葉月は自分の意思で死のうとしているから。
どうやっても葉月はこれから飛び降りる。
それが悲しくて、辛くなるよ。
「ねえ、葉月……やめて?」
震える声で、葉月を見上げた。
死ぬことを選ばないで?
そんなの嫌だよ。
葉月が死ぬのなんて嫌だよ。
いなくなるなんて嫌だよ。
「葉月、お願い。やめよ? 一緒に帰ろ?」
「だめだよ、花音。見ちゃだめ」
「っ!」
一歩大きく動くと、葉月が一歩後ろに下がってビクッと体が跳ねた。
もう、縁に足を掛けている。
優しく、穏やかに微笑んで見下ろしてくる葉月。
「見ちゃだめだよ、花音。見る前に帰って? また魘されるよ」
こんな時でも、葉月は私の心配をするの……?
「じゃあ、一緒に帰ろうよ。そうすれば見なくてすむよ」
「帰らないんだよ、花音。私はもう決めているから」
「帰ろう? 葉月の好きなハーブティー淹れるから、ね?」
何とか引き留めたくて、出てきた言葉がハーブティー。葉月も困ったように笑っていた。
どうすれば、葉月は止めてくれる? そこから降りてくれる……? でも答えは出てこない。グルグルと頭の中で、どうすればいいかしか考えられない。
「花音には幸せな未来があるよ」
「葉月にだって……葉月にだってあるんだよ」
「ないよ。それに私は未来はいらない」
きっぱりと断る葉月に、ギュッと震える唇を引き結ぶ。
もう諦めているその眼は、何を伝えても覆らないと訴えてくる。
でも私は、諦めたくないんだよ。
「作ろう? 一緒に、皆と一緒に葉月の未来作ろうよ?」
「私はそれを望まない。あの時すべてを捨てたから」
「葉月がいないと、幸せな未来は来ないんだよ?」
「来るよ、花音。私がいなくても、花音には幸せな未来が来るよ」
葉月がいない未来が、幸せなはずないよ。
葉月が捨てた未来だというなら、私が拾うよ。
だけど葉月はそう信じているのか、クスクスと笑う。
嬉しそうに笑っている。
皆の事をゆっくりまた見渡していた。
――――ダメ。
葉月がもう誰とも話す気がないのが分かった。
ゆっくりとまた空を見上げていた。
目元を嬉しそうに緩ませて、空を見ている。
ダメ。
そんなのダメ。
自然と、体は動いていた。
「じゃあね」
その一言を言って、葉月がそのまま後ろに倒れていく。
「「葉月!!!」」
手を伸ばす。
このまま、お別れなんて嫌だから。
空に身を投げた葉月の手を、
掴んだ。




