第二十七話 三人称、地の文で書くべきこと
一人称だと多く避けられることだが、三人称だと多くこれに引っ掛かって作品をダメにするという曲者が居るよ。「設定説明」という輩だ。
一人称だと、心の声という形式なので、コイツが居たら違和感がハンパないからすぐ解かる。説明独特の文章でイラッとさせられるからね。
三人称だと、これがなかなか解からなくなるんでコイツは別名「三人称ニンジャ」だ。(笑
始末の悪いことに、コイツは書いてる本人と一部の盲目になってる読者には非常に心地良い文章に感じられるという特徴がある。「俺って天才じゃね?」なんて鼻が伸びまくる。
論理的な文章で、小難しい単語とかが羅列されて、理路整然と対象についての説明をしてくれるわけだけども、考えてみてほしい。
普通、学会発表とかの論文を読んで面白いと思えるか?
コクーンがパージで、て、例のアレだよ。(笑
設定説明が面白く読めるのは、設定を読もうと思っている場合だけだ。その対象をもともと聞き齧っていて、既視感がバリバリ有るよ、という場合には説明文章を面白いと感じながら読める。説明だからね。
だからテンプレとは非常に相性がいい。
なろうに来たばかりの読者が、ランキング作品が軒並み読めないという事情は実はここにある。
累計含めて多くのなろう作品で、このニンジャが大活躍しているのだ。(笑
このニンジャも使いようだ。
解かってて使う分には強力な技術になる。だが、もちろん遣い方によっては作品を殺しうる。
読者をいい気分にさせるか、苛立たせて読み飛ばされるか。遣い方次第になる。
読者がすでに知っている事柄を詳しく説明する時には、読者をその専門性の高い文章で酔わせることが出来る。だが、読者がまるで知らない、馴染みのない事柄でいきなり説明解説をやらかすと、読み飛ばされるか、悪ければページを閉じられてしまう。
一般書籍では、だから説明解説文というものはほとんど出て来ない。医学を扱うとか、そのものが重要なキーとなっている時にだけ、謎の解明に絡めて語られるケースがほとんどだ。
なぜそうなるかと言えば、一般書籍にはテンプレ作品などないからだ。
すべて目新しい、独自の作品と認識されて読まれている。知らない世界、ストーリーを読む楽しさでページは繰られている。
テンプレ作品はしょせんは類似品という認識なのだ。だから、コクーンがパージとやらかしても、読者は「すでに知ってる事柄だから」苛立ちもしないし、専門性の高い文章に酔うことが出来る。
さて、読者の視点になって考えた時に、小説では何が一番興味を持って読めるかという。
第一は「会話文」だろう。これが、超が付くほど強力だ。
第二は「心理描写」だろうか。心の声というのは、鍵括弧のない台詞と同義だからね。
人間は普段、会話文だけで生きてるからね。一番馴染みが深いのは台詞ということになるんだろう。
第三には、「行動の描写」が来るだろうか。
第四に「風景の描写」、これは第三と逆転するか、同率くらいのものだと思う。
一般の小説というものは、おおよそこの四つの文章で物語が進んでいくよ。(笑
「会話文」「心理描写」「行動描写」「風景描写」この四つだけを駆使し、極力「説明文」を使わずにストーリーを進めることが肝要だ。
ストーリーが展開するに、説明文章で進んでいくのは「下」であるよ。
会話文がそれをしなければ、読者は目新しさにワクワクとは出来ない。説明は、あくまで説明が必要な事柄の、文字通りの説明の為だけに使われなければならない。
地の文で書くべきは、「行動描写」と「風景描写」に絞ること。「説明文」によってストーリーを進めてはいけない。
会話文がほとんど無く、地の文がびっしりと書かれている作品には、二種類がある。
『設定説明で埋め尽くされ、説明文でストーリーすら解説しようとしている作品』
『人物の行動や場所の風景描写で埋められて、あまりに細かく書きすぎている作品』
どっちも褒められたモノじゃない。(苦笑
ストーリーを進める文章は、「会話文」であるよ。どっちも、会話すべきをせずに、余計なことをダラダラとやっている駄作だ。
ちなみに現在執筆中の「情景描写好きに捧げるファンタジー(仮題」は、後者の実験作だ。
予想通り、お気に入りは現状で2件だよ。(笑
(まるで話が進んでないからね)
とは言っても、元々描写の足りない作風のヒトだから、丁度良いくらいに落ち着いてる気もするけど。(笑
(実際、確認したら一般作品低度の比率だった)
三人称でのストーリーの進め方は、場所が語られ、会話で進行し、人物の行動があり、その説明がある、という順番の繰り返しが基本だ。
ストーリー展開の説明をしだしたニンジャが作中に潜んでいないか、要注意だ。




