15-10 そして日曜日に
気付いたら兄さんの部屋に戻っていた。
「あー、今回全然駄目だった」
テーブルを挟んだ向かいで、兄さんが後頭部を掻き回してそんな声を上げた。そんな兄さんの姿を眺めて瞬きをして、それからテーブルの上に広がったボードや駒やカードを眺める。
目の前にはコンベアタイルが並んだ工場のボード。辺りにはカラフルなチョコレートの駒が散らばっていた。わたしの倉庫には、赤い『ナッツチョコ』の駒と黄色い『キャラメルチョコ』の駒が残っている。それから、最後に使えなかった『カカオ豆』の駒。石炭庫には『石炭』のチップも。
そうやっているうちに、ようやく、気持ちもボードゲームの世界から戻ってきた気がする。息を吐いて、体の力が抜ける。
「わたし、負けちゃったんだ」
「すごかった、ぎりぎりで……あー……」
ぼんやりと呟いたわたしの声に、角くんのやっぱりちょっとぼんやりした声が隣から重なる。
角くんは膝を立てて抱えて、そこに顔を埋めた。その姿勢のまま、くぐもった声が聞こえてくる。
「勝てたのめちゃくちゃ嬉しい」
わたしはまだぼんやりしたまま、膝を抱えて丸くなっている角くんを見ていた。不意に、姿勢はそのまま、角くんは顔を上げてわたしの方を見た。
目が合うと、角くんは首を傾けて自分の腕に頬をつけて、そのままふふっと笑った。
「大須さんの売り上げを追いかけるの、めちゃくちゃ楽しかった」
角くんはもう、スーツも着てないし、前髪だってセットされてない、大人っぽくは見えないいつもの角くんだった。その笑顔も穏やかで楽しそうな、いつもの笑顔。
でもいつもとちょっと違って見えるのは、ボードゲームの余韻でぼんやりしているせいかもしれない。それとも、勝利の高揚感でふわふわしているのかも。
その笑顔にわたしはなんだかいつも通りでいられなくて、何も言えなくなって、どうしたら良いかわからなくなって、角くんを見ていられなくなって、視線を逸らして、でもなんだか自分の行動が不自然な気がして、もう一度そっと角くんを見た。
それでもう一度目が合って、角くんはまたふふっと笑った。とてもとても嬉しそうに。もうゲームの中じゃないのに、なんだかまだチョコレートの香りが漂っているんじゃないかって、そんな気分になった。
みんなで「ありがとうございました」と挨拶をして、片付けを始める。
デパートの注文カードの上に置かれたプレイヤーカラーの駒を片付けながら、兄さんが溜息をついた。
「あれだな、水曜日だ。あのタイミングで『工場装置』を優先して『チャンクバー』作れるようにしとくべきだったんだよ」
兄さんのぼやきに、角くんが「ああ」と声を上げた。
「俺はあの時『チャンクバー』作れるようになってだいぶ楽になったから、確かにあれかもですね」
「俺の工場の装置が『フィンガーバー』使うやつだったから、『チャンクバー』だと噛み合わないって思ったんだよな。それに『従業員』の中に『取締役』があったから、それをカドさんに渡すのはまずいって思ったし……いやでも考えたら『チャンクバー』の方がやばかった」
「じゃあ、俺が点伸ばせたのはいかさんのその選択のおかげですね」
兄さんの手が、デパートの注文カードを集めてまとめる。角くんは従業員カードを集めてまとめていた。
わたしは『カカオ豆』の駒を拾い集めて小さなジップ付きの袋に入れながら、二人の会話を聞いていた。負けてしまった、と思いながら。
「あとは瑠々を放置したのも失敗だな」
突然にわたしの名前が出てきて、わたしは手を止めて瞬きをする。
「え、わたし?」
「瑠々のプレイが思ってたより上手かった。正直なところ『工場の稼働』にもっと戸惑うかと思ってたんだよ。けど、あれだけ動けるんなら瑠々が自由に『工場装置』を選べる状況を止めなきゃいけなかったな」
兄さんのその失敗は結局、わたしを相手にしていなかったってことだ。わたしが兄さんに勝てたのは、兄さんがわたしのことなんか放っておいたからかもしれない。
そうじゃなかったら、やっぱりわたしは勝てなかったのかも。そう思って言葉を返せないでいたら、わたしの隣で角くんがテーブルの上に身を乗り出した。
「そうですよね、大須さん今回すごかったですよね」
「それでどうしてカドさんがドヤ顔なんですか」
「え、いや、別に……そういうつもりじゃ……」
身を乗り出していた角くんだけど、急に姿勢を正して赤い『ナッツチョコ』の駒を拾い集め始めた。それを見た兄さんが、わたしの顔をつくづくと眺めてわざとらしい仕草で大きく息を吐き出す。
「瑠々に向いてたのかもな、このゲームが」
「それはわからないけど……でも、工場でチョコレートがたくさん生産できるのも、注文を履行するのも楽しかったよ」
わたしの言葉に、角くんが「ああ」と声を上げて手を止めた。
「いかさんの言う通りかも。工場の稼働は競争の要素がないし邪魔されたりもないから、それが大須さんには良かったのかな。路面店の注文も早い者勝ちとかないし」
そう言って、角くんが顔を上げてにっこりと笑う。わたしは瞬きをしてゲームでのことを思い返す。言われてみれば確かに、角くんの言う通りかもしれない。
最初に『工場装置』や『従業員』を選ぶのは、角くんや兄さんの動きに影響されるから自分ではどうにもできないことがある。でも、工場の稼働が始まれば邪魔をされることはない。わたしが全部考えて、その通りに動くだけ。
路面店の注文もそうだ。デパートの注文は競争で大変だけど、路面店の注文は自分だけ。早い者勝ちみたいなこともない。わたしがそのチョコレートを用意できたかどうかだけ。
「そうかも。工場の稼働の間は、あんまり焦らないで考えることができた気がする。いつもはもっと、どうして良いかわからなくてすごく悩むんだけど」
「大須さん、めちゃくちゃ楽しそうだったし、『工場装置』や『従業員』を上手く使えてたよね」
「それは……でも結局、角くんには負けたけど」
「負けたったって、同点だし実質勝ったようなものだろ」
兄さんの呆れたような声に、わたしは唇を尖らせる。
「でも、負けは負けだよね」
わたしと兄さんの言い合いの何が面白かったのか、角くんが笑い出す。
「それでも大須さん、最後ちゃんと路面店の注文だけで百十ポンド超えてきてたから、すごいなって思ったよ。ほんと、最後ぎりぎり負けたかと思ってたから」
「あれは……あの『工場装置』が楽しかったから。チョコレートがたくさんになって」
「ああ、あれの使い方上手かったよね。あれ選ぶのも大須さんらしいなって思ったし。ほんと、めちゃくちゃ楽しかった」
角くんの口振りは、相変わらず本当に楽しそうだ。わたしを褒めているというより、本当に本気で楽しかったって思ったことをそのまま言っているんだとは思う。
でも、わたしらしいってどういうことなんだろうか。角くんの中のわたしはどんなことになってるんだろう。
何を返せば良いのかわからなくなって黙ってしまったけど、角くんはいつも通り機嫌の良さそうな顔のままだ。
兄さんが溜息をついて、ぼやくような声を出した。
「路面店の引きも良かったよな、瑠々は。俺は路面店の注文も噛み合わなくてしんどかった」
「まあ、負けた時は引きと巡り合わせが悪かったせいにした方が気が楽ですよね。勝ちは実力ですけど」
「カドさんやたら勝ち誇るじゃないですか」
「今日は実際俺が勝ってるので」
「負けは運だからな」
わたしは角くんと兄さんの顔を見比べて、瞬きをする。ふざけてのことなんだろうけど──この二人はいつもこんなふうに言い合いながらボードゲームを遊んでいるんだろうか。
「まあでも、結局デパートではいかさんに勝てなかったですから、俺」
角くんの言葉に、兄さんは苦い顔をした。
「そう言われても、デパートの勝ちにこだわり過ぎたのも敗因の一つだからな」
「でも、今回は大須さんがデパートの注文を受けなかったから、俺といかさんのどっちかが競争をやめたら一人勝ちになるし、それを阻止するなら止まるタイミングなかったですよね、お互いに」
「え、わたしの話?」
突然名前を呼ばれて、手を止めてしまった。兄さんは軽く頷いた。
「デパートでの競争が三人だったら、また展開が変わってただろうって話。五箇所のボーナスが難しくなったり、デパートでの人気での点数ももう少し全体的にばらける感じになってただろうし」
「そうですね。そうなってたら『従業員』と『工場装置』の選択ももうちょっと違っていただろうし」
二人のやりとりを聞いて、わたしはデパートの注文を全然気にしてなかったな、と思い出した。今更だけど。
「わたしもデパートの注文を履行した方が良かったのかな。でも、角くんにも兄さんにも勝てる気しなかったんだよね」
「今回はデパートなしで点伸ばしてるんだから、それで良かったってことだろ」
兄さんが石炭チップを集めながらそう言った。角くんがわたしを見て首を傾ける。
「まあでも、デパートの注文も楽しいよ。次があれば、ちょっと挑戦してみても良いんじゃないかな」
「わたしは……うまくできるかはわからないけど、でも確かに、二人とも楽しそうだったもんね」
そう言って角くんに頷きを返せば、角くんも微笑んで頷いた。拾い集めた『カカオ豆』の袋の口を閉めて、次は『キャラメルチョコ』の駒を拾い集めることにする。
あちこちに散らばった『キャラメルチョコ』の黄色い駒を摘み上げて、ふと、わたしは角くんや兄さんと一緒にボードゲームを遊べたんだな、って気付いた。
わたしは角くんとも兄さんとも違うことをやっていたけど、でもそれはちゃんと同じゲームの中でのことだった。それでみんなで同じように悩んで遊んでいた。
負けて悔しい気持ちも確かにある。でも、それ以上に楽しかった。こうやって角くんと兄さんの会話に自分が混ざっているのも、嬉しかった。
やりきった気分で、『キャラメルチョコ』の駒を袋に入れる。
「あ、こっちにもまだあるよ、キャラメル」
角くんがそう言って、キャンディの形の黄色い駒を摘み上げた。その指先がわたしの目の前までやってきて、角くんの顔を見上げたら、その指先の感触を思い出してしまった。
あの時も、こんな感じで角くんの指がチョコレートを摘み上げて、それで──。
きっと角くんもあの時のことを思い出したんだと思う。わたしに駒を差し出したまま、角くんは落ち着かない様子で目を伏せてしまった。
「……チョコレートじゃない、からね」
角くんの言葉に、わたしは慌てて言葉を返す。
「わ、わかってる。さすがに駒は食べないから」
角くんはひょっとして、わたしがボードゲームの駒をうっかり食べるほどに食い意地が張ってると思っているんだろうか。いやでも、実際に目の前にきたチョコレートは食べちゃったし、それも角くんの指ごと──また思い出してしまって、わたしは俯いてしまう。
「大須さん、あの、手を……出して、ください」
言われて、わたしは慌てて空いている方の手のひらを差し出す。角くんの指先がそっと、わたしの手のひらの上に黄色いキャラメルチョコの駒を置いた。
手のひらに触れた指先の、一瞬の感触。
わたしは慌てて手を引っ込めて、持っていた袋にその駒をしまう。顔が上げられなくなってしまった。
テーブルの向こうで、兄さんの呆れたような声がする。
「お前ら、なんの儀式だよそれ」
わたしは慌てて顔を上げて兄さんを睨む。
「兄さんには関係ない」
「別に何もないですから」
わたしの声に角くんの慌てたような声も重なってしまって、それでわたしは余計に恥ずかしくなって、それからしばらく隣が見れなくなってしまった。




