105話 鯨王
「はいよ、嬢ちゃん達、お待ち」
マスターが持ってきた鯨の涙と呼ばれる酒。まるで、海を表現しているかのようなフレッシュな香りに包まれた一杯は、大変に美味であった。
「これ、美味しい!滅茶苦茶美味しい!」
すると、マスターは嬉しそうな顔で、私に向かって語った。
「そうだろう、そうだろう。おまえさん、若いのによくわかっているじゃないか!マルセーヌの鯨伝説と言ってな!昔から伝わる言い伝えをモチーフにしたお酒なんだよ!」
「鯨伝説?」
ソフトドリンクを嗜んでいたルカが、マスターに問いかけた。
「そう、この街に住む漁師達は、昔から鯨と共に生きてきたのだ。鯨漁と言ってな、鯨と協力して、魚を捕まえるんだ。そのくらい鯨は俺達にとって身近な生き物なんだよ!」
マスターは手に持っていた酒をぐいっと飲み干すと、さらに語りを続けた。
「あるとき、一匹の子鯨が、浜に打ち上げられたらしい。それを見つけた美女が必死に手当てして、鯨はなんとか無事に海に還っていった。だが、鯨は女に惚れたらしくてな。種族の違いで結局は結ばれなかったというまあ一種のおとぎ話みたいなもんよ!」
世界中、どこにでもそういった部類の話はあるもんなんだなあ…… そう考えながら、私は適当に、話を聞き流していた。
「そういえば、ここに来るときもでっかい鯨を見たよ!背中にでっかいコブみたいなのがあって……空高くまで、潮を噴き上げててすごかったなあ」
私が何の気なしに口にした言葉に、マスターはぴくっと耳を振るわせ、反応した。何かまずいことを言ったのかと、緊張したが、どうやら違うようだ。マスターは、興奮した様子で、私に話しかけてきた。
「お前さん!そりゃ鯨王かもしれんぞ!バカみたいにでかかっただろう?この一帯の海のぬしと呼ばれておる。縁起が良いなあ!なかなか見られないんだぞ!」
「鯨王? 本当に……?」
私の知っている『鯨王』と、マスターの言っている『鯨王』が同じものであるという確証はどこにもない。だが、私は確信に近い感覚を覚えていた。
「そう、鯨王はこの街、いやこの国の守り神みたいなものだ!ここから南、砂漠を越え、森林を越えた先は、凶暴なモンスター達の巣窟と言ってもいい。だが、鯨王がいるからこそ、この地方は安全なんだ!こうして安心して毎日暮らせると言ってもいい!」
こんなに早く、使徒についての情報を得られるとは思ってもいなかった。そして、もう一つ意外だったのは、話を聞いている限りでは、鯨王は人と共生していそうであったことである。なかなか良好な関係を築けているようであって、私は少し安堵していた。
「イーナちゃん……まさか……」
「多分そうだよ、確信はないけど……」
ナーシェも同じことを思ったようで、私の耳元でこそっとささやいた。気になるところではあったが、今は鯨王の調査よりも先に向かうべきところがある。私は、さらに、南に広がっているという、モンスター達の領域について、マスターに尋ねた。
「マスター、私達、ここから南の方に行きたいんだ。でも、あんまり情報が無くて、何か知ってることがあれば教えて欲しいな」
すると、マスターは驚いたような表情を浮かべ、私に問いかけてきた。
「お前さん、悪いことは言わない。南に行くのはやめておきなさい。命がいくつあっても足りないぞ」
だが、そう言われることなど、最初からわかっていた。ここで諦めるという選択肢は最初からないのだ。
「それでも、私達は行くって決めたから……!マスター知っていることがあれば何でもいいんだ!教えて欲しい!」
「すまんが、そもそも南に行って無事に帰ってきた人自体が希だからな……言い伝え程度のことしか知らないが、それでもいいか?」
マスターは再びグラスに酒をつぎ、話を続けた。
「遙か昔から、南には金銀財宝が隠されていると噂されていてな、冒険に出るものが絶えなかった。だが、無事に帰ってきたという話は聞いたことがない。帰ってこないものがほとんどで、帰ってきても、瀕死の重傷を負っているとか、精神が崩壊していたとか、まあ皆無事とは言えなかったようだ」
マスターの話に、皆が耳を傾けていた。
「財宝を守るのは、古より存在する龍、黒竜と言われている。本当にいるかどうかすらもわからんがな!そこまでたどり着くことすら困難だというわけだ」
「でも、飛行船が発達した今なら、南の方にもいけるんじゃないの?」
「南には大きな魔鉱石の山があるのだ。飛空船は使えん」
また、魔鉱石だ。大体こういう話の時には魔鉱石が絡んでくる。マスターは持っていたグラスの酒を飲み干して、さらに話を続けた。
「先ほど、鯨王の話をしただろう。黒竜と、鯨王は昔から幾度となく争いを繰り返してきたらしい。だからこそ、奴らはこちらに近づこうとしないと言われている。いかに黒竜が恐ろしい存在とは言えど、鯨王も凄まじい大きさ。怒りに触れれば、大津波が起こると言われているくらいだ。流石の黒竜も無事では済まないだろう。わざわざ理由もなく、テリトリーに入る必要も無いしな!」
少しずつ、少しずつではあるが、リンドヴルムの元に近づいている。そんな確信はあった。あとは、リンドヴルムが言っていた、やらなければならない事というのが、気にはなるところだが、今知る術はないだろう。
「お前さん方、見たところ、財宝のためというワケではないだろう?何を求めて、わざわざそんな死地に赴こうとするんだ?」
行く理由はいくつかある。アマツが言っていた。レェーヴ連合もいずれ関わってしまう問題である可能性。それはもちろんあるが、一番大きい理由は一つ。
「仲間が困っているときに、助けたいと思うのは当たり前の事じゃない?」




