track08. ジャッジメント・デイ-The Judgement Day-(3)
――彼に初めて逢ったのはいつだったか。
すっかり非日常に染め上げられた空間を眺めながら、俺はぼんやりと思い返していた。
普段は人通りが多くないこの一帯も、今日ばかりは各部の展示や出し物に使われていて、学生と学外からの来客者で溢れている。誰も彼もが楽しそうな表情で俺の目の前を行き交っていた。
左腕の時計を見ると、時刻は十四時半を指している。そろそろか――俺はできるだけ目立たないよう廊下の端を足早に歩きながら、先程の記憶に思いを馳せた。
それまで、学内で彼を見かけたことはなかった――いや、もしかしたらあったのかも知れない。そのくらいのレベルだ。そこまで印象に残る相手ではなかった。
間違いなく俺の中に彼の存在が刻み込まれたのは、あの時だ。
「えっ、このアルバムが何でこんな所に!?」
机の端に置かれていたロックバンドのCDをたまたま見付けた彼は、驚いたようにそれを手に取る。その日はそのCDを久々に聴きたくなって、学校に持ってきていた。別に誰に見られるとも思わず、無造作に置いていたCDに反応した彼に、俺も驚いた。それまで、同じような音楽に興味を持つ者も、それについて話しかけてくる者もいなかったからだ。
――俺はずっと音楽が好きだった。楽しい時も辛い時も、俺の人生は音楽と共に在った。
しかし、家族も友人も、俺の周囲の人間は誰も音楽に特段興味を持ってはいなかった。中学生になって暫く経った或る日のこと、勇気を出して一人で楽器屋に行ってみたは良いが、演奏する当てもない俺は場違いも甚だしい存在だった。そこに集っている人々は、俺にとっては『別の世界の住人』に思えた。
そして時は流れ――俺は結局、誰とも音楽を共有しないまま、現在に至っている。
後に勢いで楽器を購入したものの誰に聴かせる勇気もなく、ただ一人で弾いて満足していた。
――だから、彼の存在は、俺にとって驚くべきものだった。
まじまじとCDのジャケットを見ている彼に興味が湧き、聴くなら貸そうかと持ちかけると、彼の表情は驚きから弾けるような笑顔に変化した。その太陽のような明るさがとにかく印象的だった。
それから、たまに彼と音楽の話をした。俺がCDを貸した代わりに、彼が自分の好きなCDを持ってくることもあった。彼は様々なミュージシャンの曲を知っており、自分が新しい音楽に触れる良い切っ掛けにもなった。
誰かと音楽の話をすることがこんなにも楽しいとは知らなかった。そして、楽しそうに俺と話す彼の姿が、何だか眩しく見えた。
――そして、そんな彼の持つ別の一面もまた、俺に大きなインパクトを与えた。
あの日は午後に軽音楽部の六月公演が予定されていた。昼食を終えた俺は、会場に向かおうと階段を昇っていた。
その時、目の前の廊下を、会場とは違う方向に走っていく彼を見た。その表情にはどこか切迫感があった。左腕の時計を見ると、集合時刻まであまり時間がない。どこに行くのだろうか。俺は気になって、彼の後を追った。
彼は、人気のない方へと一人で向かっていく。存在を気付かれないよう、一定の距離を保ちながら俺は彼に付いていった。校舎の端の階段を一階まで降り、普段は使われていない裏口を出て――非常階段の近辺で、彼はおもむろに蹲る。
少し様子を見ていたが、動きがない。体調でも崩したのだろうか。不安に駆られ、俺が出て行こうとしたその瞬間――
「――夏野さん!」
どこからともなく彼を呼ぶ声がして、俺は慌てて身を隠す。
身動ぎ一つしていなかった彼が、声のした方向に緩慢に顔を向けた。すると、中庭の方からか、一人の男子が彼の元に駆け寄ってくる。
その明るい色の髪の毛は、俺にも見覚えがあった。
「春原……」
彼の口から、相手の名前が零れる。
――そうだ、一年生の春原。彼のバンドメンバーだ。
春原の存在を認識した彼はゆっくりと体勢を立て直そうとしたが、それよりも春原が彼の身体を支える方が早かった。俺の目に映った彼の横顔は、いつも俺に見せている表情とは大きく異なり、色もなく沈んでいた。
二人は向かい合う形で、地面に腰を下ろす。
「探しましたよ――体調大丈夫? 昼飯、ちゃんと食べたんでしたっけ?」
「……食欲なかったから、ゼリーだけ食べた」
「まぁ、ちょっとでも食べられたなら良かったです」
春原が微かに微笑んで言った。その言葉に頷く彼の顔色は良くないが、先程よりは少し落ち着いているように見える。
俺はそんな情景を不思議な心持ちで見ていた。
春原は髪色が目立つので、入学した当初から知っていた。普段は仏頂面で、あまり友人といるところも見たことがない。同じバンドのメンバー相手だから心を許しているのだろうが、先程の笑顔は俺にとっては初めて見るものだった。
そして、憔悴した様子の彼の姿もまた、俺にとっては衝撃的だった。人間だから色々な面は勿論あるだろうが、少なくとも目の前で蹲っている彼は、俺の前で見せていた底抜けに明るい笑顔の持ち主とはなかなか繋がらなかった。
「――悪いな、春原。本番前に迷惑かけて」
彼がぽつりと呟く。
「まだ時間あるから、大丈夫ですよ」
「『修行』も積んだし、いけると思ったんだけどなぁ」
ははっと彼が力なく笑った。
「いざライブやると思ったら――なんか、身体に力入んないわ気持ち悪くなるわで、全然ダメだ」
春原は彼の言葉を真剣な表情で聞いている。
「冬島さんも仲間に入って、亜季もあんなに頑張ってくれたのに――俺、マジで何なんだ。何で――何で、こんなに、ダメなんだ……」
そして、彼は口を噤み、俯いた。
暫く二人の間に沈黙が流れたが――その静けさを割ったのは、春原だった。
「――夏野さんは、何が怖いんですか?」
彼は俯いたままだ。答えはない。
春原はそれを確認し、続ける。
「夏野さん、俺はあなたの歌が好きだよ」
――彼の肩が、ぴくりと揺れた。
「あなたと出逢うまで、俺は一人で奏でる音楽しか知らなかった。自分が上手く弾ければそれで良いと思っていた。でも、初めてあなたの歌を聴いた時――俺はあなたと音楽をやりたいと、心から思ったんだ。だから、鬼崎さんに頼み込んで、あなたを見付け出した。あなたは俺にとって、それだけ大切なひとなんだよ」
彼が顔を上げる。その表情は驚きの色に染まっていた。
「俺はあなたの元バンドメンバーがどんな奴らだったかなんて知らない。だけど、あなたがどれだけすごいひとかはよく知ってる。初めてあなたに出逢ったその日から、俺は何度もあなたの歌に救われてきたんだよ。過去があなたを呪うなら、俺は何度だって、あなたの隣でそれを撥ね除けてやる。だから――」
春原の声が、少しくぐもる。
「――夏野さん、お願いだから、俺を信じてよ……!」
そこまで言い切って、春原が俯いた。肩が震えている。彼は目の前の後輩を呆然としたように見ていた。そのまま無言の時が一刻流れ――今度はそれを、彼の言葉が破る。
「――何で、おまえが泣くんだ」
「……泣いてない」
ぼそぼそと呟かれる言葉に、彼は小さく笑った。その笑顔には普段の明るさが幾分か戻っているように見えた。
「言われてみれば、そうだな。俺――何がそんなに怖かったんだろう」
春原が静かに顔を上げた。確かにその顔は、少なくとも今は涙に濡れておらず、見慣れた仏頂面を貼り付けている。
「そうですよ。俺をそんな裏切り者達と一緒にしないで下さい」
春原の台詞に、「裏切り者って」と彼が吹き出した。しっかりとした足取りで立ち上がる彼を、春原は座ったまま見上げている。
「ありがと、春原。ようやく目が醒めたみたいだ。少なくとも今は――」
そして、彼は座った春原に手を差し伸べた。
「――このまま何もできずに終わっていく方が、よっぽど怖い」
その後、彼は春原と共に、六月公演でライブを行った。俺も実際にそれを観たわけだが、彼ら――LAST BULLETSのパフォーマンスは素晴らしかった。とても高校生のアマチュアバンドとは思えない出来だった。
そして、その完成度以上に俺の胸を打ったのは――堂々と皆の前で歌いきった彼の姿だった。
彼の過去に何があったのか、俺はその深い事情まではよく知らない。それでも、彼がそれを乗り越えてあの場に立ったということは、春原とのやり取りから、こちらにも十分伝わってきた。
――彼はあの日、過去の自分を救ったのだ。
間違いなく彼は、俺とは『別の世界の住人』だ。中学生の頃に感じたあのほろ苦さが俺の心を覆っていく。俺はあの頃から何一つ変わっていない。目の前で成長していく彼の姿が、俺には眩しくてたまらなかった。
――しかし、その靄を晴らしたのも、正しく彼だった。
人混みを通り過ぎ、俺は目的の場所に辿り着いた。部屋の中には誰もいない。電気を点けて、渡された服を取り出し、着替えを始める。あまり突飛な服装でなくて良かった。これなら校内を歩き回っても違和感はないだろう。
着替えを終えた俺は、部屋の奥のロッカーを開ける。
そこには、俺の『相棒』が眠っていた。
そう――三週間ほど前のあの日、俺の元を訪ねた彼は、明るさを取り戻した笑顔で俺に言ったのだ。
「文化祭で一緒に演奏をしてほしい」と。
俺は目の前の彼の言葉が咄嗟に理解できなかった。そのくらい、その台詞は俺の想定の外にあった。熱心に頼む彼に半ば引っ張られるようにスタジオに行くと、春原と三年生の冬島が俺を待ち受けていた。扉を開けると、彼らは驚いたように俺を見ている。それはそうだ。俺だってこの展開に驚いている。
すると、冬島が俺の『相棒』を一目見るなり目を輝かせ、いきなり値段を訊いてきた。不躾な奴だとは思ったが、きちんと楽器の価値はわかるらしい。教えてやると、冬島は「すげぇ!」と声を張り上げ、まじまじと俺の『相棒』を見つめ直す。一方、春原はそんな冬島を気にする素振りも一切見せず、俺に無言で楽譜を渡してきた。一応楽譜は読めるが、いきなり弾くのはさすがに厳しい。態度には出さないようにしながらも恐る恐る中を見てみると、そこまで難しくはなさそうだ。俺はほっと胸を撫で下ろす。
その日は軽く何曲か流して終わった。俺を引っ張ってきた彼は、練習に付いていくのがいっぱいいっぱいの俺を、嬉しそうに見ていた。
次の練習日はそこそこ弾けた。前回の練習終わりに、春原から俺のパートの音源を録ったMDを渡されていたからだ。耳で聴きながら陰で練習した甲斐があった。仏頂面の春原から、「さすがですね」と褒められた。冬島が「やるじゃん」と偉そうに言ってくる。少しずつ完成度が上がっていく様に、俺も高揚していたのだろうか――彼が俺の顔を見て、「楽しいっすね」と嬉しそうに笑った。
――そう、俺は気付いてしまった。
誰かと一緒に奏でる音楽は、こんなにも楽しい。
あの日、彼の誘いを断れなかったのは――俺も過去の俺を救いたかったからなのかも知れない。
『相棒』を背負って会場に向かう。視聴覚室のドアは途中入場者の為に半開きになっていた。中から鳴り響く激しいドラム音が止んだところで、会場から親子連れが出て来る。小学生くらいに見える二人の少女の手にはたこ焼きの描かれた団扇が握られていた。
「あのおねえちゃんの歌おもしろかったー!」
「たくさんゲームできたね!」
「そうね……何だか不思議な空間だったわね」
「ヘビメタに乗せてしりとりやったの、僕も初めてだよ……」
ご機嫌な少女達に対して両親は少し困惑した様子だ。この時間は三年生バンドのtakoyakiか。毎年色々と趣向を凝らしているが、今年も方向性は変わらないようだ。
隣の控室のドアを開けると、中には既に何人かの生徒が待ち受けていた。
冬島が俺を見るなり、「おっ、サマになってるじゃん」と言い放つ。あいかわらず失礼な奴だ。高梨に案内されるがまま鏡の前に座ると、王族のような格好をした男が近付いてきたので、思わずぎょっとしてしまった。
「あ、二年の吉永です」
王族が自己紹介をしている間にも、高梨が俺に美容院で使用するようなクロスを被せる。随分と手際が良い。なお、吉永の素顔はまだ思い出せない。
「もう俺らの出番まで時間ないので、ぱぱっとメイクしますね」
そこからは彼らになされるがまま、時間が過ぎていった。途中でライブを控えた吉永から高梨に選手交代したようだ。眼鏡を外されているので、自分の顔がよく見えない。ここまできたら、後は野となれ山となれ――そんな心境になっていると、クロスが外された。無事終わったようだ。
高梨に渡されたコンタクトレンズを入れると、目に映る情景が線を結び始めた。鏡に映る自分をまじまじと見てみる。どこか普段より肌ツヤが良く、目も大きく見えた。生まれて初めてメイクをしてみたが、確かに印象が変わる。周囲のメンバーは「写真撮ろう!」と騒いでいた。勘弁してほしいものだ。
「はー、いい汗かいたわ」
控室のドアを開けて、出番を終えた三年生達が入ってくる。先頭にいた三条がこちらを見て驚いたように目を白黒させた。
「――えっ……誰?」
本当に三年生は失礼な奴らばかりだ。彼女のリアクションを見て、冬島がニヤニヤしながら口を開く。
「何、三条知らねぇの? うちの『Secret Guest』だよ」
「高梨さんの代理ってこと? 結局誰か教えてもらってないんだけど」
三条が俺に近付き、じっと見つめてくる。この調子だと、冬島以外の三年生は誰も俺のことを知らされていないのだろう。
黙ったままでいるのも忍びなく――俺は仕方なく、彼女に名乗った。
「――私だ。顧問の坂本秋良だ」
***
時刻は十五時五十分過ぎ。もうペリドットのライブも半ばに差し掛かっている。吉永さんのライブを観たい気持ちは山々だが、私はこの時間ビラ配りのシフトが入っていた。
まぁ仕方ない。その代わり、トリのLAST BULLETSは全部観られるのだから、その分働かなきゃ。
LAST BULLETSは本当にすごい。六月公演で観た時、明らかなレベルの違いを肌で感じた(その後のKing & Queenのサプライズライブにもびっくりしたけれど)。特にボーカルの夏野さんの歌は、同じボーカルと名乗るのが躊躇われるくらい、素晴らしかった。
私は高校生になったら軽音楽部に入ろうと決めていた。それは、従兄の影響だ。私の従兄はとてもギターが上手い。最近はあまり弾いていないらしいが、私にとって彼は憧れだった。本人に言ったことはないけれど、いつか彼が弾くギターに乗せて歌えたらいいなぁと思っている。
LAST BULLETSのギタリスト、春原くんは私と同じ一年生だ。彼も驚く程ギターが上手で、密かに私は尊敬している。夏野さんと春原くんみたいに、私達もいつかセッションできたらいいのに。
「――杉下さん」
背後から声をかけられる。振り返ると、そこには夏野さんが立っていた。
「ビラ配りおつかれさま。俺も一緒にやろうか?」
「いいんですか?」
「うん、二人でやった方が早いでしょ」
そう言って夏野さんが私の手からビラを受け取ってくれる。
夏野さんは優しい。笑顔が素敵で、後輩の私達からも話しかけやすい存在だ。いつも無表情な春原くんも、夏野さんと話す時はどこか嬉しそうに見える。だからこそステージに立っている時とのギャップに、最初はドキリとさせられた。
――そして、私の隣でライブを見ていた繭子は、夏野さんに惹かれている。本人から相談されたことはないけれど、あまり感情を表に出さない繭子にしては、わかりやすいくらいだ。だから、繭子が怪我をした亜季さんの代わりにLAST BULLETSのサポートを申し出たと聞いた時は、Cloudy then Sunnyのメンバー皆で大いに盛り上がった。結局それは実現しなかったけれど、夏野さんには十分にアピールできたはずだ。
繭子の恋が実りますように――そんなことを思いながら、私は夏野さんと共にビラ配りに励む。夏野さんはそんな私の思いに気付くことなく、笑顔で次々にビラを捌いていく。
その時、前から私の従兄が歩いてきた。
「あ、たっくん!」
私が手を振ると、それに気付いた彼が「香織」と私の名を呼ぶ。私のシフトが終わるまでは各クラスの展示を見て回ると言っていたけれど、もう終わってしまったのだろうか。
――そうだ、夏野さんに紹介しなきゃ。
隣に立っている夏野さんの表情を見て――私は、言葉を失った。
「――佑……?」
夏野さんが、たっくんの名前をぽつりと呟く。
次の瞬間、彼は夏野さんの前に立っていた。
その時の驚きに満ちた従兄の顔を、私はきっと忘れないだろう。
track08. ジャッジメント・デイ-The Judgement Day-




