track06. サマーデイズ・ラプソディー-Summer Days Rhapsody-(3)
本格的な夏の陽射しが、肌をじりじりと灼いていく。
「――ほんと、暑ぃなぁ」
冬島が肩にかけたタオルで顔を拭いながら洩らす。無理もない。今は八月の頭。スタジオは灼熱の暑さとは言えないまでも、ドラムは窓の近くに設置されており、かつ冬島はかなりの運動量をこなしている。
「もう少しエアコンの温度下げます?」
夏野が訊くと、冬島は手を左右に振った。
「あー、いいよいいよ。あんまり冷やすとお前の喉に良くねぇだろ」
「……たまには良いこと言いますね」
ぼそっと春原が言うと、冬島がじとりと彼を睨む。
「てめぇはあいかわらずろくなこと言わねぇなぁ」
二人のやり取りは最近ではじゃれ合いのようだ。LAST BULLETSを結成してから三ヶ月弱が経とうとしている。互いに多少気心が知れてきたことを夏野は嬉しく思っていた。
「でも確かに暑いよね。隣のスタジオのみんなも大丈夫かな」
亜季がうちわで扇ぎながら言う。
夏休みの平日は各バンド毎に練習スタジオが割当てられており、今日は夏野達LAST BULLETSと、一年の女子バンドCloudy then Sunnyのシフトとなっている。時刻は十五時前、そろそろ休憩を取っても良い頃合いだ。
「ふーん……ちょっと俺、出てくるわ」
冬島がおもむろに窓を開けて、外に出て行った。ドアを使わない横着っぷりに、亜季が「さすが冬島さん」と苦笑する。
暫く三人で練習していると、曲の合間にスタジオのドアがトントンと鳴った。冬島が帰ってきたのかと開けてみると、一年生の女子二人が立っている。
「亜季さん、こんにちはー」
「あら、香織ちゃん、繭子ちゃん。どうしたの」
亜季が彼女達の名前を呼ぶ。夏野はなかなか後輩の名前が覚えられないが、亜季からよく話を聞くのでこの二人のことは認識していた。Cloudy then Sunnyボーカルの香織はクラス委員をしているらしく、いつもハキハキしていて明るい印象だ。一方、キーボードの繭子はいつもマスクをしていて、物静かにしている。しかし幼い頃から現在に至るまでピアノを習っているらしく、器用に曲を弾きこなしていた。
「お邪魔してごめんなさい。来週の合宿に持って行くゲームとか相談しようと思って」
「あー、ごめん。私達合宿行かないのよ」
「えっそうなんですか! 折角一緒に行けると思ったのになぁ、残念」
香織が肩を落とす。夏野はちらりと春原の様子を窺った。春原はスタジオの椅子に座り、楽譜に何やら書き込んでいる。特に変わった様子はない。
「――夏野さんも、来ないんですか?」
いつもはマスクを通してくぐもっているはずの声が、凛と響く。話を振られると思っていなかった夏野が慌てて振り返ると、そこにはじっとこちらを見つめる繭子が居た。よく見てみると、黒い髪色とは対照的な色素の薄い瞳が、きらきらと光を含んでいる。マスクの下はどんな顔をしているんだろうと少し夏野は興味を惹かれた。
「うん、悪いね。今度お土産話でも聞かせてよ」
笑顔で答えると、繭子は「わかりました」とだけ答え、黙る。夏野の目には、彼女なりのトーンで残念がっているように映った。同じ新人バンドが合宿に行かないのはやはり寂しいものなのか、段々と申し訳なくなってくる。しかし、春原がファミレスで見せたほっとしたような表情を思い出すと、やはり合宿には行けないよなと夏野は思うのだった。
――その時、窓が開いて冬島の声が室内に響いた。
「ほれ、冬島康二郎様からアイスの差し入れだ。ありがたく受け取れ」
彼は勝ち誇ったような表情で、コンビニの袋をぶら下げている。
「えっ、最高!」と亜季が冬島から袋を受け取った。その陰で香織と繭子はそそくさとスタジオを出ようとする。「あっ、一年待て」と冬島が声をかけると、二人はびくりと足を止めた。
「ちゃんとお前らの分もあるから、友達の分も持って行け」
振り返った二人からは、嬉しそうなオーラが溢れている。亜季は春原にも声をかけ、四人でアイスの選別を始めた。
「さすがですね、冬島さん。ありがとうございます」
夏野が礼を言うと、冬島が小さく耳打ちをしてくる。
「――まぁ、モテる為にはこのくらい可愛いもんよ」
そういえば冬島はモテる為にドラムをやっていると言っていた。知り合った当初の会話を懐かしく思っていると、春原がチョコレートのアイスを持ってくる。
「夏野さん、これで大丈夫ですか?」
「俺は残ったやつで良いよ。春原が先に好きなの選んで」
ありがとうございます、と春原はアイス選びに戻り、自分用に安くて有名なソーダ味の氷菓子を持って帰ってきた。
「春原、本当に好きなの選んだ? 俺に気ぃ遣わなくて良いんだぞ」
夏野の台詞に春原は首を横に振り、「これが好きなんです」と答える。そしてその後、冬島にぼそりと「ありがとうございます」と伝え、冬島は満足気に頷いたのだった。
時計が十七時を回った。さすがに夏だ、まだまだ外は明るい。
後片付けを終えてスタジオを出ると、Cloudy then Sunnyの面々が待っていた。
「亜季さん。良かったら一緒にごはん食べに行きませんか?」
「いいよ。なっちゃん達も行く?」
いきなりの振りに夏野は持っていた鍵を取り落としそうになる。さすがに一年の女子五人、しかも名前がわかるのは香織と繭子だけだ。少しハードルが高い。その時、春原が口を開いた。
「杉下ごめん、俺と夏野さんこの後用事があるから」
そしてちらりと冬島の方を一瞥する。冬島がそれを受けて、にやりと笑った。
「そうかそうか、用事があるんじゃ仕方ねぇな。じゃあ、俺が――」
「なっちゃん達ダメみたい。じゃあ私だけで」
「わーい、どこ行きます?」
女子達は楽しそうに話しながら立ち去っていき――後には、男三人が残される。
「――俺、一応アシストしましたよね?」
春原の言葉に、冬島は「……俺、帰るわ」と無感情に答えた。
二人で鍵を職員室に返し、廊下を歩く。夏休みの学校は誰も居ないからか、いつもとは違う空気が流れているようだった。
「そういえば春原、前にオリジナルの曲聴かせてくれたじゃん。おまえあれ全部で何曲くらいストックあるの?」
歩きながら何の気なしに夏野が話を振ると、春原が少し宙を見つめながら考え――そして、夏野の方に顔を向けてこう言った。
「――百曲くらいかな」
「――は?」
予想を超えた数に、夏野が言葉を喪う。そのリアクションを見て、春原が少し恥ずかしそうな顔をした。
「でも、あれですよ。ちゃんと夏野さんに聴かせられるクオリティまで仕上げられているのは、二十曲くらい」
「いやいや、十分すごいじゃん。おまえ、中学の時もバンドやってたんだっけ?」
春原が首を横に振る。
「やってないよ。でも、とにかく時間だけはあったから、一人で弾きまくってたんだ。曲もその時に作ってた」
へー、と夏野は感嘆の溜め息を吐いた。ギターが独学とは聞いていたが、バンドもやらずにただひたすら練習していたとは。春原が真面目なのは知っていたつもりだったが、一人で磨き上げたその技量と情熱に夏野はただ感心した。
「おまえって本当にストイックだよな。すごいよ。まるで、プロみたい」
思わず呟く。途端に隣を歩いていた春原の足が止まった。
「――春原?」
振り返ると、春原は俯いている。夏野は不思議に思って春原の元に戻った。「どうした?」ともう一度声をかけると、春原が小さな声で呟く。
「――なりたいって言ったら、笑いますか?」
――何に?
そう訊こうとして、はたと思い当たる。
春原は『プロみたい』なんじゃない。『プロになりたい』んだ。
そう理解した瞬間、夏野は目の前で俯く少年をとても大きな存在に感じた。思えば、自分の周囲には本気で音楽に向き合っている人間達が居る。既にデビューを果たしている鬼崎は勿論のこと、冬島だってプロのドラマーをめざしているのだ。春原のギターの技術は卓越しているし、作曲もしているということは、当然それを視野に入れていたっておかしくない。
そして、ふと気付く。
――俺は?
子どもの頃、ぼんやりと思い描いてはいた。中学の頃も、ステージに立ちながらこんな時間がずっと続けば良いと思っていた。しかし、中三の文化祭以降音楽から離れて――そして、春原に出逢い、音楽の世界にまた戻ってきて。あれから数ヶ月、必死で目の前の公演の準備をしてきて――その先の未来にまで、考えが及んでいなかった。
――俺は、どうしたい?
「――俺が、笑うと思う?」
春原がふるふると首を横に振り、夏野はほっとする。
「思わない、絶対。でも俺、あなたに言えていないことがある」
春原が顔を上げた。そのまっすぐな眼差しは熱を持って、夏野を射抜く。夏野は一人静かに息を呑んだ。
「夏野さん、俺は――」
「――ちょっと、遅くない?」
いきなり飛び込んだ第三者の声に、夏野と春原は身を固くする。声のした方を振り返ると、長い金髪がきらきら光を含んで靡いていた。何故彼が夏休みの学校に居るのか? 夏野は理解が追い付かないまま立ち尽くす。
「校門の前で待ってたんだけど、全然来ないし。僕のことを待たせるなんて、さすが良い根性してるね、春原クン」
そこには、鬼崎達哉が立っていた。
「――すみません、鬼崎さん」
言葉を途中で遮られる形になった春原だったが、さすがに分が悪いと思ったのか素直に謝る。鬼崎は澄ました顔で続けた。
「まぁ良いや。そろそろ行くよ。時間もないし」
そして方向転換し、校舎の出口へと進んでいく。
「ちょ、ちょっと鬼崎さん。春原をどこに連れていく気ですか?」
夏野の声にぴたりと鬼崎の足が止まった。顔だけ振り向いて、鬼崎は冷たく言う。
「何、夏野クン。君には関係のない話だけど」
言われてみればその通りだ。春原が鬼崎とどこに行こうが、夏野に止める権利はない。消化不良に終わってしまった春原との会話が気になりながらも、今日は帰るしかないかと逡巡していると――春原が夏野の肩を掴んだ。
「夏野さん、一緒に来て」
「――は?」
言葉を喪うのは本日二度目だ。
「何だ、君も来るの? それならそれで、早く来なよ」
鬼崎は溜め息交じりにそう言って、一人で先に歩き出した。




