track03. 秋の少女は英雄を待つ-Autumn Girl Is Waiting for Her Hero-(4)
そして、あっという間に六月公演の当日がやってきた。
自席でサンドイッチを頬張りながら楽譜を読み返していると、隣の席の友人――佳奈が覗き込んでくる。
「すごーい、亜季ほんとに軽音楽部と掛け持ちしてるんだね」
佳奈は亜季と同じバレー部に所属しており、一年の頃から仲が良い。彼女は丸い目をぱちぱちと瞬かせながら、人懐こい笑みを浮かべた。
「今日だよね? こっそり観に行こうかな」
「やだ、余計緊張しちゃう……」
そこまで言ったところで、はっと我に返って亜季は続ける。
「――嘘、やっぱり観に来て。うちのバンド、すごいから」
ちらりと夏野の席を窺うと、夏野はイヤホンをしたまま目を閉じていた。机の上にはゼリー飲料のゴミが置いてある。
「夏野さん、高梨さん」
教室の入口から声が聞こえる。顔を上げると、春原が迎えに来ていた。
「わぁ、あの子軽音っぽい髪だね~。後輩?」
佳奈が感心したように声を上げる。「うん」と頷きながら残りのサンドイッチを食べ終えた亜季の視界の片隅で、夏野が鞄を持って席を立った。
公演会場の視聴覚室は、後方の入口から前方に進む度に段が下がって行き、ホワイトボードがある最前方が教室内で最も低い場所となっている。音楽の授業でミュージカル映画を観る時くらいしか亜季は来たことがなかったが、他の教室とは違う独特な構造が、より非日常感を煽るように感じられた。
授業の時にはスクリーンが下りていた前方に、今日は楽器とアンプが並べられている。亜季は前方に下りていき、シンセサイザーの確認をした。置かれているのは、いつも亜季が練習で使用していたシンセサイザーだ。別のスタジオの楽器でなかったことに、亜季は一人胸を撫で下ろした。いつも使っている道具でないと、失敗してしまうような気がしていた。隣では春原がマイクを含めた機材と楽器を確認している。トイレに寄ると言った夏野の分もチェックしてくれているのかも知れない。
ふと背後に視線を移すと、軽音楽部らしき生徒達が既に集まってきていた。楽しそうに話しながら教室の中央の席に五人の女子達が陣取っている。そこから少し距離を置いて、四人組の男子達が何をするでもなくだるそうに座っていた。まるで共通項の見えない集団だが、ここに集まっているということは、今日の演者――新入部員なのだろう。いつまでも前方に立っているのも気が引けて、亜季は女子達の集まる席の前方に座った。
「ねぇ、あなたも軽音だよね?」
背後から声をかけられて振り返ると、女子達の中の一人がニコニコとこちらを見ている。頭の高い位置でポニーテールが揺れた。
「私、B組の杉下香織。あなたは?」
「あ、私は――」
「杉下、その人先輩」
機材確認を終えたらしき春原が亜季の隣に座る。香織が「えっ」と慌てたように立ち上がり、頭を下げた。
「すみません! 楽器の確認してたから、同じ一年かと思っちゃって」
「いえ、私も新人だから……高梨亜季です。よろしくお願いします」
「新人?」
首を傾げてから春原を見て、そこで香織は「あぁ」と頷く。
「春原くんのバンドなんですね。先輩と組むって聞いてたけど、てっきり皆男かと思ってました。女子の先輩もいるの嬉しいです! ね、繭子」
香織が隣に座るマスクをした少女に声をかける。繭子と呼ばれた少女は亜季を見て、無言で頷いた。皆いい子そうだ。亜季は少し緊張がほぐれるのを感じた。
「私も杉下さん達を見て少し驚いた。軽音って男の子だらけのイメージだったし」
「――でも、部長も女性」
繭子がぼそりと呟く。その時、教室のドアが開いて冬島が入ってきた。
「あ、冬島さん」
冬島は亜季を一瞥し、「おう」とだけ答えてそのまま教室を降りてくる。香織と繭子がその姿をぽかんと見上げていた。一年生の女子から見ると、冬島は怖く見えるのかも知れない。彼はそんな視線を気にする素振りもなく、亜季の隣――亜季を挟んだ春原の反対側にどっかりと座った。室内がしんとしてしまった気がして、亜季は小声で春原に聞く。
「春原くん、軽音の部長って鬼崎さんじゃないの?」
「部長ですか? はい、三条さんっていう人でしたね」
「そうなんだ」
思えば亜季は全然軽音楽部のメンバーを知らない。鬼崎をまともに見たのも彼が夏野を教室に訪ねてきた一度きりだ。あとで夏野に紹介してもらおうか――と思ったところで、はたと思い当たる。
――夏野がまだ来ていない。
冬島が亜季を見た。
「おい、夏野はどうした?」
「あ、なっちゃんは――」
亜季の言葉の途中で春原が立ち上がった。見上げると、春原の表情が硬い。
「俺、様子見てきます」
視聴覚室を出ていく春原の背中を見ながら、亜季は今日の夏野の様子を思い返していた。
あの時、夏野は音楽を聴いていた。一人静かに目を閉じ、机の上で腕を組むその姿は――亜季の目には、まるで何かに祈っているようにも見えた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。教室の扉が開き、上級生達が入ってきた。
上級生達は一番後ろの席――つまり視聴覚室で最も上の席に思い思いに座っていく。下級生達はそれを前方の席から振り返って見上げる形となった。亜季は知らない顔ばかりだが、皆独特の雰囲気を纏っているように見える。
しかし、その中でも一番最後に入ってきた男――鬼崎達哉の存在感は、圧倒的に思えた。長い金髪を揺らしながらゆったりと歩き、中央の席に座るその仕草は、女性の亜季ですら美しさを感じる。彼が座るのを待っていたかのように、彼の隣に座っていた眼鏡の女性が立ち上がった。
「皆おつかれさま。初めましての人もいるね。部長の三条です、よろしく」
先程繭子が言っていた部長だ。随分と声が通る。彼女はちらりとこちらを一瞥し――「あれ?」と首を傾げた。
「冬島――何でそっちにいるんだっけ?」
亜季の隣で冬島が舌打ちをする。香織の肩がびくっと固まった。それを見て、三条があっはっはと豪快に笑った。
「ごめんごめん、冗談だよ。期間限定サポートメンバーとして、後輩の皆さんにくれぐれもご迷惑をおかけしないようにね――さて」
三条がぐるりと教室全体を見回す。
「そのバンドのメンバーがまだ来ていないようだけど、どうしたもんかね。そろそろお客さんを入れる時間なんだけど」
「後回しでいいんじゃないすか」
それまで黙っていた新入生の男子が口を開いた。少し長めの黒髪の隙間から、ピアスが光っている。
「――君は」
「一年の御堂です。来てないのって、上級生のバンドでしょ。元々おまけみたいなもんなんだから、来なきゃ来ないでいいんじゃないすか」
「あ? 何だとてめぇ――」
「冬島さん、ちょっと」
立ち上がろうとする冬島を、亜季が慌てて抑え込んだ。これ以上香織達を怖がらせる訳にはいかない。亜季が顔を上げると、三条が、香織が、御堂が、そして――鬼崎が、こちらを見ていた。
何か言わなくては、亜季が口を開こうとしたその瞬間――教室の扉が開く音がする。
亜季はそちらを見上げて、「――遅刻だよ」と一言呟いた。
何度でも言おう
君の歌が、私の日々に彩りをくれた
だから私は今日もここで
英雄の帰還を、ひとり待つのだ
track03. 秋の少女は英雄を待つ-Autumn Girl Is Waiting for Her Hero-




