その手を離したくなど、なかったのに。-Ares-【崩潰】②※鬱話・やや残酷描写有
周囲を取り囲んでいるのは、醜悪な姿形をしている魔物だ。
騎士学院の通過儀礼である演習に突如現れた魔物の群れは、今までに見た事もない新種であり、引率していた騎士団の先輩達も動揺を隠しきれず、けれど怯むことなく剣を構えていた。
魔物を見上げ、アレスはこの状況をどう打破すべきか考える。
アレスの手元にあるものは、演習に使用する為に手渡された剣一本のみだ。
何も無いよりはマシだと構えては見たが、どう考えても初めての実践で相手をするには分が悪すぎると、ここにいる誰もが理解している。
異変に気づき、ロガールから救援がやって来るまでの時間稼ぎすらもままならないだろうこの状況に、奥歯を噛み締めた。
演習用に用意されていた魔物は恐らく、この魔物に食われてしまったのだろうと言う見解を口にした先輩の一人が魔物に斬りかかると同時に「逃げろ」と合図を出し、指示を受けた同級生達が散り散りに駆けて行く。
魔物の注意を引き付ける先輩に加勢すべきか一瞬悩んだアレスだったが、今の自分では間違いなく足手まといになってしまう。
他人を守りながら戦える程戦場は甘くないと、幼い頃から聞かされていたセシリヤの話をこの時になって理解し、悔しさに唇を噛みながら背を向けて走り出した。
乗って来たはずの馬は、この混乱に乗じて逃げ出してしまったのか姿がなく、自分の足だけが頼りだ。
背後で起こっている戦いの音を聞きながら走っていると、魔物の姿に慄き逃げ遅れたらしい女子生徒を視界の端に捕らえ、アレスはすぐさま進行方向を変え彼女の元へと向かって行った。
女子生徒の目の前には先輩達が戦っている魔物よりも小さな個体がおり、彼女から魔物の意識を逸らす為に魔術で攻撃を試みる。
急いで描いた術式が歪んだせいでダメージはたいして入らなかったようだが、目的通り魔物の意識は逸れ、女子生徒を素早く助け起こすとすぐにここから逃げろとその背中を押し出した。
震える足を必死に動かして走り去って行く後ろ姿に安堵する暇もなく、背後から来る攻撃を躱すと鞘から剣を抜いて身構える。
何とか女子生徒を逃がす事は出来たものの、今度は自分自身が窮地に立たされてしまった。
無謀な行動であったと思う。
女子生徒を見捨てようと思えばそれは容易に出来たが、アレスはそれを否と判断した。
どんなに無謀だと解っていても、彼女を見捨てる事はアレスの正義と信念を捻じ曲げてしまうからだ。
他人を見捨てた自分に、大切なものを護る事など出来るはずがない。
セシリヤの反対を強引に押し切り半ば家出状態で騎士学院に入ったのは、大切なものを護る力を、術を得る為だ。
長い間自分を護ってくれていたセシリヤも、同じ状況に立たされたならばきっと同じ事を思い、同じ事をするだろう。
ここより離れた場所で、数名の人影が魔物と戦っているのが見える。
そう言えば、アンジェロは無事に逃げ切れたのだろうか。
他人の心配をする位には余裕があった。
睨み合ったまま、一歩も動かない両者の間を生温かい風が吹き抜けて行く。
互いに一歩を踏み出したのは、アレスの握る剣の刃先が僅かに震えた瞬間だった。
鋭い爪の生えた腕が振り下ろされた所を間一髪で避け、魔物の胴を狙って剣を振り抜く。
その一撃は重く、アレスの剣が魔物を見事に上下に分断した。
思っていたよりも手応えがなく、けれど無事討伐出来たことに安堵の溜息を吐くと同時に、背後から予想もしない衝撃を受けて息が詰まる。
腹部に感じる違和感に視線を寄越せば、アレスの腹から鋭く尖った爪が紅く染まり突き出していた。
背から腹にかけて容赦なく食い込む爪。
熱さと遅れてやって来た痛みに、全身の筋肉が硬直する。
腹の底から迫り上がって来る血の匂いと痛みが辛うじて意識を繋ぎとめた。
力なく首だけ振り返れば、分断したはずの魔物が切り離された数だけ増えて元の姿に戻っており、二体の内一体の爪がアレスの身体を貫いていた。
斬れば増える魔物など、聞いたことがない。
けれど、今はそんなことはどうでも良い。
ここで倒れれば、魔物は先程助けた女子生徒を標的にするだろう。
それだけは避けなければと、どう対処すれば良いのか今にも飛びそうな意識の中必死に考え左手の指を動かし、最後の力をふり絞り辛うじて握っていた剣を振り上げる。
直後にもう一体の魔物の爪が胸部を貫き、その瞬間を狙って先程描いた術式を発動させると二体の魔物は瞬く間に業火に見舞われた。
口から溢れ零れる血が、身体を突き抜けている爪を更に紅く染め上げて行く。
魔物諸共炎に包まれて行く様をぼんやりと感じながら、もう二度とセシリヤの元へは戻れないことを愁い、そして、彼女の身を憂いた。
ここで果てた事を、彼女は何と思うだろうか。
彼女の言葉を聞かずに我が道を突き進み、こんな結末を辿る事を、愚かだと思うだろうか。
セシリヤの顔を思い出そうとしても、瞼の裏に焼き付いているのは悲し気な顔だけだった。
そう言えば、最後に見たのも泣き出してしまいそうな顔だった。
そんな顔をさせたい訳ではなかったのに。
これでは本末転倒ではないか。
長い間、繋いでいたその手を離したのは……、愛しいと思っていたその手を離したのは。
……その手で一人の女性としての幸せを掴んで欲しかったからだ。
いつでもその優しさと強さで全てから護ってくれていた彼女に、自由を掴んで微笑っていて欲しかったからだ。
本当は、その手を離したくなど、なかったのに。
「俺は……、貴女に……、幸せに、なって……欲しかったんだ……」
声にならない声で呟き、空を飛ぶ鳥を目にした所で、視界が暗転した。
―― ああ、どうか……、愚かな夢を見て、愚かな道を歩んだ愚かな"弟(俺)"を赦して下さい……、姉さん。
【END】




