賽は、投げられたのだ -Ángel-【胎動】①
物心ついた時には、すでに牢獄の中だった。
暗く冷たく不衛生なその部屋で、獣人達は肩を寄せ合って、その日を凌ぐことだけを考えていた。
三日に一度投げ入れられる粗末な食べ物を、飢えた獣人達は奪い合いながら食べ、けれど時々その中には毒が混ぜられていることもあり、翌朝冷たくなって横たわる者もあった。
檻の外から食べ物を投げ入れる人間の目は侮蔑に満ちていて、けれど、そんな目を向けられても何も感じる事はない。
生まれた時からこの環境が当たり前のアンヘルにとっては、それが普通の事だった。
父親の顔は知らず、母親は遺体となってもアンヘルに寄り添っていたが、今ではもう頭蓋骨しか見当たらない。
母であったモノを拾い上げ両腕に抱き締めると、この現実から逃げるようにきつく目を閉じる。
外に出たい訳ではなかった。
ただ、この薄汚い部屋で、地獄のような生活を強いられる事から逃げ出したかった。
しかし、願いを聞き入れてくれる者など、この世界には存在しない。
ならば他の獣人達の様に、食べ物を奪い合い惨めに生きながらえるくらいなら、いっそこのまま死んだ方がマシだ。
けれど毎日、必ず朝はやって来る。
己の生命力の強さを呪い、空腹で目を閉じても眠れないまま、飢える獣人達の声を子守唄の代わりに聴く日々が続いた。
それから三日後、いつもの様に食べ物を投げ入れに来たのか複数の人間の足音が檻の前で止まり、けれど、いつもと様子が違ったのは、閉ざされていた檻がこじ開けられた事だった。
賊でも侵入し、憂さ晴らしに蹂躙でもしに来たのかと思い目を閉じたまま身構えたが、周囲の獣人達は覚束ない足音を立てながら、あっと言う間に外へ逃げてしまったようだ。
逃がした後に追いかけて殺すつもりなのかと様子を窺っていれば、寝転がったままのアンヘルのもとへ二人分の足音が近付いて来る。
「おい、生きてるか?」
「意識を失っているのかな……?」
生存を確認するかのようにかけられた男女の声と、伸びて来る手の気配を察知して、思わず爪を出して振り払ってしまった。
肉の裂ける感触が、妙に生々しい。
「セシリヤ! 大丈夫か!」
「掠っただけだから、大丈夫。ごめんね、急に手を出されたらびっくりするよね」
どうやら爪で切り裂いたのは女の方で、彼女は謝罪を口にし、安心させるように微笑んだ。
鋭い爪で切り裂かれた傷口から滴る血が、腕を伝って床に落ちる。
ぐるぐると喉を鳴らして威嚇すると、男が女を庇うように前に出た。
「俺たちは君に危害を加えたりしない! 助けに来たんだ! だから信じて、まずは話を聞いてくれ!」
そう懇願し、くもりのない眼で真っすぐこちらを見つめる男に一瞬気を許しかけてしまったが、人間が獣人を助ける訳がないと思い直して飛び掛かった。
人間など、信じてはいけない。
人間は獣人を、甚振り侮蔑し蹂躙する。
助けてくれると言うのなら、何故もっと早く助けてくれなかったのか。
今更助けてもらった所で、母親は生き返らないし独りで生きる術も持ってはいない。
もっと早く助けに来てくれていたら、きっと何かが違ったのかも知れないのに。
涙で歪んだ視界を最後に、意識は途切れた。
【30】




