第七十七話◇森岡海
う、うかつ──。
私は自室のテーブルに顔を埋めて落ち込んでいた。
くっ。とうとう性欲魔人に貞操を許してしまった。私の初めては月島宙に奪われた。あんなヤツに純潔を汚されたのだ。
悔しいっ! アイツは他に好きな人がいるクセして、私の恋心を利用して弄ぶつもりなのだ。
くー、知っていた。月島宙がそんな男だってことを。人非人の外面似菩薩内心如夜叉。
自分自身が許せない。少しばかり良い景色の思い出の場所を見せられたくらいで。
考えてみれば、アヤツの現在の住居は、あんなところよりも高くて見晴らしのよい高級マンションの最上階住みだった。
それがホロリとくる昔話に人の良い海ちゃんの心打たせてチュッとこう来たわけだ。
アヤツ、かれこれ十秒くらい吸ってやがったぞ? 十秒あれば歴史的瞬間の世界記録の百メートル走を見逃してしまう。それをアイツはやってのけたのだ。
そうだ! 同意がなくてはそういう行為はしてはいけないにも関わらず、アイツは早速約束を反故にしてきたわけだ。
こりゃ、私の将軍家剣術指南の腕前を見せる時が来たようね。いやそんな大層なことが出来るわけがなかった。
しかし、その時が来たら月島家のお父様に直訴できる。くくく、月島宙め。今に見てるがいい!
それからと言うもの、部活帰りの道々で月島くんに理由を付けられて、物陰に隠れてキスされるようになってしまった。
キスされると、意識がぶっ飛んでボーッとしてしまうので、なされるがまま。許しがたし、月島宙!
でも期待している私もいるのも事実。私のバカ、バカ!
ハッキリ言わなくてはいかん。月島宙には好きな人がいるのだ。それなのに、私を欲望の捌け口に、都合の良い女にされてはかなわんと!
また別の日。その日は川沿いの堤防の上を歩いていた。堤防の下には運動場や畑もあるような場所だ。電車は川の上を走るので鉄道橋もある。月島くんは、その橋桁を指差した。
「あ。キレイな花があるよ。海くん、行ってみよう」
「へー、花?」
月島くんに手を引かれてやってきたが、めぼしい花などない。
「花ってどんな花? 何色?」
「花ならここにあるじゃーん」
と、私に密着して橋桁に押し付けた。ヤバい。このお坊っちゃまのいつものペースだ。
月島宙は顔を押し付けて、最近必ず言うセリフをささやく。
「いいよね?」
それは同意の伏線。コヤツは学習してやがる。一応許可はとったぞと言うヤツだ。端からみりゃロマンもへったくれもないが、私はいつもそれに応じてしまう。
コイツは、その回答を待たずに逃げないってことは許可したも同然とばかり唇を押し付けて来るのだ。
しかし、今日の私は違うぞ。私は月島くんの胸を押して抵抗したが、敵もさるもの。用意されていたらしく、よろめきもしない。そして唇が近付いてくるので、顔を横に向けて避けた。
「どうしたの?」
「どうしたも、こうしたもない。キスされたくないから避けた」
「なんで? 婚約したじゃん。婚約ゥ~」
「でも! そうやって毎回なし崩しにキスするのは良くないよ。私たち、学生だし。ずるいよ。男は主導権取って」
「んー、そうかも。でも、いいじゃーん。チュウしよ? チュウ」
「バカ! 止めて! それに、嫌がったらソラは止めなくてはいけないもの。そしたら後継者から外されるんだから!」
「どーしたの? いつもキスしてるじゃん。何かあったの? それに後継者よりも、こうして海くんと過ごす時間が好きだもの」
「嫌らしい! ホンっとに嫌らしい!」
私は月島くんの胸を叩く。そして聞いた。
「ソラには心に決めた人がいるのよね? どんな人なの? 教えて!」
それは私にも聞く権利があるはずだ。月島くんは悪びれもせずに答える。
「うーん、優しくて、強くて、気高くて、美人で、まるで女神みたいな人だよ。じゃ、いいよね。チューーーー」
いや答えになってない。名前を言え! 唇尖らせてタコみてーだぞ?
「バカ! 止めて! ヒドイよ。そんな人がいるのに、キスなんかして!」
「…………………………。はあ?」
「その美人で気高くて優しいって、一條先輩じゃないの? 会ったことあるもん! キレイな人って言ってた! その人の身代わりなんて嫌だよ、私!」
私は必死に訴えたにも関わらず、月島宙はキョトンとした顔。しばらく黙っていたが、罰が悪そうに答えてきた。
「誰だっけ? えーと一條先輩?」
ん? コヤツ、しらばっくれやがって! 遠山の金さんのお白州じゃねーんだぞ?
『さあて、知りませんなぁ。そこにいる娘の作り話じゃありませんかぁ?』
的な悪代官のセリフ。悔しい。金さん、早く出てきて桜吹雪をお見舞いして!
と思っていても、月島くんは本当に思い出してるご様子……。
「一條先輩……????」
オイオイ、お前の意中の人じゃねーか。向こうもお前のこと好きだって言ってたぞ? よかったな、相思相愛で。でも私の立場はどうなる?
「んー、ごめん。ちょっと思い出せないかなぁ?」
「ほ、ほら。アンタがインフルエンザの病み上がりで、さやちゃんとウチのお兄ィをお迎えに公園に行った時、物陰から覗いていた人いたじゃん! その人を見てソラは『キレイな人だなー』って言ってた! その頃から恋心が芽生えだしたのよね? そーよね?」
「ん? んー……?」
「ちょっと、ちょっとぉ~」
「んー、俺分かんね~や。普段から海くんのことばっかりで回りが見えてないし──」
は? 何言ってんだコイツ。その時だった。私たちの近くに人の気配を感じたのだ。私たちは同時にそちらを見た。
「あら、二人とも偶然ね──」
それは、その人は、北大路由真だったのだ。怪しげな笑みを浮かべ、手には犬を繋いだリード。その犬は、まるで絵で見る地獄の番犬ケルベロスのように、ヨダレを垂らし、グルグルと唸り声を上げながら牙を剥き出しにいていたのだった。




