第五十九話◇森岡海
私のお兄ィへの評価は、最高に高かった。私たちが小さいころ、両親は仕事で不在が多かった。休日はどちらかがいたのかもしれないが、余り記憶にない。とにかくお兄ィに遊んで貰ったり面倒見て貰った記憶しかないのだから。私の中では天使のような優しい人だった。
まあ、とにかく豆で面倒見がよくて、今ならウザいかも知れない。私の反抗期が出たのはお兄ィが始めくらい。でもそれは好きの裏返しというやつだった。
最高の兄はどこへ行っても引っ張りだこで、その中でも私を一番に思ってくれていると思っていたから。
しかし中学に上がってから気付いた。兄はそれほど目立つ存在ではなく、いわゆる陰キャというやつだったのだ。
私は憤慨した。あの優しくて頼り甲斐のある兄のことを誰も分からないなんて、全ての人間が間違っていて、子供のように見えた。そして、前に出ない兄のことも強く軽蔑をしたりしたのだ。
そんなこともあって、私は他の生徒よりもクールでドライで現実的で大人びて見えたのかも知れないが、一目置かれ、尊敬もされた。まあ張り子の虎というやつだが、それに見合うように努力していた。その甲斐あってボロが出るということはなかった。
男女ともに友人も多く、学級委員長に選出され、さらには生徒会書記となった。まあ大した仕事でもないし、楽しみながらこなすことが出来たし、いい経験にもなった。
中二になっても同じ。私は学級委員長になった。お兄ィは高校生となり、近所の進学校に入ってしまったので、学校生活は少しばかり寂しくなった。
そんな私の回りは華々しく、たくさんの友人に囲まれていた。だが好事魔多し。私を妬むものが現れたのだ。
北大路由真という、見た目からキツメの女子だ。親は大金持ちらしく、由真自身も派手な子であった。
それがわずかな取り巻きと一緒になって、私の悪評やら妨害をしていたようだが、ウザったいという以外は無害だったのでシカトしていた。
だがうちのクラスには、もう一人問題児がいた。村田という男子だ。二年になって初めて同じクラスになったが、一度も学校に来ていない。登校拒否というのだと思っていた。
そういう病気なのか、いじめなのかは知らない。ただ単に学校が嫌いな人なのかもしれない。ただ義務過程を一度も学校に来ずに終わらすのか、自分とは考え方が違う人だと漠然と思っていた。
「え? 私が村田くんのうちにですか?」
それはある日突然だった。担任の教師に呼ばれて、たまっているプリントを持っていって欲しいとのことだったのだ。
「そうなんだ。村田の家は君のお宅の近所でね。そしてどんな様子か見てきて欲しい」
「あの、私、村田くんをよく知りません。近所なんですか? それにしては小学校でも聞いたことない姓なのですが」
「そうなんだ。彼は中学に入学と共にお母さんとこちらに移ってきたらしい。一年の頃は数度登校したそうなんだが……」
無責任な教師だなぁと思った。そしたら自身で家庭訪問でもすればいいのに。私は渋々ながらプリントと、住所が書かれた紙を受け取り、下校時に村田くんのアパートへと向かうことにした。
放課後になり、席を立ちそのまま村田くんの家に向かおうとすると、取り巻きを連れた由真がニヤつきながら私の行く道をふさいでいた。私はため息をついて彼女たちの隙間を抜けようとすると、由真がわざとらしく声を張り上げる。
「あっらー、優等生。お得意のバトミントンの部活はおサボりかしらぁ~?」
部活は部長に言って、今日は休みを貰っている。別にどうでもいいだろ。関心なきゃほっときゃいいじゃん。友達でもないくせに。
「別に。用事があるの。どいてくれる?」
私は清まし顔をして連中を通り過ぎた。後ろから嫌み臭い笑い声が聞こえる。まったくもって嫌ったらしい。腹を立てながら村田くんの住所の場所を探した。それは小さなアパートだった。
私は知らなかった。近所にこんなにボロいアパートがあることを。真っ赤に錆びた階段に波形のプラスチック屋根、ベニヤ板で作られたようなドア。
私は一階にある村田くんの部屋の呼び鈴を押した。一度目は反応がない。二度目も同じ。ため息をつきながら三度目を押すと、小さくドアが開いた。目線の高さに人はいない。視線を下へと落とすと、着古した洋服を着た小さな女の子がいた。しかし、フルフルと震えて何も言わない。
私はためらいながら聞いた。
「あ、あの……。村田くんのおうちかな?」
すると小さい子は、恥ずかしそうに頷いた。これは村田くんの妹さんであろう。隙間から見える部屋の中は少しばかり乱雑で、畳は古く所々破れていた。
「村田くんは?」
小さい子は、躊躇していたが、やがて口を開いた。
「お兄たんはお仕事で……。さやたんはお留守番……」
仕事? 学校にも来ずに?
私の脳内は軽いパニックをおこしていた。これは私の知らない世界だ。ニュースでよく聞く、痛ましい事件。子供を虐待する親、置き去りにする親……。それが、こんなに身近にいるなんて、と思ったのだ。
私の心がざわめいた。ここにいてはいけない。プリントを渡してさっさと帰れ、という命令と、気の毒な子を見捨てるのか、という偽善の心。
私は、私は──。
偽善の心に従った。わずかな情けをかけたところで、自己満足でしかない。だけど、どうしても今帰ってはダメな気がしたのだ。
「さやちゃん? お名前、さやちゃんなの?」
「うん……」
「そうか、お姉ちゃんは海ちゃん」
「海たん?」
「そう。さやちゃんは一人でお留守番エライねぇ」
「うん……」
「ね、ね。お姉ちゃんと一緒に遊ぼうか?」
「え? お遊び?」
「うん。村田くんがお仕事から帰るまで」
「えへへ、お遊び」
さやちゃんは、楽しそうにそこでクルクルとはしゃぎながら回った。そして、私の手を引いて部屋の中に入れてくれたのだ。
並べられるおもちゃは、よく百均で目にする、おままごと道具だった。プラスチックのちいさなお鍋やフライパン。包丁とニンジン、とうもろこし、カボチャも出てきた。それらは大事に使われているようだった。私たちはそれで楽しく遊んだ。
さやちゃんが作ったお料理を食べる役をすると、彼女は顔を真っ赤にして興奮した。そして笑い声も大きくなっていった。
「ねね、お姉たん」
「なあに?」
「むすんで、ひらいて歌える?」
「歌えるよぉ~」
「ねね、一緒に歌って。歌って」
「うんいいよ。せーの」
私たちは楽しく歌を歌った。さやちゃんの小さな手がパチパチと音を立てている。この子は何歳くらいなんだろう。痩せて小さいけど、三歳くらいだろうか?
先生は、村田くんはお母さんとともに引っ越して来たと言った。だけどここにはさやちゃんしかいない。村田くんは仕事に言っていると言っていた。それでは母親はどこに行っているのか? 仕事だろうか? それとも……。
「ね、さやちゃん?」
「なあに? お姉たん」
「お母さんは? 今、何してるの?」
するとさやちゃんは、泣きそうな顔になって、必死に涙をこらえているようだった。しまった。直に聞きすぎた。少し遠回しにすればよかった。と、思っても後の祭りだった。それでもさやちゃんは唇を震わしながら答えたのだ。
「お母たんは、お出かけしてるの。でもお兄たんがいるから寂しくないんだ」
この子は──。なんていじましい。私は、入り込んでしまった。この二人だけの部屋に。彼女たちの秘密の居場所に。
私も泣きそうになったが、彼女に聞いた。
「さやちゃんは、何か食べたいものあるかな?」
それは私の少しばかりの情だったのだろう。ひっそりと暮らしているさやちゃんがこれからどうなるのか分からない。その僅かでも美味しいものを食べた思い出を作って欲しいとの。
さやちゃんは、恥ずかしそうにもじもじしながら答えたのだ。
「あの……。お、オムライス」
オムライス。私は一応は作ったことがある。正直、母の作るものには遠く及びはしないが出来ないことはない。私は彼女に微笑みかけて立ち上がった。
「オムライス。じゃあ、作るね」
するとさやちゃんは、大きく微笑んでくれた。私がキッチンの方へと体を向けると、そこにはほっそりとした長身の男子が立っていた。私は驚いて固まってしまった。
「君、ここで何してる?」
「え、あ、む、村田くん?」
「そうだが? 君は?」
村田くんだった。彼は怖い顔をして私を問い詰めようとしている。私は敵意がないことを示した。
「あ、私は村田くんと同じクラスで、学級委員長の森岡って言うの。今日は先生に頼まれてプリントを届けに──」
「帰ってくれ。俺たちをそっとしていてくれ」
それが私たちのファーストコンタクト。それは最悪な始まりだった。




