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舟歌  作者: 都築 樹
2/3

渡し守と小さい客

「あたしを向こう側に連れてってください!」


突然、目の前にいる少女にそう言われた時、渡し守はただ呆気に取られて立ち尽くした。

手から煙草が滑り落ち、チュンっという小さな音を立てて川に沈んでいく。しかし、当の本人は気付きもしなかった。

少女を見つめたまま固まる。

今まで、帰りたいと言う奴なんかいくらでもいた。だが、反対岸に一歩も踏み出さずそれを言った奴は初めてだった。渡し守達がいる所は川のちょうど真ん中で、反対岸に着いてさえもいない。


「あたしを向こう側に連れていってください!」


少女は再び渡し守にそう言った。

しかし、渡し守はただ懸命に訴える少女を見たまま動かない。手が止まり、舟は川の流れの中を漂う。

一度川を渡したモノを、反対側へ送り返すことは禁止されている。この少女の望みを聞いてやることは、そのルールに反するだろうか。

今にも泣き出しそうな顔で必至に訴えかける少女を見て、渡し守は深く溜息をついた。




   渡し守と小さい客+++




死者の国側の川原。そこで渡し守は何をするでも無しにただ暇そうに突っ立っていた。

何処からともなく吹いてくる風に、少し伸び過ぎた鈍色の髪が遊ばれる。渡し守はウザったるそうにそれを掻き上げた。

この場所でも時がたつ事を思い出す。


「相変わらず暇そうね。羨ましい限りだわ。」

「…いつでも代わってやるよ。」

「冗談。死んでも御免よ。ガキのお守りは特にね。」


女はからかうように笑いながら、渡し守の所まで歩いてくると、そのままストンとに川原に座った。ちょうど肩ぐらいまでの漆黒の髪が揺れるのを見ながら、渡し守は本日何回目かの溜息をつく。

女の名は『沙宵』。こいつもまたこの川で船を操り、死んだモノを送る仕事をしている。いわゆる同業者で、実は同期の奴なのだが、沙宵の方が繁盛している事は昔から変わりがない。

沙宵は足を投げ出して川面を蹴り、渡し守の方を見て何かに気を留めたような顔をした。

そして、『見られちゃまずいでしょ。』と言い、こっちを見たまま襟をクイクイッと引っ張った。


「ああ―…、悪りィ。」


渡し守はそう言いながら自分の襟元を一番上までキッチリ閉めた。


「今日も来たの?あのお嬢ちゃん。…なんて名前だっけ?」

「桃花。」

「そうそう、タオファちゃん。毎日頼みに来るなんて余程の事ね。何で帰りたいのか理由聞いたんでしょ?何だって?」


期待したような声に渡し守が首を振ると、何故か沙宵は心底驚いたように口を開けた。

何でも知っていると思うのは勝手だが、そこまであからさまに驚かれるとこちらが戸惑う。

渡し守は、ばつが悪そうに頭を掻くと、沙宵の隣に腰を降ろし、ポケットから取り出した煙草を口にくわえた。隣からの咎る視線を無視しつつ煙草に火をつける。

渡し守が風下にいる時は、いつも沙宵はそれ以上咎める事はしなかった。


「珍しいわね。規則なんかお構い無しのあなたが嫌がる相手を連れてくるなんて。他の奴らと変わらない事するなんて。呆れた。」

「この前は規則を破って呆れてなかったか?」


空に霧散していく煙を目で追いながら渡し守が言うと、沙宵は『本気で呆れてると思ったの?』と、不機嫌そうな声で言い放った。

横目で覗く先の沙宵は眉間にシワを寄せ、ジッと対岸を睨んでいる。


「本気じゃ無かったのか?」

「本気で呆れたに決まってるじゃない。規則を破る事を知ってて破る奴なんて大馬鹿!」


渡し守は苦笑せざるえない。矛盾しているのを知ってて言ってる奴に勝つ方法など知る所では無い。

短くなった煙草の熱を指に感じ、地面に押し付けた。


「あの子、送ってあげる気は無いの?」

「………。」

「理由があっても?どんなに必至でも?」


渡し守は沈黙する。

それは、肯定の意味の沈黙だった。

例えどんなに桃花が頼んでも、渡し守は向こう岸に彼女を送るつもりは無い。

それを察してか、沙宵は肩を竦め軽い溜息をついた。


「せっかくいい事教えてあげようと思ったけど、止めようかしら。」

「何をだ?」


渡し守は、何か含む言い方をする沙宵を不審そうに覗き込んだ。

風が吹き、髪を揺らし、透けるような白い肌と赤い唇が垣間見みえる。

沙宵はニッコリと笑っていた。

そして、遠くに向けて指を指した。


「ご愁傷様。」


指を指した先にあるのはただの川。

いつも通りの風景だった。緩やかに流れる川にまばらに浮かぶ舟。そして流れる死んだモノ達。


「―おい。いつから見てた。」

「彼女がトコトコとやって来て、あなたの舟を観察。一生懸命押してやっと動きだし、乗り込んでいざ出発!って所からずっと見てたわよ。わざわざ教えに来てあげたのは私の親切心と、単に嫌がらせ。感謝する?」


渡し守は額に手を当て頭を振ると、立ち上がり川岸を駆け出した。

死者に舟を盗られましたなど上に言えば、間違いなく渡し守は罰を受ける。だが、一番恐るべきは、一度渡った死者にが次々と渡る事だった。そうなれば反対岸は、さぞや楽しくなるだろう。

金にならん下らん仕事が増えるのも、もう御免だ。


「クソッたれが。舟借りるぞ!」

「どうぞお好きに〜。」


沙宵は歌うように返事を返す。

何を考えているのか分からん奴だが、何故だかいつもカンが良いのに腹が立つ。

渡し守は小石ばかりの川原を走り、滅多に近づかない入口付近の船着き場ヘ行く。昔数回見ただけの沙宵の舟は、すぐに分かった。

不変を形に表したような渡し守達の舟。それは神の御業か、時の悪戯か、悠久の時にあり続ける。

渡し守はすぐにでも出られる用意がされている舟に作為を感じながら、直ぐさまそれにに乗り込んだ。

舟が一瞬ニタリと笑ったような気がした。

腕に力を込め、出来得る限りの早さで渡し守は川を進む。

桃花の乗った舟はもう見えない所まで行ってしまっていた。相手が向こう岸に着く前に追い付くとは到底思えない。

渡し守は軽く舌打ちをした。


「理由を聞いたかだとっ!?」


押し殺した声で怒鳴る。

だが、水面を滑るように進む舟の速度は変わらない。緩やかな流れの川面に、渡し守の漕ぐ舟が波を立てて進んだ。

渡し守が嫌がる理由も聞かず、死んだモノを無理矢理連れてくる事は無い。

全て知ってた。

理由を知ってたからこそ渡し守は、桃花に川を渡らせた。

渡し守の出来る精一杯の優しさは、それ以外の良い方法を知らなかったから。

確信にも似た感覚で言える。桃花は向こう岸に行くべきでは無いのだ。











今にも泣き出しそうな顔で必至に訴えかける少女を見て、渡し守は深く溜息をついた。そして、舟に座るように屈んで少女を見つめ、諦めも含んだ不器用な笑みを作った。

少女の長い髪から覗く目と、渡し守の群青色の瞳が出合う。


「どうした?忘れもんか?」


少女は驚いたような顔をして渡し守を見つめ、再び意思のこもる目をした。


「あたしを向こう側に連れてってください!」

「あ〜、だから、それじゃ分かんねえだろ。何で向こう側に戻りたいんだ?」

「待ってて言われたの!」

「…誰に?」

「お母さん!」


少女の言った事に渡し守は数回頷いた。そして、『わーったよ。掴まっとけ。』と言うと、勢い良く船体をグルッと回転させ、元いた岸に向けた。舟に掴まり損ねた少女は後ろに転がり、何故か嬉しそうな笑い声を上げる。

つまりこの少女はただの迷子で、渡し守は親の方を忘れて連れて来たのだろう。どうせ二度手間になるなら戻ったところで上から文句は言われまい。マヌケな話だが、“親の置き忘れ”は注意ぐらいで済むだろう。

渡し守は煙草に火を付けながら舟を進めた。


「おい、何処ら辺で待ってろって言われたんだ?」


待ち合わせの場所の近くに降ろしてやろうと思い、渡し守は少女に向けてそう聞いた。しかし、少女はきょとんとした顔をし、『そんなの聞いてないわ。』と答えた。


「先に行って待っててって言われたの。お母さんもそのうち後から行くって。だから、入口の所にいないとォ!!イタッ!何で向きを変えるのよ。」

「先に行って?…岸で“待ってろ”って言われたんじゃないのか?」

「?…うん。」


不思議そうな顔をして頷く桃花は、渡し守をじっと見つめたまま目を反らさなかった。

その目を見返す事など出来るはずもなく、渡し守は舟を死者の国へ向け進める。

桃花は、なにも知らない。

もし母親が死んでいるのならば、少女は確実に“お母さん”に会えただろう。ここは、死んだモノが来るのだから、肉体など関係ない。思いだけが存在するのだ。

会いたいと思えば会える、行きたいと思えば行ける、実際に本人が信じて疑わない未来ならばの話だが。


「私は向こう岸に行きたいのよ!」

「一度、川を渡した奴を戻しちゃいけないルールなんだ。母親が岸にいないならそのまま拾って来る事も出来ないだろ。それに行き違いになるかもしれんしな。」


頬を膨れさせ大人しく舟に座り込む少女を見て、渡し守は苦々しく溜息をついた。

全く気の進まない仕事だ。

岸で言われたのでなければ、少女が言われた『先に行け』は、確実に『先に逝け』の意味で言われたのだろう。

まだ、生きている時に…。


「名前は?」

「あたしの?桃花よ。お父さんが付けてくれたんだって。あたしが生まれてすぐに“亡くなった”から良く覚えてないんだけど、とても優しい人だったって、おばあさんが教えてくれたの。」


楽しかった思い出を話す桃花は、花のように笑う。

渡し守があいづちを返す中、少女は次々と生きていた頃の思い出を話した。怒られた事、褒められた事、嬉しかった事、悲しかった事―…。

その全てが大切な宝物のように語る少女は、何処から見ても幸せそうで、渡し守は舟の速度を緩めながら、のんびりと話を聴き入った。


「今度、新しいお父さんもできるはずだったのよ。ホントウに本物のお父さんみたいなの。この前みんなで遊園地に行ってね―…行った?……ん?」

「どうした?」

「行ったの。ついこの前なの!あれ?行ったよね?」


何か必死に思い出そうとする少女に、渡し守は慌てて『無理に思い出すな』と言った。

自分が死んだときの記憶。

それは確実にとは言えないが、覚えてない死者が圧倒的に多く、死者はいつもそれを思い出そうとした。

本人を護る為に欠けた不自然な記憶。

確証は無いが桃花のは、きっとそれなのだろう。


「行ったのよ!ホントウに行ったのよ!!たぶん!」

「そこで“たぶん”を言うかねぇ。言うなら“絶対”とかだろ。」

「いいの、アイキョウってやつなの。」

「………。どいつもこいつも―…」


『俺の周りは…』と続けようとして、どうでもよくなり苦笑した。

『お前の不運は一生の伴侶だ。大事にして添い遂げろ』

昔言われた言葉を振り切るように、肺いっぱいに吸った煙を吐き出し、煙草を川に投げ捨てた。

同じくそいつに『疫病神が!』と罵られたのを思いだし、次第に胸糞悪くなって行く。

渡し守は、煙草を捨てた川面をじっと睨み、歪んだ自分の顔を自嘲的に笑った。

疫病神…大差ないのかもしれない。


「もっともっとスピード上げて!」


はしゃいでいる少女を横目で見て、渡し守は漕ぐ手に力を込めた。




桃花は川岸でうずくまっていた。

こちらに背を向け、何かに怯えるようにきつく肩を抱き、小さく震えていた。

渡し守の小石を踏み締める音が聞こえたのか、少女はピクリと細い肩を揺らすと、ゆっくり振り返る。


「居るはずないの…」



桃花の悲痛な表情は、渡し守がそれ以上近づく事を赦さなかった。


「怖い事…なのに、思い出しちゃ、いけないのに…。」

「落ち着け。ゆっくり深呼吸しろ。」


渡し守の声に、青白い顔の少女は素直に息を吸って吐いた。何度か繰り返すと次第に震えと過呼吸はおさまった。

渡し守は少女の前に行き、覗き込むように屈む。


「大丈夫か?」

「怖い事、思いだしたの。」


少女の声は未だとぎれとぎれだが、瞳はしっかりと渡し守の方を向いていた。


「遊園地に行ったその日の夜、喉が渇いて目を覚ましたの。私は台所へ向かって、リビングから光りが漏れてるのに気付いて。二人の話し声がして…」

「おい止せ!」

「お父さんが言ってたの。『俺が大好きだって頭を撫でると、嬉しそうに笑うんだぞ。全く気持ち悪いったりゃありゃしない。』…」


渡し守が止めようとしても、桃花の言葉は止まらない。

関を切ったようにとめどなく言葉が溢れ出す。


「そしたら、お母さんが『わざわざ計画まで立てたのよ。もう少しだから辛抱して演技を続けて。私も我慢してアレを可愛がってやってるのよ。例の日までは、ね。』って…。」


笑顔の桃花の双眸から、傷口から血が流れるかのように、涙が溢れ出ていた。そして、細い首に赤黒い痣がじわりと浮き出て、人の手の形が巻き付いてゆく。


「それで、怖くなって…部屋に戻ろうと思って…足が…それで…」

「もういい桃花…。止めろ。」


渡し守は出した手を一瞬躊躇い、それでも少女の頭上にポンッと置いた。


「向こう岸へ行け。本物の父親を探せばいい。」


桃花は首を横に振る。その理由は渡し守にはわからない。しかし、聞いたところでどうしようもない事だけは確実で、あえて何故と問わなかった。

縋るような桃花の瞳は渡し守を映しながら、ひたすら涙を流していた。


「ここにいる。」

「…………」

「向こうの国に行きたくないの!川を渡してる人はみんな神様なんでしょ!神様は人を裏切ったりしないんでしょ!あたし、お父さんの顔も知らない!お父さんも邪魔だからって、あたしを殺すかもしれないっ!!……―怖いよ…あたしは、死にたくなんかなかった…」


大粒の涙が地面に当たって跳ねた。

渡し守は桃花から手を離し立ち上がる。ガキの涙や下らない一時的な感情に流されるような優しい心など、当の昔に逃げて行った。

だが、それでもまだ甘い所があるのかもしれない。

死にたくなかったと言える桃花は羨ましい。そう思った事が気付かれたくなくて、渡し守は反対岸に顔を向けた。


「ばぁか。会ってみないと相手に嫌われるかどうかなんてわかんねえだろ。」

「もし嫌われたら?…大人なんか嫌い。」

「俺も悪い大人なんだよ。」


渡し守は溜息交じりに呟くと、沙宵の舟と自分の舟を繋いでその上に立った。そして、桃花に向かって手招きをする。

静かに立ち上がる桃花は、少し渋るように立ち止まり、口をきつく結び、舟の端っこの方へ座った。

避けられたのかもしれない。


「渡し守は、会いたいけど会うのが怖い人いないの?」


桃花の言葉に、渡し守は軽く驚いた。

確かに自分は渡し守なのだが、そう呼ばれたのは始めてだった。


「いない。会いたくねえが会いてえ奴はいるがな。二人ばかり。」

「それ、なんかおかしいわ。」

「おう。―ガキにはわからねえよ。」


舟は動きだし川面を滑り始めた。


「お前は会いたい内に会っとけ、ガキなんだから、な。」


桃花は分かったのか分かってないのか、ただ黙って少し頭を動かした。

後に残る静寂。


死にたくなんかなかった―…


桃花の声が、思いがけず、いつまでも耳に残った。


「さっきの話な。ここの渡し守達は神だが、元は人だった奴らだ。裏切らないとは言えないぞ。」

「何で神様になったの?」

「向こう側に行きたくない、又は行かれない、単にめんどくさい、とか…まあ理由はこんなとこだろ。」


反射的に答えを返し、渡し守はしまったと思った。


「渡し守はどうして神様になったの?」


思った通りの質問が来て思わず苦笑する。


「行かれなくは無い、だが行きたくない」


今更嘘を言うのもめんどくさくなり、渡し守は事実を言った。

そんな気になったのも、久し振りに走ったり、真面目に漕いだりしたからなのかもしれない。

肩に手を当て首を回すと、なんか小気味いい音がした。


「何でか聞いてもいい?」

「―悪りぃ事するとなあ、周りから白い目で見られるもんなんだ。」

「あたしは、渡し守が悪い人には見えないわ。」

「…―そうか。」





いつも通りの人気の無い川岸。野良猫さえ通らないその渡し守の場所で、沙宵が仁王立ちになって立っていた。


「ここからは一人で行けるな。」

「うん。もし、見つけられなかったらまた来るわ。」

「好きにしろ。」


死者の国へ向けて歩いていく桃花を、渡し守は最後まで見送る。

死者の国は、話に聞くと生者の国よりも広いが、仕組みはむこうと大して変わらないという。いつかは父親を見つけられるだろう。


「捜すとさ。何処に居るかもわからない父親を。」

「あなたは行かないの?」


答えるほどの質問では無いと思い。渡し守は川岸に座り、煙草に火を付けた。

沙宵が睨むのはいつもの事だし、次の客が来るまで大分時間がかかるのは自分にとって普通な事。

のんびり煙草でも吸いながら待てば良い。

肉体の老い等が無い渡し守にとっては、待つという行動が苦痛ではない。


「隠すぐらいなら首の傷痕なんて、消しちゃいなさいよ。そんな物の為に周りから距離をとるなんてホント馬鹿よ。」

「―――…。首を落とされた記憶が、そんな簡単に忘れられるものだと思うのか?」

「…でも見苦しい。」

「じゃあ見んじゃねえ。」


膨れっ面の沙宵に向けて笑うと、相手は少し目を見開き、溜息と共に肩を落とした。

呆れたのか、諦めたのか、又はその両方なのか、渡し守にはわからない。だが、どう思われてもよかった。

今まで、自分を悪い人間には見えないと言ったのは、桃花とこの沙宵の二人だけ…。

やはりそれでも嬉しかったのだろう。

ちっとも変わらない空に向けられた渡し守の顔は少しだけ、けれど確かに笑っていた。





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