夜光の星空
食事を取り終えて、試練は次の段階へと移る。
「この試練の森には慈愛の木と呼ばれる樹木が生えている。ほかの木々よりも微かに白味を帯びているのが特徴だ」
「他よりも白い木か」
特徴を聞かされ、該当する木を探して歩く。
すこし進めば、それらしい樹木を見つけることができた。
「あれ、この木……なんだか甘い匂いがするな」
微かに香る。
優しい匂いがする。
「やはり、そなたは平気か」
「平気? ……もしかして毒とか?」
シンシアの反応を見ていると嫌な想像をしてしまう。
というか、いまの俺に毒が効くのだろうか。
「いいや、毒ではない。ただこの森に棲む魔物はこの匂いをひどく嫌うんだ」
「嫌う? ……この木がそういう風に進化したのか」
この森に棲む魔物だけが嫌う匂いを放つ。
長い年月を掛けて試行錯誤されたであろうそれは植物の神秘だ。
蛙が食べられないように毒をもち、体色までも毒々しい見た目に進化したように。
この慈愛の木も数多の変化と進化を重ねたのだろう。
「ともあれ、そなたがこの匂いを嫌わないのであれば慈愛の木はよい寝床となるだろう……寝るのか?」
「それに近いことはする」
スケルトンになってからは一睡もしていない。
眠ることができない。
寝る必要がないのだ。
死んだまま動いているから。
けれど、それでは精神のほうがもたない。
魔物の身体が睡眠を必要としなくても、人間の魂が睡眠を必要としている。
だから、俺は定期的に視界を閉じ、なにも考えず、じっとしている時間を造っていた。
まだ入院生活を送っていた頃、眠れない夜に看護師が教えてくれたのだ。
眠れないなら目を瞑ってじっとしているだけでもいい、と。
いま俺はそれを実行することで、なんとか精神を正常に保っている。
「そうか。まぁ、なにはともあれ慈愛の木に登るぞ。そろそろ奴らが嗅ぎ付けてくる頃だ」
「奴らって?」
「時期にわかる」
そう言ってシンシアは先に慈愛の木に登る。
あとに続くように俺も地面を蹴って跳び上がった。
「おっ、こことか良さそうだな」
太い枝に腰を下ろし、幹に背を預ける。
ここなら体勢が安定するし、余程のことがない限り落ちもしないはずだ。
「余った肉はここに吊して……」
食べきれなかった肉は蔦で括ってその辺の枝にぶら下げておく。
魔氷で氷付けにしてあるから腐ったり味が大きく落ちたりもしないはずだ。
「……来たな」
そうしていると側の枝に立つシンシアが呟く。
「来たって……」
疑問に思いながら彼女の視線の先を見る。
すると、近くの茂みに何体かの魔物がいることに気がついた。
大型の狼のような姿をした魔物たち。
それらはゆっくりとこちらに近づいてくる。
「あいつらは匂いが平気なのか?」
「平気じゃない。だが、それより空腹が勝っているだけだ」
「なるほど」
嫌な匂いがしてもそこに食べ物があるなら向かうだろう。
腹が減っているとなれば形振り構っていられない。
「あれを倒すのも試練のうちか」
枝の上に立ち上がって魔力で弓矢を造る。
「いや、あれを倒してはならない」
「なに? どういうことだ? そりゃ」
「八つの子供があの大群に勝てると思うか?」
「そりゃ……思わないけど」
とりあえず造った弓矢は魔力に戻そう。
「戦わないことも試練だ。子供が思い上がらぬよう、勇猛と無謀を履き違えないよう、勝てない戦いに挑まぬよう。実力の如何に関わらず、この試練においてあれらの魔物と戦うことを禁じている」
「……戦わずにその場をしのぐことも生き残るために必要なこと、か」
かつてサラマンダーと対峙したときも俺は最終的に逃げることを選択した。
敵わない相手に真っ向から勝負を挑むなど愚の骨頂だ。
八つの子供なら尚更、戦闘を避けなければならない。
「じゃあ、どうしろって?」
「簡単な話だ。奴らがここに来た原因を取り除けばいい」
「原因……まさか」
俺の視線は吊したばかりの肉へと向かう。
「せっかく手間暇かけたのに……」
丁寧に皮を剥いで部位ごとに切り分けたのに。
「試練とはそういうものだ。さぁ、肉を手放なせ。さもないと奴らは延々と下で唸っているぞ。匂いに耐えながら意地でも登ってくる」
「……わかったよ。あーもうっ」
吊した肉を掴み、魔氷を解凍してから放り投げる。
一瞬、凍らせたままなら喰われないのではと思ったが、試練にならないので止めた。
次々に放り投げ、そのたびに魔物が肉を咥えていく。
「すべて渡さないと帰らないぞ、奴らは」
「わかってるっての」
口惜しいがしようがない。
最後の一つを投げて手元から肉がなくなった。
それは魔物にもわかっているようで、それを咥えて魔物たちは去って行った。
「魔物は欲張らない。腹が満たされれば勝手に帰っていく」
「……苦労したんだけどな」
去って行く魔物を見つめつつ、どっかりと腰を下ろした。
「あとはこの森で採ってはならない茸や木の実を教えておく」
「気をつけておこう」
それから毒茸の見分け方や食べられない木の実を教えてもらう。
大雑把な情報だったが青い茸は避けたほうがいいらしい。
木の実も熟れていないものは基本的にダメだとか。
「こんなところだ。ほかに質問はあるか?」
「いや、特には」
「そうか。なら、そろそろ時間だな」
シンシアはそう言って立ち上がる。
「これより二日間、エルフらしく生きてみろ」
「お眼鏡にかなったってことでいいのか?」
「あぁ、そうだ」
残り二日間を生き残れるだけの力量があると、シンシアは見做した。
「私は遠巻きから見ている。残りの二日をエルフとして生きてみろ」
そう言い残して、シンシアはどこかへと姿を消した。
遠巻きに見ていると言っていたのでまだ付近にはいるのだろうが。
すぐに見失い、その気配すら追えなくなった。
流石は森を熟知したエルフと言ったところか。
素人から姿を隠すなんて造作もないらしい。
「あと二日か」
木の幹に体重をかけ、空を見上げる。
夜光石の優しい光が鏤められた夜空。
星座でも探してみようかと眺めていると、ふと思い出す。
「そうだ」
衣服のポケットに仕舞っておいた魔道具を取り出した。
ミサンガ型なのに腕に巻いていないのは、ほかの探求者と出くわした時のためだ。
内通者がいると欠片でも思われてはならない。
「あー、あー」
魔道具を機動しながら発声をする。
とくに意味はないが、なんとなく。
「よう、セリア」
「――あっ、透さんっ」
今回も通信は正常に繋がった。
「いま平気か?」
「はい、大丈夫ですよ。ちょうど海草を採り終えたところです」
「そっか」
向こうでも食料調達をしていたのか。
「透さんは今なにを?」
「俺か? 俺は……」
視線を魔道具からもう一度空へと向かわせる。
「天体観測かな」
「てんたいかんそく?」
「星の空を眺めてるんだよ」
「星! 空!」
セリアの反応が一際、大きなものとなる。
「ど、どうした?」
「あっ、いえ、その……」
恥ずかしそうな声音がする。
「前に話したことがありましたよね。外の世界を見てみたいって」
「あぁ、あったな」
心の内をさらけ出すような慟哭の中に、それはあった。
「ここには空も星もありません。今は亡き祖父や父から伝えられたお話だけがあって。私はそれを自分の目で見てみたいんです」
ダンジョンが生成されてから五十年。
当然、セリアはダンジョンの中で産まれている。
外の世界にも出ていないらしい。
夜空も、星空も、青空も、曇天も、雨や雷すらもセリアは知らない。
知っているのは、そういうものがあったという情報だけ。
「透さん。星空はどんなものですか? お話のように鏤められた宝石の数々が闇の中で輝いているのですか?」
「あぁ、そうだよ。数え切れないほどの光が闇の中で輝いてる。星が密集しているところなんかは光の流れみたいだ」
「――すごいっ!」
跳ねるような声音が響く。
遠くの水底でセリアが目を輝かせているのが、たやすく想像できた。
「私もいつか見てみたいですっ、星の空を!」
いつか、か。
「なぁ、セリア」
「はい?」
「俺が人間に戻ってセリアを迎えにいった後、一緒に外の世界に出てくれないか?」
俺が望む未来。
言語化して改めて自覚したそれは、人としてセリアと暮らすことだった。
セリアが嫌というなら別の未来を探すことにするが、できることなら実現したい。
「……いいんですか? 私が――人魚が、外の世界に出ても」
「いいに決まってる。見たいんだろ? 外の世界を。なら、俺がそれを見せてやるよ」
「透さん……」
ちょっとクサい台詞だったかな。
言った後で、すこし恥ずかしくなってきた。
「ま、まぁ、クエンが許してくれたらの話だけど」
恥ずかしさを紛らわすようにクエンの名前を出す。
あの酔っ払いの痴態を思い出すことで、すこし心が平穏を取り戻した。
「透さん。私、兄を説得します。必ずです」
「そ、そうか」
とても神妙な声で、セリアはそう言っていた。
「透さん。私、楽しみにしていますね」
「あぁ」
「ですから、絶対に私を迎えに来てください」
「もちろんだ。絶対に迎えにいく」
しばらくセリアと会話をして通信を切る。
そのあとは視界を閉じて疑似的な眠りについた。
眠りから覚めてもこの森林は夜のまま。
このダンジョンに昼も夜もないため、昼夜の感覚麻痺にはもう慣れた。
そこからはシンシアに教わった通りにエルフとして二日間を過ごしていく。
「よし」
小さな獲物を見つけて仕留め、解体して食料にした。
このとき血抜きが不十分だったことが致命的なことになる。
「うーん……」
焼き上がった肉には血の臭いが混ざり、口の中に粉のようなものが残る。
恐らく、血が焼けて固まったものが粉のようになったのだろう。
苦い思いをしつつ完食し、内臓は深い穴に埋めて毛皮はよく洗って敷物にした。
二日目の食事の後に魔物たちは現れなかった。
完食して肉を残さなかったことが功を奏したようだ。
喰えるものがなくては魔物たちも匂いを我慢する理由がない。
俺自身は骨で喰うところがないしな。
「あと一日くらいか?」
体内時間で大雑把な時間を計りつつ、三日目を迎える。
今度は注意深く血抜きを行い、捌きに掛かる。
焼き上がった肉は一日目と同じく、とても美味しいものになった。
例によって完食し、魔物たちとの遭遇を避けた。
そうして三日目が無事に終了する。
「ん」
疑似的な睡眠を取っていると、すぐ近くで物音がする。
視界を開いてそちらを見ると、側の枝にシンシアが立っていた。
「合格ってことでいいのか?」
「あぁ、そなたは立派に試練を乗り越えた」
シンシアが俺に手を差し出す。
「今日この時より、そなたはエルフだ」
「よし。やっと一歩、前進だ!」
その手を掴み、立ち上がる。
これで試練を一つ乗り越えた。
次の試練に挑むとしよう。




