第一幕 失われた夏日
セミがだんだんと姿を見せるようになり、ネクタイを締めなくなったワイシャツの襟はへたばれてきた。じっとしているだけで汗が滲み、湿気がまとわりつくようだ。
夏も本番、明日から夏休みである。
高校生活最初の夏をどう謳歌したものかと同級生が湧きたつ中、特に予定も見込みもないおれは、廊下で二年生の友人と語らっていた。
「そういえば、今成に夏の予定は?」
「ありません」
「なんだよ。俺の恋愛相談には乗っておいて、自分はフリーかよ」
ため息で非難の意を示した。夏休みを前に彼女をつくる浅薄な駆け込み需要については、毎年いかがなものかと思うのだ。
その点、この河嶋先輩は悩まされている側だった。特別好きでもない女の先輩に告白されて困っていたらしい。だから、おれはおれの信念に基づき『真剣に付き合う気もないなら、断ればいい』と提案していた。
そんなデリケートな話をしているときに、来てほしくない奴が来る。
「あ、今成こんなところにいた。ねえ、一緒に――」
神谷リサである。
神谷はおれの近くまで歩み寄ったところで河嶋先輩を発見し、言葉を切って立ち止まった。そういえば、神谷は河嶋先輩に会ったことがなかった。
「今成、その人は?」
「ああ、こちらは二年生の河嶋先輩。中学生のとき、市のイベントで知り合った人なんだ」
「へえ……」
神谷がぽかんとしているのを見て、河嶋先輩が茶々を入れる。
「さて、邪魔者は退散しようか」
「へ?」下手なことに神谷が対応してしまう。少々困惑しつつ河嶋先輩に言う。「邪魔とまでは言いませんよ?」
これは神谷の言い方が悪かった。『邪魔だ』と言うのを濁したように聞こえてしまっただろう。河嶋先輩のにやにやした顔がおれのほうに向けられる。
仕方なく、おれは厳格に答えた。
「そういう仲ではありませんから!」
「ジョークだって。むきになるな。……まあ、今回は助かった。年上で気兼ねしていたんだが、おかげで決心がついた。向こうも納得してくれたから……アドバイスありがと」
そう言って手を振り、河嶋先輩は去って行く。その背中に、冗談めかしてひとつ訊いておく。
「あれ? 部活はサボるんですか?」
「きょうは休み。サボりだなんて、先輩を茶化すなよ!」
「ふうん、今成って先輩にも友達がいたんだ……」
何がそんなに感慨深いのか、神谷はまだ上の空のようだった。随分と失礼なことを口走っている。おれは呆れながら尋ねた。
「それで、お前は何をしにおれのところまで来たんだ?」
「うん? ああ、一緒に帰ろうと思って」
…………。
「お前、本当に友達がいないんだな。駅までしか一緒じゃないのに、わざわざ『一緒に帰ろう』だなんて」
……神谷が固まった。友達がいないのは、鈍感な本人も自覚するほど図星のようだ。
「友達なら、いるじゃない」その神谷はこちらを振り返り、指を差す。「ほら、ここに」
「こういう話の場合、話している相手は却下だろう」
おれを指差す神谷の腕を降ろした。もちろん口には出さないが、ただの照れ隠しである。
「それで……悪いが一緒に帰るのは厳しいな。遅くなるぞ」
「どうして?」
「ちょっと探し物」
そう言った途端、神谷の目が爛々と輝きだした。
「面白そうだね! ……何? 何をなくしたの? どこで? 思い当るところは?」
「お前なあ……なくしたのは眼鏡ケースだよ」
「眼鏡ケース?」神谷は一転してつまらなそうな顔になった。「今成、眼鏡かけてるくせになくすんだね。……わたしは目が悪くないから知らないけどさ、眼鏡ケースなんて買い直してもそんなに高い買い物じゃないでしょ?」
「いいや、そうじゃないんだ」おれは強く首を振った。「なくしたこと自体が気に入らないんだ。夏休みが始まってしまう前に見つけてしまいたい」
いまかけている眼鏡も、眼鏡ケースも、叔父が中学の入学祝いに買ってくれたものなのだ。古くなってはきたが、壊れるまでは使いたいから、なくしてしまうのだけは納得できない。
神谷はふうん、と声を漏らす。そして、偉そうに提案する。
「それで? 何か手がかりをちょうだいな。推理してあげるわ」
「悪いな、お前の出番はない。もう探すべき場所は絞ってあるんだよ」
「あら、そう。じゃあ、確かめに行こうよ。どこなの?」
「おととい水泳の授業があったんだ。だから、更衣室だと見込んでいる」
探偵学園のプールは講堂の上の階にある。随分とんでもないところに作ったと常々思うが、土地がなかなか手に入らなかったのだろう。一旦靴を履きかえ外へ出て、講堂へと歩いた。
「神谷、ついて来るんだな」
「少しくらい遅くなっても困らないから」
一緒に帰るつもりなのは変わらないのか。
講堂のすぐ近くまで行くと、数人の女子生徒の集団とすれ違った。
その中のひとりと、ふと視線がぶつかった。それも、かなり怖い顔をされた。
「……なんだか、睨まれたみたいだ」
赤の他人に突然睨まれては気分が悪く、神谷にそう呟いてみる。しかし、神谷はさほど不思議そうな様子もなく、
「そう? 睨まれた?」とのことだ。さらに要らないひとことを付け足す。「放課後に女子を連れてプールに向かう、変質者とでも思われたんじゃないの?」
「あのなあ……」
思えば、終業式の放課後にプールから校舎に向かうということは、いますれ違ったのは女子水泳部の部員たちということか。部員もさほど多くなかったようだし、知り合いもいない。縁はないな。
だが、睨んできた女子生徒。どこかで見覚えがあるような……
幸い、更衣室の鍵は開いていた。さっきの怖い女子水泳部が戻って来る前に、眼鏡をさっさと見つけてしまおう。
「さて、どこにあるかな……」
「ちょっと待った、神谷」
「うん?」神谷は不思議そうに顔を上げた。「手伝おうっていうのに、何?」
「いや、男は女子更衣室には入れないだろう?」優しく諭すと、神谷はさも当然と言わんばかりに頷いた。「じゃあ、女子だって男子更衣室はまずいだろう。いま人がいないからって、不道徳だ。いざ人が来たときには大変だろう?」
神谷の説得には成功した。口を尖らせながら「ここで待ってる」だそうだ。
おれは男子更衣室に足を踏み入れる。どのあたりのロッカーを使っただろうか? おおよその位置を摑み、それからしらみ潰しに棚をひとつずつ覗く。じめついた空気の中、体を上下させてロッカーを調べて行くのはなかなかの労働だ。
そのうちに、廊下から声が聞こえ始める。部員が帰って来たようだ。
やっとのことで眼鏡ケースを見つけることができた。叔父からもらった大切なケース、ちゃんと眼鏡ふきも入っていたし、傷もついていなかった。
これでようやくひと安心、男子更衣室を出たときだった。
「神谷……あれ? どこに行っ――――」
「あ、あいつだ!」
その掛け声で、おれはたちまち女子生徒たちに囲われてしまった…




