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神谷リサは見逃さない  作者: 稲葉孝太郎 シナリオ / 大和麻也 著
薄墨色の習作 A Study in Light Black
10/41

第三幕 塗られた作品

 月曜日。

 朝から食堂のほうが騒がしい。おれは早めに登校するので、まだ時間は八時にもならない。限定メニューでもあるのか? ……いや、この時間に食堂で何かあるとは思えない。おそらく、二年校舎のどこかで何かがあったのだろう。

 その雑踏をかき分け、女子生徒がやっとのことで出てくる。どこか懐かしい、上品なセミロングの黒髪を持つ二年生だった。

「ふう、やっと出られた」

「……倉林先輩?」

 おれが声をかけると、先輩はやあ、と言ってこちらに歩み寄ってきた。

「いやあ、ありゃすごい人だね。生徒会の仕事で、登校時間の監視も兼ねたあいさつ運動をするために出ようとしたんだけど、靴もなかなか取れなかったよ」

 倉林先輩が生徒会役員。どうりで、面接試験のときに世話になったわけだ。

「なんの騒ぎなんですか?」

「ううん、あの人山の中の噂で聞いた限りでは、どうやら書道部の展示が荒らされたらしいの。多目的室で準備していたでしょ?」

「ええ!」

 倉林先輩は苦い顔で続ける。

「まあ、噂だからね。あんまり信用しないほうがいいよ」それから、悪戯っぽい笑みを浮かべる。「……あ、早く教室に行きな? 中庭でうろうろしていると、わたしたち生徒会にチェックされちゃうよ」

「あ、失礼しました。では」

「リサさんによろしくねえ!」

 倉林先輩に手を振られながら、一年校舎に入る。それでもつい気になって、下駄箱で靴を取り替えながら外を窺ってしまう。人ごみの向こうの多目的室で一体何が起こって、いまは一体どうなっているのだろう?

 ああ、もう。気になるじゃないか。



 授業もまったくに頭に入らないほど、おれは多目的室のことが気になっていた。

 昼休み。朝に購買で仕入れた惣菜パンを野菜ジュースでさっさと腹に押し込み、B組の教室を出る。目指すはすぐ隣、C組の教室だ。

 教室に数歩入り、背の低い女子がいないか見回す。すると、近くに座ってグループで弁当を食べていたひとりがおれに話しかけてくる。

「誰か探しているのか?」

「ん? ああ、佐久間はいないか?」

「佐久間……そういえばさっき、部室に行くとかなんとか女子たちで話してたよな?」

 グループの面々が頷く。

「ありがとう、助かった」

「なんだ? 彼女か?」

「違うよ。……あ、そういう発想が入学して一か月の時期にあるということは、ひょっとして恋人ができたのか?」

 少年は顔をほんのり上気させ、頭を掻いた。その様子に、周囲の連中がやいのやいのとはやし立てる。

 すまない、からかっただけのつもりだったが、悪いことを訊いてしまった。


 一年校舎の四階まで上ると、書道部部室を探る影がある。

「嫌な勘が当たったね」

 神谷リサだった。そういえば、土曜日に神谷は『よくないことが起こりそう』と自分の勘を語っていた。まさかそんな曖昧な勘が当たるとは思ってもみなかったし、実際に神谷がここにいるとも考えていなかったから、正直驚いてしまう。

 神谷は書道部の部室の中をこそこそ覗きながら、時折アーモンドチョコレートを口に放り込んでいる。おれも中から見えない位置に立ち、驚きを隠しながら神谷と話す。

「ああ、信じがたいからここへ来た。多目的室が荒らされたって本当か?」

「うん、今朝この目で見てきた」

 あの雑踏の中に突入していったのか。

「気になるのはわかるが、まったく」

「だって、面白そうだったし」

 ……面白そう? こいつ、『よくないこと』と言っておきながら、今度は『面白そう』と言うか。何でもかんでも自分の好奇心をくすぐるものを『面白い』で括る、やはり気に入らない態度だ。まして、今回も犯罪紛いの事件である。

 仕方がない。ここはおれの興味を押し殺してでも、神谷を止めたほうが後々のためになるだろう。神谷の腕を摑み、引っ張る。

「ちょっと、何するのさ!」

「とりあえずここを離れろ。神谷の『面白い』で首を突っ込んでいいはずがない」

 そのとき、がらりと目の前の扉が開いたものだからぎょっとした。まずい、これでは一年生男子今成定が、同じく一年の女子である神谷リサに乱暴をはたらいている図にしか見えない。

 でも、扉を開いた人物は騒がなかった。

「あれ? 誰かいると思ったら、この前の今成に神谷じゃないか」

 白石部長だった。適当に苦笑いして挨拶するが、神谷はそれより先に気になったことを訊いてしまう。

「先輩。わたしたちの名前、知っていましたっけ?」

「うん? ああ、佐久間から聞いたんだよ。それに、聞いてみたら噂のふたりだってこともわかったしね」

 神谷と顔を見合わせる。噂されるようなことにはお互い心当たりがない。

「憶えがない? ずば抜けた推理をする一年生コンビがいるって評判なんだよ」

 思わず顔をしかめる。噂の出処はおそらく、合格発表の日におれと倉林先輩が話していたのを聞いた何者かだ。巡り巡って、推理自慢のコンビになってしまったのか。

 それはともかく、早く書道部からおいとましなければならない。

「ええと、おれたちは失礼します」

「ああ、そうだ。せっかく名推理をするふたりが知り合いなんだ、ふたりの推理を聞かせてくれないかな? どうしても、多目的室を荒らした犯人を見つけたいんだ」

 苦虫を嚙み潰した顔で白石部長はそう頼んでくるが、おれは断ろうと思った。おれと神谷が毎回推理を成功させるとも限らないし、そもそも書道部と明確な接点はない。無暗に介入して事態を悪化させたら厄介だ。

 しかし、その断りを遮って神谷が口走る。

「わかりました」

 神谷と白石部長が力強く頷く。おれは頭を抱えるしかなかった。


 白石部長は佐久間を残し、他の部員たちを『多目的室の片付け』と称して人払いをしてくれた。

 おれたちのために並べ直された椅子に神谷はすぐさま座り、腕を組んで目を閉じる。頼まれては仕方がないし、神谷の抑止力になる必要もあるから、おれも腰かけて参加する。

「まず、何があったのかを説明しないと。……簡単に言えば、うちが展示していた多目的室が荒らされ、絵の具でぐしゃぐしゃに塗ったくられていた。時間は間違いなく、日曜日の午後三時から四時の間。しかし、誰がやったのかは判らない、だから困っているんだ」

 …………。

 随分と詳しく知っている。被害者ならば確かに事情を知っていて当然だが、誰がやったか判らないのに時間まで把握しているのは少々不自然だ。その点、しっかりと訊いておこう。

「どうしてそれほど詳細に知っているのですか?」

「ああ、それはちゃんと説明できるよ。

 土日は鍵の管理を部員と顧問ではなく、用務員さんが担当しているだろう? そこで、きのう作業の許可をもらって、午後二時に部室と多目的室の鍵を貸してもらったんだ。そのあと一時間でひととおり展示を終えて、せっかくだから打ち上げをしようってことになり、買い出しに行った。ここから三十分くらいのところに業務スーパーがあるから、お菓子とかジュースとかを安く買えるだろう?

 でも、パンフレットがまだ終わっていなくて、佐久間に留守番も兼ねて任せたんだ。五十分くらいあればひとりでも完成できるからね。『四時までに帰ってこなかったら校門で待ち合わせ』と約束して、みんなと買い物に出かけて、四時過ぎに戻って来たから、佐久間と校門前で合流した。佐久間はちゃんと施錠して、用務員さんに鍵を返していたよ。

 なのに、次の日には部屋が荒らされている。しっかり施錠してあったし、鍵が壊されたわけでもない。となれば、買い出しとパンフの作成で多目的室に誰もいなかった三時から四時のあいだに、何者かが多目的室を襲ったとしか考えられない、というわけさ」

 なるほど、理にかなっている。神谷も目を瞑りながら頷いている。

 しかし、それだけではやはり情報が足りない。

「白石部長。このままだと、日曜日三時から四時のあいだに学校にいた人間全員犯行が可能です。大げさに考えれば、侵入者だって可能。――さすがにちょっと、雲をつかむような話かと……」

「いいや」おれの懸念に、白石部長は首を振る。「犯人はもう特定できている」

 呆然とする一年生コンビをよそに、白石部長は続ける。

「犯人は美術部部長の黒瀬で間違いない」

「根拠は?」おれは少し苛立ちはじめていた。「ただの勘だとか、恨み辛みとかでは困りますよ」

「根拠となる点はいくつもある。絵の具で落書きされていたのだから絵の具を手に入れやすい美術部は怪しい。

 さらに、文化部のあいだでは知れた話なんだけど、黒瀬は日曜日に美術室に籠って創作する習慣があるんだ。しかも、土曜日にあったはずの書道部の本が月曜日になくなっている盗難が何度かあったんだが、黒瀬がうちの部室の前を歩いているところを見かけている。

 動機だって、多目的室の展示利用を逆恨みしたに違いない。ほら、これでもう黒瀬を疑うしかないだろう?」

 正直あきれた。神谷も眉をひそめて首を傾いでいる。なにせ、これなら首を突っ込まなくても良かったのだから。

 おれはそんな白石部長を咎める。

「さっき『犯人が判らない』と言っていたでしょう? 断定できるなら推理の必要なんかないじゃないですか!」

「いいや、それがそう上手くいかないんだ……」

 …………?

「いかんせん、黒瀬にアリバイがある。ほら、美術部はここから見えるだろう?」そう言って、窓の外を指差す。「日曜日、佐久間が黒瀬を見ていたんだ」

「そうなのか?」

 おれが問うと、いままで黙っていた佐久間は頷く。この証言のために、佐久間だけは多目的室に向かわせなかったのか。

 佐久間は息を呑んでから口を開く。

「多目的室の作業が終わったあと、パンフレットの作業を任されたでしょ? その作業が意外と順調に進んで、四時まで三十分くらい余ったの。だから、気晴らしに窓際で本を読んでいたんだ。

 そのとき、黒瀬先輩が人の頭を描いていたの。良く見える美術室だから間違いない。長い時間そこから離れることもなかった。四時過ぎに用務員さんが鍵をそろそろ返すよう伝えに来たころまで、ずっと絵を描いていたのを見ていたよ」

 …………。

 なるほど、黒瀬部長が疑わしいことは間違いないから、このアリバイをなんとかしてひっくり返せばいいのか。証拠を破綻させるポイントを見つけなくては。

「なあ、佐久間。黒瀬部長はキャンバスの裏にいて、ときどき立っているけれど見えていなかった、ということはないか?」

「ううん。見えていたよ」

「他の作品がちょうど、誰かが座っているような絵だったとか?」

「まさか、そんなの見間違えないよ。動いていたしね」

「時間が間違っていて、実は部屋の時計が進んでいたとか?」

「用務員さんの見回りは確かに四時だったよ。腕時計でも見ていたし」

 …………。

 佐久間は左腕を突き出し、腕時計を示す。用務員さんが約束の四時に来たとあれば間違いなかろう。時間の勘違いが一番崩しやすいと思っていたから、これでは推理が行き詰まってしまう。

 そっと神谷を窺う。神谷は目を開いていた。

 ひょっとして――そう思い、おそるおそる訊いてみる。

「なあ、神谷。お前の推理は完成したか?」

「いいえ、もうちょっと。まだはっきりとは筋道が立たないの」

 それは困った。おればかりか神谷の推理も成立しない。白石部長も顔を歪め、困っているのは同じだろう。

「もうちょっとなんだけど……」

 そう呟いて、神谷が突然立ち上がる。立ち上がったかと思うと挨拶もなしに、ぶつくさと何かを呟きながら、部屋を出て行ってしまった。

 唖然とする書道部員ふたりに適当に侘びと挨拶をして、おれも部屋をあとにした。

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