閑話 シオン④-1/橘 紫園
────星花女子学園を見に行ってみようよと言われたのは、昨晩遅くのことだった。いつも通り誰もいない寒々とした家の中で、あたしもいつも通り昔アキが勧めてくれた紅茶を飲んでいた時に、もうひとりのアキ、つまりは乙木晶が突然電話を掛けてきて、開口一番にそんなことを言ったのだ。
彼が突然電話を掛けてくるのは、なにも今に始まったことでは無かった。お互いがお互いの身代わりの関係であるあたしたちは、自分が本来の好きな人に会いたくなった時に突然電話を掛けることは日常茶飯事だったから。とは言え今回は提案が提案だったから、あたしも僅かながら面食らってしまったけれど。
「別に構わないけど……何で突然」『何でってこともないけどね。普段から恋人らしいこともしてなかったから、この機会に経験してみようと思って。空の宮までここから電車で二時間くらいだから』
小旅行みたいだよねと、電話口の乙木くんはいつも通り何を考えているのか解らない口調でそんなことを言っていて。あたしはそれに小さく息を吐くと「そう」とだけ返した。
「……良いわよ、別に。時間は?」『明日の朝、九時半ごろに君の家に迎えに行くよ。ここから電車で二時間くらいだからお昼くらいにはつく。星花で調べたいことはすぐに終わるから、終わったらお昼を食べよう』
乙木君のよどみなくすらすらと話す言葉に胡散臭さを感じながら、それでも今あたしの手から離れてしまったアキがどんなところでどんな人間と生活しているのかという好奇心の方が勝っていて。あたしは乙木君に了承の意を伝えると電話を切った。それが、前の晩の話だ。
────結論から言ってしまえば、あたしは星花女子学園を実際に見たことでアキが完全に自分の手から離れて行ってしまったことを自覚しただけだった。それもそのはず、私立の女子高である星花は周辺の警備も厳しく、あたしはまだしも男性である乙木君は警戒されてしまうため、迂闊に近づけないのだから。
あたしは星花から聞こえてくる生徒の声を聞きながら、何が楽しいのか物珍し気に学園の周辺を眺めている乙木君を眺めていた。
彼は星花を眺めている間、あまりあたしの方を振り返らなかった。時々なにかを考えるように顔を伏せると、また再度顔を上げて。それを何度か繰り返すと、やがて目的を達成したのか彼は満足げな表情であたしを振り返って、「橘さん、お腹空かない? お昼にしようよ」と笑った。
「お昼って、どこで」「ファストフードがあるよ。クーネルヨンダースとワックドナルド。もう少し行くと商店街の中に食堂もあるって。空の宮って思ったより発展してるんだね」
月見食堂だってと楽し気に笑う彼に小さく溜め息を吐いて「乙木君」と声を掛ければ、彼は「なに?」と言って少し笑ったままあたしを振り返る。表情は笑ったままなのに、こちらを見透かすような視線についぎくりとしてしまう。……あたしは何も、悪いことをしていないはずなのに。
「なに、橘さん」「……あなた、いったいなにを考えてるの?」
あたしがそう問えば、彼は一瞬だけ驚いたような、それでいて少し困ったような顔をして。それからまた、あの何を考えているのか解らない笑顔を作ると、「何も?」とだけ答えた。
「何も? 僕は君と塩瀬の幸せな物語しか考えてないよ」
だから君は自分の幸せのことだけ考えていればいいんだよと笑う彼に、あたしは自分の眉間に皴が寄るのが解って。彼はそれを見ると、彼にしては珍しく少しだけ困ったように笑った。
星花を後にすると、あたしと彼の間ではワックドナルドで昼食を摂ることで話がまとまって。学園のすぐそばにある店の中に入れば、乙木君は物珍しそうにきょろきょろと室内を見回していた。
「……なにしてるの」「いや、あまりこういうところに来ないから珍しくて」
乙木君はそう言うと、少しだけ困ったように笑って。それに「紫音さんとは来なかったの」と言えば、彼は一瞬だけぴくりと肩を動かしてから「いや?」と小さく笑った。
「あの人が物事を決める基準は陽だからね」
乙木君はそう言うと、何処か皮肉気に笑って。それに「陽?」と聞き返せば、「僕の兄」と呟いて。その声が彼にしては珍しく吐き捨てるような言い方だったから、あまり深くは聞かずに「そう」とだけ答えた。
休日だからか、駅前のワックドナルドは混んでいた。これは席が空くかしらと思っていれば、隣で戸惑ったようにメニューを見ていた乙木君が「君は、」と小さく呟いた。
「君は来たことあるの、こういうところ」「それなりに。昔はよくアキと遊んでたから、こう言うところでお昼を済ませることが多かったのよ。そこまでお金がある訳でもないし」
前の人が進んだのを見て列の間を詰めながらそう言えば、乙木君は「そう」と言って戸惑ったように視線を伏せる。何をそこまで気にしているのかと一瞬考えたものの、そう言えばこの人はアキの代わりだったなんてぼんやりと考えた。
「……別にファストフードに慣れてないくらいでアキじゃないなんて言わないわ」「そうじゃない。同年代と遊んだり、家族で出かけた経験がないから反応に困るだけだよ」
乙木君はそう言うと、また一つ列を詰めて。珍しく図星を突かれてムキになる姿は、少しだけアキに似ていると思った。……だからと言ってどうと言う訳でもないけれど。
またひとつ進んだ列に倣うように列を詰めながら「あまり誰かと遊んだりしなかったの?」と言えば、乙木君は嫌なものを思い出すように眉間に皴を寄せてあたしを見て、それから再び前の列に視線を戻して小さく「そう」と呟いた。
「友達っぽい人がいなかったわけじゃなかったけどね。学校の外で会って遊んだり、こう言うところで外食した経験はないな。あくまで学校用の友達って感じだった。向こうもそう思ってただろうけどね」
乙木君はそう言うと、また再び列を詰めて。あたしもそれに倣って列を詰めながら「そう」と言えば、乙木君も「うん」と呟いた。
やがて前の人たちが注文を終えると、あたしたちの番になって。「ご注文は?」とにこやかに聞かれ、あたしはパンケーキとアイスティーのセットを頼めば、乙木君は戸惑ったように一つ一つの商品について聞いていて。「手伝うわ」と声を掛ければ、彼は眉間に微かな皴を寄せて「別にいい」と言った。
「ごちそうさまでした」「ごちそうさま」
食事を終えると、彼は淡々と手を合わせて。美味しかったのか、それともそうではなかったのかと思い顔を見れば、彼はあたしの視線に気が付くと気まずげに視線を逸らして「これからどうする?」と尋ねてくる。
「……どこか行く?」
乙木君は几帳面に包装紙を折りたたんでゴミをまとめると、そんなことを聞いて来て。それに「空の宮に来ることだけが目的じゃなかったの」と言えば、乙木君は微かに眉間に皴を寄せると「別に」と呟いた。
「……付き合ってると一緒にどこか出かけるものだって、紫音さんに聞いたから。もし君もそう思ってるなら悪いことをしたなって」
あくまで代わりだけどと言う言葉を言外に匂わせながら乙木君は僅かに目を伏せる。黒い眼鏡が彼の動作に比例してきらりと光った。一方、あたしは間の抜けたことに、彼の訳の分からない言葉をぼんやりと聞いていて。ややあって「え?」と聞き返せば、彼はあたしの言葉に息を吐くように小さく笑った。
「どこか無いの? 塩瀬と行きたかったところとか」「何なの急に。あなた、今日はいつもにも増して変よ」
あたしがそう言えば、彼は一瞬だけ面食らったような顔をしてから「はは、酷いね」と笑う。その表情は、彼と付き合うようになってから初めて見た、やけにぎこちない笑みだった。
────結局あたしたちは、その後も空の宮をふらふらと見て回っていて。けれどあたしが指摘して以降、乙木君があの様子のおかしい態度をとることもなく、あのいつも通り腹の立つ笑顔と言いまわしてあたしを苛立たせるだけだった。
「そろそろ帰ろうか、橘さん」
だからそう言われた時も、あたしはいつも通り「ええ」とだけ返して、彼と一緒に星花女子学園前駅からあたしたちの住む市へ向かう電車に乗った。おそらく星花生なのだろうか、同じような制服に溢れる車内の中は酷く居心地が悪くて、あたしは無意識に乙木君を見ていた。その間 彼はぽちぽちと携帯に何かを打ち込んでいて、それからあたしの視線に気づくと、顔を上げてあたしを見て「なに?」と尋ねてくる。
見知らぬ人に溢れた車内の中で唯一見知った人間がいることに、あたしは柄にもなくほっとしてしまって。それが顔に出ていたのか、彼は少し驚いたような顔をすると周囲には聞こえない程度の声量で「車両、次で変える?」なんて聞いて来て。それに首を振れば、彼は「そう」と言って再び携帯電話に視線を落とした。
あたしは視界に映る星花生から無意識に逃れようと窓の外に視線を向ける。窓の外には、こんなことにでもならなければ恐らくこの先訪れることは無かったであろう景色が広がっていて。遠くまで来ちゃったな、なんてぼんやりと考えた。
(────アキはどうして、星花に行きたかったのかしら)
クーネルヨンダースもワックドナルドも、あたしたちの住む地域にもある。星花ほどの規模ではないけれど、あたしたちの住む地域にだって私立の女子高校はある。写真が撮りたかったのなら高校で同好会でも作ればよかったのに。別に星花じゃなくたって、あの子の望むものはあるのに。女子高に行きたいのならそう言ってくれれば良かったのに。そもそもあの時にあたしを無理矢理にでも乙木君から奪い取ってくれれば、あたしはあの子の望むものを全て与えてあげたのに。あの子の傍にいるべきなのはあたしなのに。あたししかあの子を解ってあげられないのに。あたしにはあの子しかいないのに。……あの子にもあたししかいないはずなのに。
車窓に映る知らない街の風景が憎くて仕方がなかった。頭のどこかで八つ当たりに過ぎないとわかっているのに、実際に見てしまえば空の宮の全部が憎く思えてしまうのだから何とも身勝手だと思う。
────壊れればいいのにと無意識に言葉が口をついた。それは決して大きな声では無かったけれど、隣に立つ乙木君には聞こえてしまったようで。「何が?」と解っているのに楽し気に尋ねてくる彼に「全部」と答えて、また窓の外へ視線を向けた。何かを察したのか、何も返さない乙木君の妙な頭の良さに少し腹が立った。
────だから、星花女子高校の制服を着たアキを見つけた時は叫び出しそうなほど嬉しくて、そしてどうしようもなく憎かった。そんなあたしの気持ちなんて知らずに、肝心のアキは呑気に車内で眠っていたのだからほとほと呆れてしまう。あの頃から少し髪と身長が伸びていたけれど、やっぱりアキはアキのままだった。
(だけど、混んでるからアキの方には行けないわね。乙木君は────あぁ、やっぱりはぐれてる)
星花女子学園前駅以降 続々と乗車してくる人々のお陰で、あたしはすっかり乙木君ともはぐれてしまっていた。あたしは手持ち無沙汰に車内案内表示器のディスプレイを眺めながら、自分たちの降りる駅までを確認して。もうそろそろかと思い、乙木君に連絡をしようとした────時だった。
眠っているアキの前に立っていたスーツ姿の会社員が電車を降りると、アキの前には人一人分のぽっかりとした空間があった。あたしは思わずそれにこくりと喉を鳴らすと、急いでその方向へ向かってアキの前を塞ぐように立つ。期待と興奮を抑えつけるようにこくりと息を呑めば、アキは相当疲れているのかがくがくと頭を左右に揺らしていた。
車内案内表示器が橙色の文字を浮かび上がらせると、車内アナウンスが次に停車する駅があたしたちの降りる駅であることを告げた。それでも目の前のアキは起きる気配も無くて、あたしはこくりと息を呑むと微かに身を屈めて耳元で小さな声で囁いた。
「────アキ」
そう言った瞬間、アキは────晶はあたしの声を聞くと、弾かれたように顔を上げる。それと同時にあたしは彼女の傍を離れ、彼女を遠くから見ていた。……遠くから見ていることしか出来なかったとも言うけれど。
アキは絶対に星花で不幸になっていると思っていた。繊細で優しいあの子のことを本当に理解しているのはあたしだけだって、乙木君の言っていることは間違っているんじゃないかって、頭のどこかでそう思っていた。
だけど、それは本当は正しかったんじゃないかなんて思ってしまう。あの子は本当は遅かれ早かれあたしがいなくても十分やっていけるようになっていて、あたしがあの子のためにしていることは、本当はすべて間違いだったんじゃないかなんて。だからあたしは、「あたしたちは何も間違ってないわよね」と乙木君に尋ねたのだ。同じ気持ちを抱えた彼だったら、あたしのことを否定しないんじゃないかという打算的な考えもあったけれど。
あたしは乙木君と家の前で別れたあとに、家の中に入る。玄関の鍵を施錠すると、自分の身体を引きずるようにして二階への階段を上がって自室のドアを開けるとそのままベッドへ倒れ込む。モスッと言う沈み込むような音と柔らかなラベンダーの香りが鼻腔を擽って、そのことに少しだけ安心した。瞼を閉じるとやがて金縛りにあったように身体が動かなくなる。どれだけ眠っても眠りたりないのだから、最近ではもうどうにもならないと諦めて力を抜くようにしていた。
(……僕の中では間違ってないよ、か。中途半端で便利な言葉ね)
はっきり肯定もしないけれど否定もしない。いつでも一歩引いてあたし達を観察しているあの男らしい言葉。けれどそれは耳触りが良いと同時に、狡くて優しい言葉でもあるなと思った。
(────そう言えば今日、あたしはほとんど紫音さんにはなれなかったわね)
目が覚めたら後で電話でもしてあげようか、なんて。アキ以外にそんなことを思う自分が、何だか少しおかしかった。




