二十四輪
「本当にすみませんでした!」「や、こっちもぼーっとしてて、すみませんでした。あの、ボク全然ぬれていないので……」
ね?と名前も知らない園芸部の子にそう言えば、目の前の彼女はほっとしたように詰めていた息を吐く。「はい」と柔らかく表情を崩した彼女に、にこりと微笑み返して「ボクは大丈夫ですから」と言えば、彼女は「本当にごめんなさい」と再び頭を下げてから、川蝉さんに「戻ろう?」と声を掛ける。すると、川蝉さんは少し困ったような表情でボクの方を見て。その視線に気づいて「ボクももう帰るから気にしないで」と返せば、「あの、」と言いかけてやっぱり口を噤んでしまう。
「うん?」「あ、あのっ……その、「川蝉さん?そろそろ戻らないと集合かかっちゃうよー」……あっ、は、はい……」
少し先に行っていたらしい園芸部の子にそう返す様子を見て、ここにいたら逆に気を遣わせてしまうかななんて考えて「じゃあ、またね。気を付けて」とひらひらと手を振って少し先を歩き出す。
「……っ、くしゅっ」
五月と言えどもまだ冷えるこの時期に、少量とは言え頭から水を被ればくしゃみも出てしまう。彼女たちの前で出なくて良かったなんて思いながら、ついくしゃみをした時の癖で鼻の頭を擦ってしまう。この時刻ならまだ早い電車に間に合うだろうなんて思いながら、校門の端の方へ寄って携帯を操作して時刻表を見ていると、
「…………しっ、塩瀬さん」「へ」
不意に、柔らかい声がボクの名前を呼んで。それに驚いて振り返れば、そこには僅かに息を切らせ、微かに俯いた川蝉さんが立っていた。
「ど、どうしたの?大丈夫?」「だ、大丈夫……です。あのっ、引き留めてしまってごめんなさい」
焦げ茶色の三つ編みが風にそっと揺れた。五月の淡い若葉の香りに乗って、柔らかな花の香りが鼻腔を擽る。
「それは、大丈夫だけど……どうしたの?」
そう言って僅かに屈み彼女と視線を合わせれば、彼女は怯えたようにびくりと肩を弾ませて。それから微かに目線を伏せた。
川蝉さんは怯えたように視線を左右にさ迷わせて。それから、ボクに向かってそっと淡い若草色のハンカチを差し出した。
「……え」「……っ、あっ、あの……さっき、水が掛かってしまっていたようだったので……。もっ、もしよかったら……」
川蝉さんはそう言ってハンカチを差し出す。焦げ茶色の色素の薄い髪は、彼女が俯いた行動に比例してさらりと肩を滑り落ちてゆく。
「……でも、ボクも一応、」
自分の分のハンカチを持っているのに、濡らしてしまうのも申し訳なくて。断ろうと言葉を続けようとした途端、川蝉さんの手が震えていることに気が付いて。それを見て、思わず正反対の言葉が口をついて出た。
「あ、ありがとう」「……っ、いえ……すみません……」
そう言って怯えたように顔を伏せた川蝉さんに、思わず「どうして?」と尋ねそうになるのをぐっと押しとどめて。「そんなことないよ」とだけ返すと、その若草色のハンカチを受け取った。
「……でも、ボク、そんなにわかりやすかったかな。水被ったの、気にするといけないから内緒にしてたのに」
受け取ったハンカチで躊躇いながらも濡れてしまった箇所を拭けば、川蝉さんは一瞬だけきょとんとした顔をして。それから、微かに表情を和ませた。
「……わかります。……塩瀬さん、わかりやすいので」「えぇ、それはそれでちょっと……面倒じゃない?」
そう言えば、川蝉さんはふふっと微笑んで。「……わかりやすいのは、気づいてもらいやすいから良いことですよ」なんて呟いた。
その表情があまりにも優しかったから。だからつい、ボクもつられて笑ってしまった。
「……あの、これ、明日洗濯して返します」「……えっ、いえ、申し訳ないので……」
そう言って慌てたような様子でハンカチに触れた彼女に「良いんだ、洗わせて?」と言えば、彼女は酷く戸惑ったように視線を左右に揺らせて。それでもまっすぐにこちらを見つめる澄んだ目に、何処か居心地が悪いような気持ちで目をそらす。
「……えっと、……そうすれば、また会えるかなって」
そう言えば、川蝉さんはきょとんとしたような顔をして。そうしてから不意に、その色素の薄い澄んだ目を伏せた。
「……わたしに会いたいなんて言うの、きっと塩瀬さんだけですよ」「そうかな、そんなことないよ」
思わずそう言えば、川蝉さんは「いえ」と短く答えて顔を伏せて。「本当に、そうなので」とだけ答えた。彼女は瞳を伏せたまま、ぎゅっと右手で左腕を強く握る。身を守るようにその華奢な身体を縮こまったその姿はどこか内罰的にも思えた。
その姿が、どこか昔の自分に重なってみえる。身を守るように縮こまるのは、思わぬ悪意に不用意に傷つかないための処世術なんだと思った。
「じゃあ、ボクだけってことだよね」「……え?」
思わずと言った様子で顔を上げた彼女に、「だってそうだろ?」と返す。
「だって、君に会いたいって言うのはボクだけなんだろ?思えば君のクラスの人は、君に毎日会える、し。だったら、そうやって言えるのはボクだけじゃない?」
ね?と返せば、川蝉さんは酷く戸惑ったような顔をして。それから思わずと言った様子で、くすりと笑った。
不意に、会話の流れを途切れさせるように携帯電話が鳴った。ボクの呼び出し音ではないから、恐らく川蝉さんのなんだろう。川蝉さんは「ごめんなさい」と一度断ってから応答ボタンを押す。
「……はい。はい、わかりました」
川蝉さんは通話終了ボタンを押すと、「……し、白石さんが、そろそろ集合だって、教えてくださったので」と少しだけ申し訳なさそうな表情をしてそう言って。それに、「ああ、そっか。ごめん、引き留めて」と返せば、「……それは、こちらの台詞です」なんて、少しだけほっとしたように微笑んだ。
彼女を見るたびに、彼女のその柔らかな声で名前を呼ばれる度に、酷くそわそわして落ち着かなくなるのはどうしてだろう。
「……ハンカチ、明日返すね」「……い、急がなくても大丈夫なので……それに、わざわざ洗ってくださらなくても良いのに」
ぎこちなく交わす言葉が、なぜだか酷く擽ったくて。心の縁をそっと撫でるような感覚に、少しだけ居心地の悪さを感じてしまう。
迷惑だったかななんて思いながら彼女のハンカチをそっと撫でれば、「でも、」と続けられた言葉に、つい頬を緩めた。
「でも、私も。……また、塩瀬さんに会えたら嬉しいです。友達ですから」
そう言って微笑む彼女の表情に、思わず頬に熱が集まってくるのを感じて。「じゃあ、また今度」と背中を向けた彼女の手を掴んでしまったのは、ほとんど反射だった。
「……ごめんね。少しだけ、待って」
掌に伝わる熱は、ボクよりもずっと高くて。けれど、その手が以前よりもあまり震えていないことにほっと息を吐いた。
川蝉さんはなにも答えなかった。けれど、その場から動かないでいてくれることが答えのような気がしていた。
ボクは慌てて鞄の中からメモ帳と黒いボールペンを取り出すと、乱雑に文字を書き殴って押し付けるように彼女に手渡した。訝しげな表情をしてこちらを振り返った彼女に微かに紅潮した顔を見られたくなくて、顔をそらしながら説明する。
「ボクの、連絡先。あの、検索したら出てくるから、その、君がもし嫌でなかったら……えっと、」
学校以外でも君と話すことができたら嬉しくてなんて言えば、川蝉さんは呆気にとられた表情をして。そうして、僅かに微笑んだ。
「……わかり、ました」
彼女はそう言うと、やけに大切そうにその紙を丁寧に折って制服のポケットへしまって。「じゃあ、また今度」とぎこちなく手を振って戻ってゆく。
ボクはその姿が見えなくなるまで見送ると、その場にずるずると座り込んでしまう。
「き、緊っ張……した……」
そんなことを呟いていれば、不意に柔らかな花の香りが鼻腔を擽って。それが川蝉さんのハンカチだと知ると、また途端に熱がぶり返してくる。
嬉しくて、優しくて、楽しくて────そして不意に、どうしようもなく泣き出してしまいそうになる。ボクは何度か深呼吸をすると、帰ろうと立ち上がって正門の方へと歩いていく。部活動停止が近いからだろうか、グラウンドからは運動部の明るい声が聞こえてきて。なんだかその対比が、今は少しおかしかった。




