99.元大魔導師はオレンジジュースがお好き
イザベルと喫茶店で会話してから三日後の、午前十一時半。
美也子は、魔法により日本人風の女性に変身したエイミを伴い、電車に乗った。
エイミは高いビルに生理的嫌悪感を催すらしく、名古屋駅近辺には連れ出せないが、ビルの少ない地域には電車に乗って何度か一緒に遊びに行った。
万が一のことがあるといけないためさせられないが、恐らく一人でも乗ることはできるだろう。こんなにも順応性の高い獣人が、先祖たちのせいで虐げられているという現状に、美也子は胸が痛くなる。
千歳宅の最寄り駅から二駅先、そこから徒歩五分の場所に、指定された鰻料理屋はあった。
何度もテレビや雑誌で紹介されている人気店だ。美也子も、祖父母や母と何回も来たことがある。予約をしなくては入店すらままならない。
入り口付近には案の定大行列ができていた。
この猛暑の中ご苦労様、としか思えない。
その行列の外れに、イザベルが立っていた。夏らしいブルーのワンピースがよく似合っている。
まったく暑がっている様子がないのは、魔法の力によるものではないかと直感的に思ったが、今日は悪魔を伴ってはいないようだ。
美也子の姿を見て、満面の笑みで手を振る。
「来てくれてありがとう」
その目が細くなり、美也子の背後にいるエイミをとらえた。
「あら、その子が例のお連れさんね」
その探るような目つきは当然だ。エイミの首から上に、幻術が掛かっていることを見抜いているのだろう。
獣人であるエイミを、アスラ人の前に連れ出すことの危険性は重々承知していた。それでも、この場にいて欲しかった。心細いからではなく、美也子の話を聞いてもらうために。
「美也子様がお世話になったそうで、ありがとうございます」
エイミは丁寧に頭を下げたが、『お世話になった』の中には、『よくも襲ったな』という意味も含まれているだろう。そのことにイザベルが気付かないよう祈りながら、努めて明るく言う。
「イザベルさん、改めて席を設けてくれて、本当にありがとうございます」
「いいのよ、あたしには得しかないもの。コミュニティに恩が売れて、高級なランチまでご馳走になれるんだからぁ」
語尾にハートマークのついていそうな物言いだった。
強かだな、と美也子は感心するが、魔女として長生きしているようだし、それも当然なのだろう。
「本当はあたしカニが食べたかったのよ。でもこの身体、甲殻類アレルギーなの。容姿は気に入っているんだけれど……」
「そ、そうですか」
苦笑するイザベルに、美也子も同様の笑みを返す。
身体を交換する、という感覚はよく分からないが、アレルギーも引き継いでしまうとは難儀なものだ。
「じゃ、案内するわ」
美也子とエイミは、魔女の背に続いた。
通された個室にはすでに二人の男女が座っていた。
若輩者の美也子にも分かるくらい、立派な和室。大きな窓の向こうに、狭いが美しく整えられた庭園が見える。
テーブルの下は掘りごたつになっており、足を伸ばせるな、と安堵する。
それから、不躾にならない程度に男女の容姿を観察する。
一番手前に座すのは二十代半ば程度の男性だった。黒髪だが彫りの深い顔立ちで、青い目をしている。
その横に背筋を伸ばして正座する和装の老婆が、恐らく『キヌヨさん』だろう。いかにもキヌヨという名の顔をしている。……偏見だが。
「こ、こんにちは……」
恐る恐る声を掛けながら座敷に上がると、男性が鋭い目で美也子を、次いでエイミを見る。
「そちらのかたは、魔法で素顔を隠しているようだが」
厳しい声に、美也子とエイミは固まった。
「そんなのいいじゃないの! あなただって、自分の素性を全部ぶちまけられないでしょう」
編み上げパンプスのひもをほどきながら、イザベルがフォローしてくれた。男性は納得いかない様子だったが、黙って正面を向いた。
「さ、美也子ちゃんは奥に座って」
肩を押され、最奥の上座へ誘導される。当然だが、上座は入り口から一番遠い。これは逃亡を阻む意図があるのでは、と勘繰ってしまう。
だが、わざわざ混み合う時間帯に人気の鰻料理屋を指定してきたということは、危害を加えないという意思表示だと思いたい。
遠慮なく上座に腰を下ろし、横におどおどしているエイミを座らせた。テーブルの下で、その手をしっかりと握ってやる。
もしこの場でエイミに危険が生じたら、美也子はためらうことなく、あの美しい魔王を召喚するだろう。
『キヌヨさん(仮)』が立ち上がり、美也子の真正面にやって来る。その横にイザベルが座った。
すぐに店員がやって来ておしぼりを配る。この多国籍の面子をみて、どんな関係だと思われていることやら。
「全員お揃いですか?」
店員の問いに、青年が『あと一人来ます』と囁いた。
「先に飲み物だけでも頼みましょう」
上品な声で老婆がそう言うと、イザベルと青年の顔が華やぐ。二人でお酒のメニューを眺め、わいわいと話をし始めた。
「アルコールはなしです」
老婆がぴしゃりというと、場が静まる。そして美也子に笑いかけた。
「主賓が未成年ですからね」
「あ、ご配慮すみません」
「オレンジジュースとコーラ、どちらがよろしい?」
――出た。子ども扱い。
「……オレンジジュースで」
老婆はにっこり笑って、オレンジジュースと烏龍茶を注文した。
店員が去ると沈黙が流れ、とても気まずい。
斜め向かいの席のイザベルを見ると、いやにニコニコしている。大魔導師の生まれ変わりを見つけて来たことで、鼻高々なのだろう。
老婆が深々と頭を下げた。
「この度は急なお招きにも関わらずお越し下さり、ありがとうございます」
あまりに丁寧かつ上品な物腰に居心地の悪さを感じ、美也子はこの場から逃亡したくなる。その衝動をこらえ、こちらも礼儀正しく応対した。
「えっと、こっちこそお話の機会を作ってもらって、本当にありがとうございます」
せっかくの掘りごたつだが、つい正座してしまっている。折を見て足を崩さないと、万が一の時に痺れて倒れる羽目になる。
老婆は穏やかな声音で続けた。
「わたくしは池尾絹代と申します。祖先はアスラ人ですが、混血が進み、もうほとんど日本人です」
「魔法は使えるのですか?」
「いえ、まったく。――ですが祖先はその力を使って、一財産を築きました。今は一族で不動産経営をしています」
「あ、そうですか……」
この魔法の存在しない世界で魔法が使えたら――ましてや数百年前に――さぞたんまりお金を稼げただろう、とやや下衆な思考を巡らせた。
はたと気付き、こちらも名乗る。
「あ、私は千歳美也子です」
「異世界の大魔導師にお会いできて光栄に存じます」
再度深々と頭を下げられたが、美也子は恐縮するしかない。
「イザベルさんには話しましたけど、私、魔力が高いだけで、記憶もありません」
「でも、魔女だもの、悪魔に任せておけば大丈夫よ」
朗らかにイザベルが口を挟む。
その横の男性は、好奇心を隠すことなく、値踏みするように美也子を見ている。イケメンだが、この無礼な視線は許しがたい。
じろじろ見てんじゃねーよ、と軽く睨んで抗議すると、男は口を開く。
「俺はキリ――じゃなくて、アレクシス・エンケだ。十年ほど前にアスラから逃げてきて、北欧のコミュニティに在籍している」
「北欧……」
テレビや雑誌でしか見たことのない国々に思いを馳せる。
「最大のアスラコミュニティがあるんだ。だからあんたには、日本じゃなくてこっちに来て欲しいんだが」
「えっ、イヤです」
思わず素直な気持ちが口から飛び出した。ヨーロッパに行くなど、異世界に行くのと寸分も違わないような気がする。
アレクシスが気色ばむが、イザベルが側頭部を軽く殴って落ち着かせ、絹代が話を交代した。
「それで、横の御仁は?」
エイミのことを聞かれてどきりとするが、落ち着いて答える。
「ネヴィラから私を探しに来てくれた子です。私の前世である大魔導師に仕えていて、今も引き続き私の側にいてくれてるんです」
その時、瓶に入った飲み物が運ばれてくる。
すかさずエイミが注ぎ、前方のイザベルとアレクシスは自分で勝手にグラスを満たした。ビールがよかった、いや日本酒が、などとぼやいている。
「喉が渇いたでしょう、先に飲みましょう」
「あとはどなたが来るのですか?」
エイミの横の空席を見ながら絹代に尋ねると、入り口のふすまを見遣る。
「そろそろ来るはずですが……。あなたもご存じのかたです」
「えっ」
驚いていると、店員の『失礼します』という声が響き、ふすまが開いた。
そこに立っていた金髪の女を見て、美也子は愕然と開口した。




