115.<番外編 美也子と櫻子> 握手
内心で敗者を貶めていると、櫻子がぼそりと言った。
「しかし、土壇場でカーネルが裏切るとはなぁ……」
「え、誰ですか?」
フライドチキンのおじさんを連想し、眉をひそめる。
「いや、海外にね、前世の記憶持ちたちが集まる秘密結社みたいなのがあるんだよ。そこのリーダー」
「へぇ……」
秘密結社とは、またマンガやドラマみたいな話だ。もうこういう話とは無縁に生きたいと思うのだが、きっとそうはいかないだろう。
「アスラ人が思いっきり圧力をかけて、投票から手を引かせたんだよ」
「へ、へぇ……」
美也子は引きつった笑みを浮かべた。いずれアスラ人のコミュニティに所属する美也子は、そのカーネルさんと間接的に縁ができてしまったのではないだろうか。
しばらく無言が続く。少し乾いてしまったショートケーキを口に運び、合間にコーヒーを飲んだ。
「いい面構えになったな」
不意に櫻子がそう言う。
え、とその顔を見ると、美也子に向かって目を細めていた。
「いや、最初に会った時から二年もたって、すっかり大人の女性になったな、と思ってね」
果たしてそうだろうか、と美也子は首を傾げた。
だがそう言われてみれば、美也子はいつの間にかブラックコーヒーが飲めるようになっていた。二年前櫻子と会った時は、甘いカフェラテを飲んでいたのに。
実感はなくとも、着実に大人になっているのか――。
いや、まだ祖父母には子ども扱いされるし、店員にはタメ口を利かれることが多いし、きれいめな服は似合わないし……。
「美也子ちゃん」
考えを巡らせていると、櫻子ががたりと音をさせて立ち上がる。いきなりのことに、美也子は目を見開いた。
「どんな方法にせよ、君は願いを叶えた。おめでとうと言わせてくれ」
右手を差し出され、美也子は戸惑った。
だが、それを無視する理由などない。
「ありがとうございます」
テーブル越しの握手。櫻子の手は、男性のもののように大きくて温かかった。
カフェ内で唐突に握手をし始めた女二人に、周りの客も店員も奇異な目を向けてきた。慌てて放そうとしたが、櫻子がそうさせてくれない。強く美也子の手を握ったまま、穏やかな視線を向けてきている。
確かにそこには憎しみはなかった。
願いを叶えた者への祝福と羨望。そして――一抹の寂寥。
「……私は元居た世界へ帰ろうと思うんだ」
美也子の手を放した櫻子は、席へと座り直しながら言った。
「え?」
「品評会が終わったから、神使も関門を通してくれるだろう。だから、前世の世界へ帰るよ」
「ど、どうしてですか? 日本での家族やお仕事は……」
櫻子は答えず、外の景色へ視線をやった。しばらくそのまま動かず、まるで現代の風景を目に焼き付けているようだった。
「迎えが来たんだよ」
ぽつりと漏らす。
「元の世界……エレグリットからね。君だって、そうだったんだろう?」
どきりとした。
美也子の元にエイミが来たように、櫻子の元にもまた縁ある人物が訪ねて来たということか。
「迷ったけれど、私の力が必要とされているのなら、そうしようと思った」
そこは美也子とは正反対だ。ネヴィラへの帰還を勧められても拒絶し、家族や友人、今の生活を選択した。それは記憶が一切なかったからだが、記憶があったとしても、結果は変わらなかっただろう。
櫻子は景色を見つめながら続ける。
「再来週の東京ドーム公演が終わって、親に顔を見せたらそのままオサラバする」
きっちりライブには参加するのか、と呆れたが、御両親の気持ちを想像すると切なくなる。娘が行方不明になるということだ、きっと死ぬまで苦しむだろう。だが美也子が口を挟んでよいことではない。
「櫻子さん」
声を掛けると、女はようやく美也子を見た。
「櫻子さんは、エレグリットが好きですか?」
「うん? まぁ、ことさら好きとかいうわけでもないけれど……。過ごしやすくていいところだよ。みんな親切だったし、帰ったら挨拶回りしなきゃな」
唐突な質問に戸惑いを見せていたが、櫻子ははっきりと答えてくれた。
――クリスデンとは何もかもが違う。
「やっぱりあなたと『私』は、ちぐはぐですね」
かつて言われたことをそのまま告げる。決して皮肉ではない。先ほど向けられた羨望と寂寥を、今度は美也子が櫻子へと返した。
櫻子は疑問符を浮かべているが、追及はしてこない。
「そろそろ行こうか」
腕時計を見ながら櫻子は言う。
「もちろん私のおごりだ」
「あ、すみません」
素早く伝票をさらってレジへ向かう女の背中を追った。
それからエレベーターで下層に戻る。他の客はおらず二人きりだが、もう身構える必要もないだろう。
耳鳴りを治すために唾を飲み込んでいると、櫻子が話し掛けて来た。
「君はネヴィラに帰る気はないんだろう」
「あ、はい。もちろんです」
それを為す理由など一切ない。とうに決めたことだ。
櫻子は白い歯を見せて笑った。
「受験、頑張れよ」
「はい」
エレベーターの速度が落ちる。もうすぐ一階に到着だ。
「若い君の未来が明るいものであるよう、陰ながら祈っているよ」
チン、と音が鳴る。
「はい、ありがとうございます」
扉が開き、喧噪が飛び込んでくる。
「じゃ、バイバイ」
「はい、櫻子さんもお元気で」
次があるかのような気軽さで手を掲げる櫻子に、美也子も穏やかな笑みを返す。
「うむ」
満足そうにそれだけ言うと、異世界の大魔導師は名古屋駅の人混みに紛れて消えて行った。
今度こそ――今度こそ二度と会うことはないのだろう。
「ただいまー」
帰宅すると、少し怖い顔をしたエイミが廊下に立っていた。我知らず何かやらかしてしまったのかと、心当たりを脳内で光速検索する。
冷や汗をかきながらふとエイミの手元を見ると、茶色い毛玉が握られていた。
「ご主人様ったら、耳長悪魔を忘れて行かれるなんてっ」
「あ」
通学用バッグに付けたまま忘れてしまっていた。
「何かあったらどうなさるのですか」
「ちょっとだけ身を守る魔法も教えてもらったから大丈夫だよ」
誤魔化し笑いしながら靴を脱ぐ。母の普段使い用のパンプスが消えているところを見ると、外出中のようだ。
廊下に上がってもエイミは近寄って来ない。耳長悪魔がいるからキスはなしか、と思いつつ顔色を窺うと、やはり妙に不機嫌だ。
――愛奈と二人で撮ったプリクラが見つかったか。
だっていきなりほっぺにチューしてくるんだもん……。と不可抗力である旨の言い訳を考えていると、エイミの手中の毛玉が笑い始めた。思わず眉をひそめてしまうほど凶悪な高笑いだ。
「お前も母親もいなくなったあと、この獣人が何をしようとしたか教えてやろうか!」
ひっ、と声を上げてエイミが毛玉を絞めつける。くぐもった声がした。
ウサギも負けじとエイミを噛み返したが、エイミはためらいもなくそれを壁に叩きつけた。
ちなみにこの光景は数度目で、耳長悪魔の頑丈さはよく分かっているから、エイミのサンドバッグとして放置している。
耳長悪魔がフローリングの上で伸びたところを見計らい、エイミに背後から抱き付いた。衣服越しに体臭を吸い込む。
「リビング行こ」
「そうですね」
エイミの声は晴れやかだった。ストレス発散をしてすっきりしたらしい。耳長悪魔はまことに素晴らしいスケープゴート、いや、スケープラビットだ。
ほんの短い距離ではあるが、二人で寄り添って廊下を歩いた。
お母さんがいないのなら、ちょっとだけ過激なことをしてもいいよね、と思いながら。
次の投稿で最終話となります。




