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113.<番外編 愛奈と真由香> 忘れたに決まってるでしょ

 まさに『ブチ切れ状態』の真由香だった、みるみるうちに鬼の顔が解除されていく。


 愛奈が今にも泣きそうな表情をしていたからだろう。


 目を潤ませる愛奈に対し、真由香は深い労わりの感情を見せた。すでに殴られた痛みも怒りも忘れてしまったかのように。


「ちょっと、どうしたのよ」


 真由香はとても優しい子なのだと愛奈は気付いていた。それは美也子と共通していて、実年齢には大差のある二人が仲良くできている理由がよく分かる。


「何で真由香ちゃんは、美也子を魔女にしちゃったの?」


 鼻声でそう尋ねると、真由香は眉を八の字にして困惑を見せた。


「廊下の真ん中でする話じゃないでしょ。ちょっとこっち来なさいよ」

「……うん」


 渡り廊下のほうへと導かれ、愛奈は大人しく従う。

 今日は真由香の優しさに甘えることにしよう。


 通行の邪魔にならないよう通路の端に寄ると、真由香は会話が辺りに漏れないように魔法をかけてくれた。それから、いささか後ろめたそうに答える。


「だって、美也子を守るには魔女にするのが手っ取り早いって思ったんだもの」

「それだけ?」

「そ、そりゃあ、同胞になってくれたら嬉しいって気持ちもあったわよ。でも無理強いしてないし、最終的な決断を下したのは美也子だもの……!」


 真由香の語勢が強まる。


「美也子が魔女になったからって、あんたに何か不都合があるわけ!?」


 ――あるよ。

 愛奈はその言葉を飲み込む。


 魔女になってしまったせいで、美也子にはちょっかいをかけることができなくなってしまった。主命(しゅめい)を受けた耳長悪魔が、ずっと側で守っているのだから。

 その恨みつらみをぶつけるついでに、気になっていたことを尋ねる。


「ねぇ、真由香ちゃんは知りたくないの? 普段、美也子がエイミちゃんとどんなことをしているか」

「……どんなこと、って」


 頬を赤らめ、真由香は動揺を見せた。そこにさらに切り込む。


「気にならないの?」


 気になってしまえばいい、気になって眠れなくなればいい。

 その言葉は真由香への呪詛だ。もちろん魔力など宿らない、ただの日本語に過ぎない。それでも深く真由香の心を惑わせる『呪い』となるだろう。


 真っ直ぐ目を見つめると真由香は視線をさ迷わせたが、やがてきりりと眉を吊り上げた。


「そんなの気にしてどうしろっていうのよ!」


 肩を震わせ、ヒステリックに叫ぶ。


「その気になれば、私の耳長悪魔にスパイみたいな真似をさせることだってできる! でもそんなの下衆の所業だわ! そんなことをする人間には、美也子に笑いかけてもらう資格なんてない!」


 ――美也子に笑いかけてもらう資格なんてない。

 その言葉は愛奈の胸に突き刺さった。


 好きな子の記憶を覗いて、その秘事を暴こうとするなんて、真由香の言う通り下衆の所業だ。たとえそれが魔精という生き物の本能だとしても。


 愛奈の瞳から、大粒の涙がこぼれた。カーディガンの袖――いわゆる『萌え袖』にしている――で目元をぬぐうと、真由香は目を見開いて自分のカバンを漁り出した。


「そんなとこで拭いたら汚いでしょ! 何でティッシュの一つも持ってないのよ!」

「……この前、ジュースこぼしたときに全部使っちゃって、忘れてた」


 鼻をすすっていると、眼前にポケットティッシュを突きつけられた。可愛い花柄のケースに入っている。


「真由香ちゃんは強いね。……前世からずっと美也子を見ていただけある」

「嫌味か!」


 真由香の怒声がまるでコントのツッコミのようで、泣きながらも少し笑ってしまった。


「何笑ってるのよ!」


 と、肩を殴られる。いささかひどい仕打ちではあるが、この応酬は二人にとってすっかり慣れたものになってしまった。

 しばらくは愛奈が鼻をすする音だけ響いていたが、不意に真由香が言葉を漏らした。


「……とうに諦めていたものが、たくさん手に入ったのよ」


 真由香は目を伏せ、胸の前で指を組んだ。


「手の届く距離に住んで、同じ学校に通って。手を握って『ありがとう』って言ってもらえた。いろいろと頼ってもらえて、あげく魔女仲間にまでなれた。こんな夢みたいなこと、もうこれ以上望めないわ」

「現状維持でいいってこと?」


 愛奈の問いに、真由香は答えなかった。

 ただ、指で目尻をぬぐっただけ。


 しばらく互いに無言で立ち尽くしていると、悄然としていた真由香の顔が驚愕へと変わった。

 その視線を追って振り向くと、そこには息を切らせた美也子が困惑顔で立っていた。

 とても彼女には聞かせられない話をしているというのに、このタイミングでやって来てしまうとは。


「あの、おはよう……」


 美也子は気まずそうに口を開く。


「教室に行ったら、みんなに言われたの。一階の廊下で愛奈が他のクラスの子と揉めてるから見てきてって」


 学校ではちょっとした有名人の愛奈があれだけ騒ぎ立てていれば、皆に知れ渡るのは当然だった。――実際大声を上げていたのは真由香だが。


「どうしたの、ケンカ……?」


 互いの手に握られたティッシュを見た美也子は、悲哀を顔に浮かべた。それが涙を拭うために使用されたのだと悟ったのだ。


 心配させてしまった、何て説明しよう、と愛奈は眉を歪めた。だがこの場を収めるいい言葉など思い付かない。


「あの、私にできることある? 邪魔なら教室戻るけど……」


 おずおずとした美也子の申し出に、うつむいた真由香がくすりと笑った。


 ――なぜ笑ったのだろう。

 愛奈は思わず真由香を見遣った。

 だが長身の愛奈には、小柄な真由香の表情を視認することができない。


 ふと脳裏によぎったのは、真由香による『告発』だ。

 背後からカバンで殴ったこと、美也子とエイミの仲を気にしていること、それを真由香にも伝播させようとしたことなどをバラそうとしているのかもしれない。


 いや、それよりも、まだ美也子が気付かぬ愛奈の秘密を――魔精がこの世界ではサキュバスと呼ばれる淫奔な存在だということを、この機にぶちまける気なのかもしれない。


 それらの罪状を告げ口する嗜虐的な喜びに、笑みをこぼしたのだろうか。


 愛奈は絶望に瞼を閉じたが――すぐに見開くことになった。


「ひ・み・つ・よ!」


 真由香が放った言葉に、美也子だけでなく愛奈も目をぱちくりさせる。

 棒立ちになっていると、満面の笑みを浮かべた真由香が脇腹のあたりをつついてきた。肘を使ったその仕草は、まるで親しい友人に対するもののようだった。


「私たち二人だけの秘密。ねぇ、ビッ――じゃなくて()()


 初めて名前で呼ばれたことに唖然としてしまう。名前の前に何か別の言葉を言いかけたような気がするが、よく聞こえなかった。


 平生とは明らかに異なる真由香の様子に、美也子もまた困惑をあらわにしていた。


「えっ、でも真由香ちゃ――」

「美也子には内緒の話なの! じゃ、教室行きましょ!」


 真由香は美也子の台詞を遮ると、愛奈の手を取って笑顔のまま駆け出した。愛奈もただ足を動かす。


 愛奈からこうしたことはあっても、真由香から暴力以外の接触を受けたことがあっただろうか。


 ――いや、ない。


 積年の友のように手を取り合って廊下を走り、曲がり角でぴたりと止まる。

 背後から美也子が追ってきていないことを確認すると、途端に真由香は愛奈の手を離す。まるで汚物を放り投げるような乱暴さだった。


「汚ったな! 手ぇ洗ってくるわ!」


 そして悪臭でも嗅いだかのように鼻にしわを寄せ、口元を押さえる。


「ああ、名前まで呼んじゃった、舌が腐る。うがいもしてこよう!」


 あんまりな物言いに、傷付かなかったと言えば嘘になるが――実に真由香らしい。


 口から出る言葉は汚い罵倒ばかりだが、その瞳の中は美しく澄んでいた。真由香の心を映すように。

 

 愛奈の嫉妬心やその本性を美也子へ暴露してしまえばよかっただろうに。

 美也子が愛奈を厭うようになれば、学校内では真由香は美也子を独占できる。


 それなのに、ただ気遣ってくれた。涙を流していた愛奈の事情を聞くことさえなく。美也子の追及から逃れるために、仲良しの演技までして。

 優しい心の持ち主だとは分かっていたが、愛奈の想像をはるかに超える厚情を胸に秘めた子だった。


「じゃ、そういうことで」


 つんと澄ました顔をして、真由香はすたすたと階段を登って行く。


「真由香ちゃ~ん」


 その小さな背中に呼び掛けると、首を動かし一瞥をくれたが、すぐに正面を向かれてしまった。


「気を遣ってくれてありがと~」


 返答はない。だが、その背が『気にするな』と語っているような気がした。

 感極まり、つい言ってしまう。


「好き!」

「死ね!」


 すかさず返ってきた真由香の罵声も、今の愛奈には『ありがとう』に聞こえた。


 愛奈の胸の中のもやもやは、すっかり晴れていた。

 それは他人の優しさに触れたからだ。

 これで、背後から追いかけてきているであろう美也子に、何食わぬ顔で『何でもな~い』と言うことができる。


 いつか真由香とはもっと仲良くなって、心から笑い合える日が来るといいなと思った。

サブタイ元ネタは前話含め、ポケモンOPソング「ライバル!」より。

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