112.<番外編 愛奈と真由香> ねぇ、あの時のこと覚えてる?
愛奈視点の話になります。
それは、高校二年生の秋のことだった。
愛奈は、自宅に泊まりに来た美也子に手を出そうと試みた。
高校一年生の夏と同じように、お喋りして夕食を食べ、一緒にお風呂に入った。
だがその時と大きく異なっていたのは、美也子の身体だった。まろみを帯びていたそのウエストが女性らしく引き締まり、手足もすらりと伸びている。
じっと胸を見つめれば、大きさこそかつてと大差はないが、その中央に座す蕾が膨らみ、桜色というにはあまりにくすんできていた。
アンダーヘアの手入れをすることも覚えたようだ。
すべて愛奈が通ってきた変化だ。
学校で共に過ごす時の雰囲気も態度も何も変わりがないのに、まとう衣服を取り去れば、途端に大人の女性が現われた。
そうなればもう捨て置くことができなかった。
契約した悪魔とはどのような関係を築いているのか、真由香との関係は相変わらず友達どまりか。
何より――エイミとの関係はどうなっているのか。
安心しきって眠る美也子の記憶を覗いて、すべてを確かめたかった。そしてその身も心も大人になっているのなら、少しくらい愛奈がちょっかいを掛けたって――淫らな夢を見せたっていいはずだ。
目が覚めた時にはすべて忘れさせることだってできる。……そうしないことだってできる。
夢の中の出来事だとしても、心の深奥に刻み込ませることができる。今や、魔精だった頃の能力の大半が戻ってきているのだから。
隣で眠る美也子の夢に潜ろうとした時、何か重いものが音もなく愛奈の上に覆い被さった。
「殺すぞ、魔精のクソアマ」
暗闇の中、『襲撃者』が毛むくじゃらの顔をぐっと近付けてきていた。熱い吐息がかかり、愛奈は目を見開いたまま唾を飲み込んだ。
すっかり忘れていた、美也子のバッグに耳長悪魔がついていることを。
平生はどこからどうみてもウサギにしか見えない生物に擬態しているが、ひとたび本性を現せば、それは猫科の猛獣に酷似していた。
耳はウサギのように長いままだが、肉食獣そのものの牙が生え、手足もすらりと伸びてしなやかな体躯をさらしている。
手のひらサイズだった毛玉が今やチーター程度の大きさになり、愛奈の喉笛に爪を突きつけてきていた。
愛奈が術をかけて深く眠らせたため、すぐ隣で寝息を立てている美也子は騒ぎに気付くことはない。それは愛奈を窮地に陥らせる結果となった。
「魔精風情が、偉大なる白の君の契約者に手出ししようとするとは万死に値する」
耳長悪魔は、低い声で呻った。闇の中で黄金色に輝くけだものの目を見つめながら、愛奈は強烈な嫌悪にわなないた。
悪魔と魔精は仲が悪い。
それは、『獲物』が被るからである。
どちらも人族の肉体と精神を糧とする生き物。
悪魔は、心身ともに清らかな女性を好んで魔女にする。そんな女性を片っ端からつまみ食いして汚して回るのが、魔精の生き方だ。
ただ、魔精に関しては男性も守備範囲だし、愛奈のように特定の人物に傾倒するのも珍しいことではない。
古来、神との盟約に縛られる悪魔からしてみれば、自由奔放な魔精は目の上の瘤なのだろう。ゆえに憎まれ、出会えば争いになることもしばしばだった。
そして、魔精のほうが戦闘能力では劣る。大怪我を負わされた同胞を幾人も見てきた。
魔女単体に対してはわだかまりはないのだが、魔精にとって悪魔はひたすら憎らしい存在だ。
それは本能的な恐怖と嫌悪からくるものなのだが、今こうして直接関わり合いになるとより一層それが引き立てられる。
いかに耳長悪魔が末端の存在であろうと、愛奈に人外の力があったとしても、か弱い人間の肉体ではなおさら渡り合うことができない。
美也子が魔女である以上はもう手を出すことができないのかと、悔しさで涙があふれる。
チャンスは何度もあったのに、人間として生きていくべきだという義務感、現状維持でもいいかという気の迷い、精神年齢の幼い美也子への遠慮などから、今までそれを為すことができなかった。
その結果がこれだ。
涙を見せた愛奈に、耳長悪魔は喉の奥を鳴らした。
――嗤ったのだ。
「お前はこの小娘を好いているんだな」
美也子を一瞥し、口元を歪めて牙だけでなく歯茎まで見せた。
「俺は知っているぞ、この娘が獣人女と何をしているのか」
獣人女――エイミちゃんのことか、と愛奈は息を詰める。
「教えてやろうか、お前の好いたこの娘が、お前の前では純真を気取るこの娘が、母親の不在をいいことに普段どんなことをしているのか」
耳長悪魔は、まさに悪魔の面目躍如とばかりに残酷な言葉で愛奈をなぶった。
――親のいない時に何を……。
愛奈の脳裏に、己の体験を基にした生々しい妄想が駆け巡る。
決して後悔するようなことはしていないが、それを美也子に置き換えてみれば、あまりにおぞましかった。
――イヤだ、知りたくない!
何かが弾けるような音と共に、耳長悪魔が愛奈の上から吹き飛んだ。魔力をぶつけて攻撃してやったのだ。
だが一瞬でその姿が視認できなくなる。
消えた、そんな能力があっただろうか、と警戒しながら上体を起こすと、カーペットの上に手のひらサイズの毛玉が転がっていた。
とっさに変化して、機動性を高めたようだ。ノミのようにジャンプして、熟睡する美也子の身体の下に潜り込む。
こうなっては手が出し難い。
唇を噛んでいると、美也子の腰のあたりから悪魔の嘲弄が聞こえた。
「バーカ、何を卑猥な想像してんだよ! 母親がいないときは料理や掃除して一緒にテレビ見てるぜ!」
そして、『ギャギャギャギャ!』と、南国の鳥が鳴くようなけたたましい笑い声を発する。
すさまじく不愉快、そして不快だ。
愛奈は筆舌に尽くしがたい悔しさに『ううっ』と呻ってからベッドにくずおれた。
喉から絶叫が飛び出しそうだったため、そのまま己に術を掛けて、強制的に入眠する。
翌日、何事もなかったかのように振る舞って美也子を送り出した。
もちろんあの子は愛奈の様子がおかしいことに気付いてくれた。それは嬉しかったが、理由を仔細に話すことなどできない。
ただ、生理が始まってお腹が痛い、と言えば納得してくれた。本当は生理痛なんて経験したことはないが、まったく便利な言い訳だ。
……実際苦しんでいる人たちには申し訳がないが。
部屋に戻ると、カーペット及びシーツの上に白いものが点々と付着していることに気が付いた。
耳長悪魔の血液だ。どうやら愛奈の攻撃で一泡吹かせることはできたらしい。
それでもその染みがあまりに汚らわしく、父にこれでもかと甘えて新調させた。
翌月曜日の朝になっても気分は晴れず、悄然と登校した。
下足箱で上履きに替え、教室への道のりを力なく歩いていると、前方に真由香を見つけた。
美也子は一緒ではないのか、と悟った時、こらえ切れない衝動が湧き上がり、思わず走り寄っていた。
「真由香ちゃんのバカ!」
真由香の後頭部に通学用バッグをぶつける。柔らかい側面部分が当たるように配慮をする理性は残っていた。
倒れ伏すようなことはなかったが、真由香は前のめりになって数秒程動かなかった。
顔を上げて振り向いた時には、すっかり悪鬼羅刹の形相になっていた。素早く伸びてきた手が愛奈の胸倉を強くつかむ。
「てめぇ死に急ぎたいならそう言えよクソビッチ!」
彼女と知り合ってから最も激しい怒りを買ってしまったことは間違いない。校内だというのにキャラが崩壊してしまっている。
周囲の生徒がこちらを気にしながら通り過ぎていくが、取り繕う余裕さえないようだ。




