37、バックステージ
…………………………
「大変だー!」
勢いよく戸が開いて、それが壁にぶち当たったような派手な音がしたかと思うと、絶叫に近いボンの声が降りかかってきた。
もう起きようかと夢うつつをさ迷っていたのに、強制的に叩き起こされた。
「起きろーってば!」
そう言いながらも、同時にボンの手は俺の毛布を引き剥がしていた。寒い。
「うるさい、何だ。寒い」
「寒いくらい、イイじゃんか!なァ!大変なんだヨ、エアリアルが!」
叩き起こされてすぐに言われても、状況がいまいち分からなかったが、大変だというのだけは伝わってきた。しかも、アルだと?この慌てようは、どういうことだ。普段から慌てたヤツだが、それを差し引いても、だ。
俺は仕方なく体を起こし、寝床にしていたソファの上に座り直した。
「あのな、そこの広場にな、御触書が出てて、明日の正午、反逆者のティティスの王女を処刑するって書いてあったぜ!?」
ボンは息を詰まらせながら言った。
「何だと」
寝ぼけた頭を働かせ、直前の耳の記憶をたどる。……処刑?
「なァ!どうすんだよ!放っておくのかヨ!なァー!」
ボンは眉を上げて俺の顔を覗き込む。その手は俺の両肩をつかんで、馬鹿力で力の限り揺すってくる。起きるや否や、この仕打ち。頭痛がする。
アルは、一体、何をしたんだ?それとも、後れて今ごろ処刑されるのか?いや、あんなにも幸せそうに過ごしていたんだ。あの後、何かやったに違いない。
「なァ!それでもキミは今日、ヴァーバルに帰っっちまうのかヨ!」
肩を掴む手は放してくれたものの、ボンは持ち前の大声で捲し立ててくる。
「今度こそ、何が何でも助けなきゃなんないよ!なァ!どーすんだよ!聞いてんのかヨ!」
「…少し黙ってろ」
俺が吐き捨てるように言うと、やっとボンは口をつぐんだ。
アル同等か、それ以上に口やかましい奴だ。こう喋り詰めだと、考えたくても、それが妨げになるということに気づかないんだろうか?
明日、処刑されるならば時間はない。明日までに救い出すしかないことは考えるまでもない。だが、その方法が問題だ。
アルの目の前まで行っていた。だが、どうすることもできなかった。再び城へ潜入してみたところで、そんなに短時間で罪人の居場所を探り、連れ出すことなど不可能に思えた。
「一つだけ方法があるぜ。難しい役だけど、キミなら出来る。一瞬に賭けようぜ」
ボンは俺の目を見据え、さっきとは打って変わって静かに言った。
…………
その部屋に鍵はかかっていなかった。手応えなく戸は開いた。
見通しの良い廊下の左右を見遣り、灯りを手に部屋へと入る。泥棒の気分だった。いや、やろうとしていることは泥棒と同じだったが。
まだ夕暮れ時だったが、探し物をするには暗い。
戸を静かに閉め、燭台に手燭の灯を移す。
物置のような部屋だ。ボンに無断で衣裳部屋から拝借したい物があった。最近、舞台で使用していたオデツィアの騎士の正装だ。
まだ内容は聞いていないが、ボンの考えは何となく想像がつく。だが、その明日までの時間がもどかしい。この夕暮れ時を待つのでさえ、時間の過ぎるのが恐ろしく遅く思えた。
何を察してか、さっきまでボンに監視まがいのことをされていて自由に行動ができなかった。先刻、やっとボンが何かの用で出て行って、自由を得たところだ。
ボンに言えば無謀だと言われて止められるようなことをしようとしていた。しかし、一長一短、俺とボンと、どちらの策が良いとも言い難い。
あった。目立つ壁にかかっていた。劇中の物とは言え、誇張はせず実物に近く作られている衣裳だ。要所々々に金糸で細かく蔦だか何だかの文様が入った詰襟の黒い軍服。それを身に着ける。ボンのサイズで、少し袖や丈が短いような気がするが、文句をつけられる身分でもない。
舞台用の模造刀ではなく、自前の真剣を佩く。
壁にある大きな姿見が視界に入った。鏡を見るのは久しいような気がする。手ぐしで前髪を上げてみる。薄暗い鏡の中から親父が俺を見ていた。
気休めにオデツィアの烏にでもなりすまそうと目算していたが、自分でも厭になる程、在りし日の親父のほうに似ていた。
月夜の河原で刃を交えた親父に、時を越えて今、対峙していた。
親父は公用とばかり言い、家庭をかえりみず、母さんの死に目にもあわなかった。
俺は親父のことを家族を何とも思わない冷血な父と憎み、逆らい続けた。
だが、最近、じっちゃんから聞かされた。母さんの死に際に、その傍らにいなかったのは、より良い薬を、優れた薬師を探しに出ていたと。
親父は本心を示すのを恥じた。本当は家族を何よりも大切に思っていた。妻を思い遣ることも素直に表すことができなかった。その本心は忠義よりも…。
形見のサーベルを抜く。あまり抜くこともないから錆びていやしないかとも思ったが、そうでもないようだ。片刃の刀身は静かな殺気を宿している。
たとえ無駄死にするようなことになっても誰を恨むでもない。自分の力が及ばなかっただけのことだ。
その無謀さを馬鹿だと嗤われてもイイ。だが、何も行動せずに逃げるのは悔いが残る。
保身をはかるのは、たやすい。誇りを失うことのほうが耐え難い。
命は惜しくない。
金属製の強固な鞘に納める。カチリと小気味よい感触が掌に伝わる。
燭台の灯をすべて消す。
衣裳部屋を出ると、夕日が深く射し込む廊下に人影があった。両手を腰にやったボンが立ち、拗ねたような、怒ったような表情で俺を見ていた。用事で出ていたんじゃなかったのか?
「ったく、キミは油断も隙もないんだから!」
俺はボンを一瞥し、黙って廊下を歩き始めた。
ボンの横を素通りしようとした時、いきなり羽交い絞めにされた。
「やめろヨ、その衣裳、高いんだからサ!汚されちゃあ困るんだ」
何だ、衣裳の心配か。
「離せ。鬱陶しい」
「イヤだ!キミの考えてることくらい分かってるからな!やめなよ、危険すぎるヨ!頼むから、オレの言う通りにしてくれよ…頼むからサ、キミにまで死なれちゃあ、オレは…」
背中にしがみ付き、最後のほうはほとんど涙声で訴える。その感情のこもった声に、決心が揺らぎそうになる。
「お前の策は、そんなに自信があるのか」
固くすがりつく手を強引に引き剥がし、振り返って問うと、ボンは顔をクシャクシャにして泣き顔のような笑顔を見せる。
「キミのが強盗に入る策だとすれば、オレが考えてるのは引ったくりってとこだナ。危険度は低いゼ?…なァ?思い直してくれるのか?」
いささか喩えが悪いが、ボンの目に曇りは見られない。この期に及んで俺を利用して楽しもうというわけでもなさそうだ。親身でいてくれているように思える。
俺が勝手に無茶をしようとしていたのか。思い遣ってくれているボンに、柄にもなく悪くさえ思えてきた。
「わかった」
俺が承諾すると、ボンは白い歯を見せて、何度もうなずく。
「そうこなくっちゃ!オレに任しゃあ大団円だゼ?さァ、姫君が貴方様をお待ちかねだ」
ボンは右手を自分の胸に当て、恭しく、芝居がかった礼をよこした。
.




