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36、恍惚と憎悪と

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 錐で眉間を突き刺されたみたいに、すごく頭の中心が痛い。夢を見てるみたいに記憶の間を行ったり来たりして眩暈がする。


 皇帝は俺をながめて、「その姿、気に入らぬな」と言うた。それから、そばにいる老人のほうに無言で手ェを伸ばした。当たり前のように老人は皇帝に小さいナイフを手渡してるのが見えた。

 俺はベッドに手をついて背中を向けるようにされた。すごく後ろを振り返りたい。でも怖くて、手に触れた布を握りしめて目ェをつぶる。


 皇帝の手が背中に触れる。かと思うと、右肩の下に焼け付くような感覚。それは、身をよじりたくなるような痛み。でもそれを通り越して、全身が震え出すほど気持ち良くて、鼻にかかった呻き声が出てしまう。俺の感覚は確実に壊れていってる。


 皇帝に背後から抱き留められて、背中のその部分を温かい何かがなぞる。

 頭は、ますます混乱する。なに、俺は何をされてる?

 状況が理解できない。理解したくない。

 俺の刺青を切りつけて血を舐めてる…?


 皇帝の手ェが俺の腰に回されて、強い力で抱き寄せられた。酔いそうになるぐらい甘い香りがする。胃が裏返って口から出そうになる。けど、好きな匂い。

 その手が俺の顎の下に差し入れられ、顔を上げさせられた。ほとんど真上を向くことになる。皇帝は唇に付いた俺の血を妖艶に舐めている。いやらしくて、すごく美しい…と一瞬、他人事みたいに思う。

 そのまま俺の唇を食べるかのように迫られる。



 いやっ、と俺の(のど)から小さい声が出てた。顔を背けて唇を(かわ)した。

 反射的に皇帝の胸を両手で突き放して、その腕からのがれる。



「ティティスの王女よ。そなたの命脈は余の手中にある。もはや拒む必要はない」

 その声は、俺の心を優しく抉じ開けて侵入してくる。拒めない。この人の存在の何もかもが心地いい。その拒む理由が、あいまいに塗り替えられてく。

 

「い…いえ、俺は…そんな……」

 なんか、自分の物と違うみたいに、舌が重い。別の生き物みたいに、のたのたと口の中で動くばかり。


 皇帝の目を見据えて首を横に振る。イヤや。好きでもない男に体を許すことなんか、絶対にできひん。奪われたくない。でも、その理由が思い出せない。なんで、こんなに拒む必要があるの?ぜんぶ捧げて愛するんやなかった?



 いきなり両手首を片手でまとめて掴まれて、そのまんま押された。後ずさった時に膝裏をベッドにすくわれて、俺はベッドに押し倒された。


「やっ…離してください」


 どうする?俺は、どうしたいんやろ。拒む?受け入れたい?流されたほうが、ラクになれるで?…誰?俺に指図するんは?


 背中には、ひんやりとまとわりつく感触。艶やかな金糸で織られた布に血がねっとり貼りついて冷えてく。刺青に傷が残るかな。めちゃくちゃ痛い思いをして(えが)いてもらった俺の大事な呪縛。



 顔を横に向けたら、向こうのほうに人が見えた。こんなに見てる人があるのに、誰も助けてくれへん。当たり前のことやけど…自分は一人きり。ここには味方になってくれる人は誰もおらんのや。俺はこのまま、慰み者になるだけなんや。ここにいる(みな)に、それを望まれてる。



 今まで、どこか他人事(ひとごと)みたいに、なんとかなるんとちゃうかなと思ってた。もしかしたら無事帰れるんちゃうか、と。…甘かった。


 いつの間にか涙が溢れていた。


 それは何のため?

 恐怖?

 不安?

 自分への憐れみ?



 覆い被さられる。俺は怖さと力の差で動けんと、顔を背けて、ぎゅっと目を閉じた。されるがままになる。もう後戻りは出来ない。


 首筋に唇を這わされて、その(たなごころ)に玩ばれている間は、布に擦れて開いた傷口の痛みを忘れかけてた。

 押さえつけられ、全身を舐められ、咬まれ、乱暴にされればされるほど、自分が自分でなくなってしまうぐらいの快楽の波が押し寄せてくる。


 優しさの欠片もなく傲慢に与えられる痛みと苦痛とが、うらはらに体の芯を甘く痺れさせる。固く目を閉じてると逆に体の感覚が研ぎ澄まされてしまう。


 ひたすら、敷布を握り締めて痛みと快感に耐える。

 自分の物とは思えん、いやらしく上ずった声が、押し殺しても咽の奥から漏れ出る。その自分の声に、さらに感じてしもて、体の中心が、じわっと熱く湿り気を帯びるのんが分かる。


 ああ……気持ちイイ。こんなに憎い男やのに…なんで…。

 与えられる苦痛に下腹部の奥底がキュッとして、たまらなく甘美に疼く。もどかしくてツラい。

 たとえ初めてを奪われたとしても、その先のまだ知らない悦びが欲しい。もっと感じたい…このまま堕ちようか…体が求めるまま堕ちてしまいたい…。




 ……でも……違う!俺は、この人を愛していない!心を許していない人に体を許してはいけない、その手に堕ちてはいけない!


 霧が晴れるみたいに頭の中が透き通り、何かが『抗え』と命じてきた。



 「イヤ……」と思ったのか言ったのか自分では思い出せないけど、俺は反射的にバナロスを蹴り上げていた。しまった、という後悔だったのか何だったのか分からない。けど、目の前の真実は、バナロスがベッドから後ろへ落ちているということ。



 自分のしたことの状況が飲み込めんと、半ば放心状態でそれを見てた。バナロスは敷布を掴み片手で自分の顔を押さえている。足に残る感触が消えない。

 付き人の何人かが駆け寄って来たけど、なぜか少し離れた所で立ち止まっていた。


 その意味はすぐに分かった。分かると同時に、血のざわめきが背中の真ん中から始まって、ぞわぞわと指先まで伝わっていく。



「……おのれ……」

 低く静かな声やけど、その威圧的な空気が誰も寄せ付けんかったんやと、再度確認することになる。



 バナロスは冷ややかな表情で周りの人に軽く目配せをし、去って行くのが見えた。




 ガクガク震えて力が抜ける。なのに頭は冴えてて『終わった』『死んだ』と、さらりと思ってる自分がおる。それがなんかおかしくて、妙に笑いが込み上げてくる。



 何人かの人が駆け寄ってきて、俺を掴んで床にひざまずかせる。もがいても、まったく動くことができんかった。熱された鉄の棒みたいなんを持ってくるのが見えた。

 それを躊躇いもなく背中に押し付けられる。あまりにも信じられないことで、声を上げるのも忘れてた。


 それは、背中に、胸に…。でも、不思議と痛くも熱くも何ともない。現実味がないから?夢を見てるのかな?よくある悪い夢。夢なら早く覚めてくれたらイイのにな、と、何となく思ってた。



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