1、序章~嵐の予兆【挿絵】
『哀切の月』
私は、どうかしてしまっていた。取り返しのつかない過ちを犯していた。
想ってはならない人を想い、結果、こうして何が大事であるかを見失ってしまっていた。
長く貫いてきた信念と、あのかたへの想いを天秤にかけた時、私の信念は失墜してしまいそうであった。それだけ、あのかたは私を狂わせた。
私だけでなく、あのかたも命を賭して愛してくれていることは痛いほど感じていた。これは私のうぬぼれでは決してないであろう。
告ぐ。護るべきものは何であるか、お前も心して考えよ。
………………
話し声もかき消されるほどの風雨の音が聞こえてきた。風だけでなく、雨が降ってきたようだ。
このところ、やけに嵐が多く、外出が億劫で、イイ加減うんざりしていた。それに毎日、ものすごく寒い。
「おっと、洗濯物を取り込まねぇと。ちょいとお前さん、店番は頼んだぞ」
じっちゃんは、そう言って裏口のほうへと駆け出した。
何もこんな天候の日に洗濯しなくたってイイだろ。
じっちゃんは家事に関しては、とんでもないことをする時がある。炭化したメシの味を思い出した。
すぐに戻ってくるだろうと、表の入り口の近くで突っ立っていると、「ごめんください」と言う声と同時に戸が開いた。ひょろりとした気弱そうな若い男が顔をのぞかせた。
「口利き屋は、こちらでしょうか…?」
男は聞き取れないほどの小さな声でモゴモゴと言った。どうやら客らしい。背負った大きな荷物、旅の格好をしていて、よそから来たヤツのようだった。
「そうだ」
俺と目が合うと、男は少しおびえた顔をした。にらんだつもりはないのだが。
「いらっしゃい。何のご用で?」
ちょうど、前掛けで手をふきながらじっちゃんが奥から出たきた。男はホッとした表情になった。
「これをゲンブルンのクラまでお願いします」
男はふところから、手の平ほどの大きさの黒っぽい革でできた筒状の物を取り出した。とても大切そうにカウンターへ置いた。
じっちゃんは品に一礼し、筒を丁重に扱う。
「どちらからいらしたんです?」
「クラです」
「へぇ、クラですか。え~と、これは書簡ですね」
「はい。クラで油商をしているシオという老人…私の祖父なのですが、私に急用ができて帰れなくなったので、届けていただきたいのですが…」
男が言うと、じっちゃんは吊るしてある帳簿を手にし、料金などの説明を始めた。
「あの~、何なんですが…そちら様は、あなたの息子さんですか?」
男はモジモジと女々しくためらいながら、俺のほうを指して言った。
「えっ?息子?私のですか?いや~、私そんなに若く見えます?コレは孫ですよ、孫」
じっちゃんは、まんざらでもない様子で照れ笑いを返した。普段から若作りで、若いと言われるのが一番の褒め言葉だ。実際、七十には見えない。
「この仕事、あなた様にやっていただけませんでしょうか?」
男は俺のほうを向き、頼み込むような顔をする。青白い、何とも言えない薄気味悪い顔だ。
「コレでよろしければ、どうぞどうぞ」
じっちゃんはニコニコする。ムダに機嫌がイイ。
まあ、実際に動くウチの働き手は、今ほとんど出払っているし、どちらにせよ今回は俺に回ってくるところだ。
そういや、あのうるさいヤツに声をかけておかなけりゃ、あとで恨みつらみを言われかねない。
新章が始まります。
この章では、彼らにしてみれば人生がひっくり返るほどの激動が起こるでしょう。




