第8話
【大陸暦一二二五年十月上旬】
父からの協力を取り付けてから、一週間ほどが過ぎた。
秋がいっそう深まり、王都の街路樹も鮮やかな朱や金へと色づき始めている。今宵は王宮主催の社交パーティーが開催される。私は王太子殿下の婚約者として、当然出席しなければならなかった。
屋敷の自室では、マリアが私の髪を整えてくれている。鏡に映る自分を見つめながら、私は心の中で静かに深呼吸を繰り返した。
「お嬢様、今夜のドレスもお似合いでございます」
「ありがとう、マリア」
鏡越しに微笑みを返したが、胸の鼓動は早まるばかりだった。なぜなら――。
『リリィ、聞いて』
頭の中に、アナの声が響いた。
『今夜、フェリックスが王太子のワインに下剤を入れるわ』
「――!」
思わず身体が硬直する。背筋に冷たいものが走った。マリアが不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「お嬢様? どうかなさいましたか」
「い、いえ、何でもないわ」
慌てて取り繕う。マリアは不思議そうに一瞬手を止めたものの、再び銀の櫛で流れる髪を梳き始めた。
私は心の中でアナに強く語りかける。
(まさか……毒!?)
『落ち着きなさい、リリィ』
アナの声は、どこか呆れたような調子だった。
『毒じゃなくて下剤よ。まあ、大量に飲めば死ぬかもしれないけれど、単なる下剤だわ。王太子が公衆の面前で腹を下し、そこをセシリアが献身的に看病して、好感度を上げるという浅ましい作戦ってわけ』
(何それ……なんてことを……)
『未来でも全く同じことがあった。あの時、私は何も知らずにただ見ていただけだったけれど、今回は違うわ。証拠を掴む絶好のチャンスよ』
アナの声には、揺るぎない確信が満ちていた。私は鏡の中の自分をじっと見つめる。
金色の髪、紫の瞳。エスターク公爵家の令嬢としての気品。そして今は、未来の記憶を持つもう一人の私と共にある。
(分かったわ、アナ。……どうすれば良いの?)
『ワインをすり替えるのよ』
アナが簡潔に答えた。
『フェリックスがワインに下剤を入れる瞬間を押さえて、そのワインを証拠として保管する。そして王太子には、別のワインを飲ませるの。そうすれば、セシリアの看病作戦は失敗するし、こちらの思惑通りに証拠も手に入るわ』
(なるほど。でも、うまく行くかしら?)
『行くわよ。未来では、フェリックスは予定通り下剤を入れて、王太子は酷く腹を下した。セシリアがかいがいしく看病して、殿下と親密になることに成功したの。私はその時、まだセシリアを表面通りの清廉な令嬢だと思っていたから、汚れ物も厭わない彼女に感心すらしていたのよ。馬鹿みたい』
(アナ……)
『でも、今回は違う。油断しないで、リリィ。フェリックスを監視して、決定的瞬間を確実に押さえるのよ』
「分かったわ」
決意が思わず声に出てしまい、マリアが驚いて手を止めた。
「お嬢様?」
「あ、いえ、今夜は楽しみだと思って。気合が入ってしまったの」
慌てて取り繕うと、マリアは安堵したように微笑んだ。
「そうでございますね。王宮のパーティーは、どこよりも華やかでございますから」
華やか、か。だが今夜、そのまばゆい光の裏側で、醜い陰謀が蠢こうとしている。私はそれを、この手で阻止しなければならない。
(でも、どうやってワインをすり替えるの? 隠し持っていたワインを目にも止まらぬ早業ですり替えるなんて、手品師みたいな真似は無理よ)
『コソコソしなくても、堂々とできるでしょう? 婚約者の特権を使いなさいな』
アナが即座に答えた。
『王太子への贈り物として、あらかじめ別のワインを用意するの。「エスターク領の特別なワインです」とでも言えば、あの殿下は喜んで飲むわ。そして、薬を盛られたワインは証拠として回収する』
(なるほど……! その手があったわね)
『そうと決まれば、お父様にコレクションのワインを一本頂戴する許可を貰いましょう。王太子は無能だけれど、舌だけは肥えているから。安物だと、かえって公爵家の恥をかくわよ』
私は深く頷いた。さっそく準備に取り掛からなければならない。
◇
王宮の大広間は、まばゆいばかりの光に満ちていた。
天井から吊るされた無数のクリスタル・シャンデリアが、宝石のように煌めきを撒き散らしている。壁には王国の悠久の歴史を描いた壮大な絵画が飾られ、磨き上げられた大理石の床は美しい幾何学模様を描き、貴族たちの足音を吸い込んでいた。
広間には芳醇な花の香りと、香水の匂いが入り混じり、楽団が奏でる優雅な旋律が空間を満たしていた。
私は深紅のドレスの裾を揺らしながら、広間に入った。周囲の視線が突き刺さるように集まるが、もう慣れっこだ。エスターク公爵家の令嬢として、そして王太子殿下の婚約者として、完璧な立ち振る舞いを崩さない。
私の傍らには、王宮の侍女が銀のトレイに載せたデキャンタを抱えて控えていた。
中には、公爵家のワインセラーから選び抜いた、エスターク領の「当たり年」として名高いヴィンテージワインが入っている。
『準備は良いわね、リリィ』
アナが最終確認をする。
『公爵家の侍女ではなく、あえて王宮の侍女を使ったのは正解よ。マリアがいつの間にか嗅ぎつけて、セシリアに情報を流すかもしれないんだから』
(ええ、そこは心得ているわ)
「リリアナ!」
聞き慣れた声が響き、エドワード殿下がこちらに歩いてきた。美しく整えられた金髪に、夏の空を思わせる青い瞳。相変わらず、見た目だけは申し分ない。その隣には、側近であるフェリックスとダミアンの二人が従っている。
フェリックス・バーネット。明るい茶色の髪を軽やかに遊ばせ、人懐っこい笑顔を絶やさない青年だ。今夜、この男が牙を剥く。
『油断しないで、リリィ』
アナの警告が胸に響く。私は優雅に腰を落とし、完璧なカーテシーで挨拶をした。
「殿下、今宵もご立派でございます」
「ああ、君も相変わらず綺麗だな。そのドレス、実によく似合っている」
王太子は満足そうに頷いた。いつもの、中身のない社交辞令だ。私は表面上は淑やかに、丁寧に応じる。
「リリアナ様、お久しぶりでございます」
ダミアンが丁寧に頭を下げた。漆黒の髪に鋭い灰色の瞳を持つ、落ち着いた雰囲気の青年。彼は常に冷静沈着で、礼儀正しい。
「ダミアン様も、お元気そうで何よりですわ」
「やあ、リリアナ様! 今夜も一段と綺麗ですね!」
フェリックスが、いつもの軽い調子で声をかけてきた。その笑顔は、どこまでも無邪気に見える。けれど――。
『あいつ、緊張してるわ』
アナが鋭く指摘した。
『笑顔の裏で、肩の筋肉が強張っている。視線も落ち着かず、少し泳いでいるわ。これから大罪を犯そうとする者の緊張ね』
私はアナの言葉を心に深く刻みながら、フェリックスに微笑みかけた。
「フェリックス様も、お元気そうで」
「もちろん! 今夜は最高に楽しみましょう!」
フェリックスはそう言って、大広間を広く見回した。その視線が、一瞬だけ会場の隅にあるワインテーブルの方向に吸い寄せられたのを、私は見逃さなかった。
『見た? 今の視線』
アナが耳元で囁く。
『あいつ、真っ先にワインテーブルを確認したわ。やっぱり、計画通り動くわよ』
私は自然な様子で殿下との会話を続けながら、全神経をフェリックスの動向に集中させた。
しばらくして、広間の一角にセシリアの姿が見えた。
純白のドレスが、シャンデリアの光を反射してきらきらと輝いている。プラチナブロンドの髪は優雅に結い上げられ、小さな真珠の髪飾りが清楚さを際立たせていた。
翠緑の瞳は宝石のように澄み渡り、慈愛に満ちた柔らかな微笑みを浮かべている。レースの袖口からのぞく白い手首には、控えめな銀のブレスレットが揺れていた。
セシリアは貴族たちに囲まれ、鈴を転がすような声で会話を楽しんでいる。話す時にわずかに首を傾げる仕草、相手の言葉に頷く時の柔らかい表情。そのすべてが、見る者を魅了するために計算し尽くされているように感じられた。
『あの女、今夜の計画を心底楽しみにしているわね』
アナの声が、冷たく、そして鋭く響く。
『王太子が腹を下して苦しみ、自分が聖女のように看病する。そして殿下からの絶対的な信頼と好感度を手に入れる。そうほくそ笑んでいるのよ。でも、今夜はそうはいかないわ。私たちがすべてを台無しにしてあげるんだから』
私は心の中で強く頷いた。セシリアは、まだこちらには気づいていないようだ。いや、気づいていても、完璧な「善良な令嬢」を演じ続けているのかもしれない。
パーティーが中盤に差し掛かり、空気は熱を帯びていく。楽団のテンポが上がり、ダンスの輪が広がった。優雅で、平和な光景。だがその裏で、確実に秒読みは始まっていた。
『リリィ、フェリックスが動くわよ』
アナの警告が脳裏に走る。私は令嬢らしい穏やかな表情を保ったまま、視線だけを泳がせた。
フェリックスが、何気ない足取りでワインテーブルの方へと歩き出した。周囲の貴族たちと軽やかに挨拶を交わしながら、ごく自然に、目的地へ向かっていく。
『油断しないで。一挙手一投足、瞬き一つせず見逃さないで』
私は顔見知りの令嬢との会話を続けながら、フェリックスを監視した。心臓がどきどきと激しく鐘を打つ。緊張で、扇を持つ手のひらがじんわりと汗ばんでいた。
フェリックスがワインテーブルに到着した。
そこには、王太子専用のデキャンタが鎮座している。銀の盆の上に置かれた、クリスタルの美しい容器。中には熟成された深紅のワインが満たされ、その隣には専属の給仕が直立不動で控えていた。
フェリックスが給仕に何事か声をかけた。給仕が慇懃に頭を下げ、少し離れた場所へ移動する。王太子の側近である彼が、給仕に細かな指示を出すのは不自然なことではなかった。
『狡猾ね。「殿下が召し上がる前に、ワインの状態を私が確認しよう」とでも言ったのでしょう』
アナが忌々しげに呟いた。
給仕が完全に背を向けた、そのわずかな隙。フェリックスは、電光石火の速さで動いた。
周囲に視線を走らせながら、ポケットから小さな、薬瓶のようなものを取り出す。
『今よ、見て!』
アナが鋭く叫んだ。
フェリックスは手早く小瓶の蓋を開け、デキャンタの口へ液体を数滴垂らした。無色透明の液体が、深紅のワインの中に溶け込み、波紋となって消えていく。その流れるような一連の動作は、恐ろしいほどに手慣れていた。
(あれが、下剤……!)
私は思わず息を呑んだ。証拠だ。疑いようのない、決定的な瞬間をこの目で見た。
フェリックスは何事もなかったかのように小瓶をポケットにしまい、給仕を手招きした。給仕が戻ってくる頃には、彼はワインの香りを確かめるふりをしながら、満足げな表情を浮かべていた。
「殿下のために、最高の状態に整えてくれたな。ご苦労」
フェリックスが給仕に軽く声をかける。給仕は深く頭を下げた。そしてフェリックスは、何もなかったかのような足取りで、再び貴族たちの輪へと溶け込んでいく。
『手慣れたものね。未来でも、きっとこうして多くの人を陥れてきたのよ』
アナの声が、冷淡に分析する。
『証拠は押さえた。次は、あの毒入りを王太子に飲ませないようにしないと』
(今よね、アナ?)
『ええ。行きなさい、リリィ』
私は深く息を吸い込み、決意を固めた。そして、王太子の元へと迷いなく歩み寄る。
「殿下」
「おお、リリアナ。どうした?」
「実は、本日殿下へのささやかな贈り物として、特別なワインをご用意させていただきましたの」
私は傍らに控えていた王宮の侍女を手招きした。侍女が銀のトレイを捧げ持ち、一歩前に出る。
「エスターク家の領地で採れた葡萄を贅沢に使い、長い年月をかけて熟成させたヴィンテージワインですわ。ぜひ、今夜はこちらを召し上がっていただけませんか?」
王太子は少し驚いた様子だったが、ワインをこよなく愛する彼が、私からの贈り物を無下に断るはずがなかった。
「ほう、一二〇〇年物か! あれはエスターク産ワインの中でも伝説的な当たり年だな。リリアナ、実によく気が利くじゃないか」
王太子は上機嫌に頷き、本来用意されていたワインテーブルを振り返った。
「よし、あちらのワインではなく、今はこちらをいただこう。給仕!」
殿下の呼びかけに、先ほどの給仕が慌てて駆け寄ってくる。私の侍女が、デキャンタを給仕へと丁重に手渡した。
「こちらのワインを殿下に」
「かしこまりました、リリアナ様」
給仕は慎重にデキャンタを受け取り、王太子のグラスに注いだ。透明感のある深紅の液体が、クリスタルグラスを満たしていく。
そして――フェリックスが下剤を混入させたデキャンタは、給仕の手によってテーブルの隅へと下げられた。
『完璧だわ、リリィ』
アナが満足げに、そして誇らしげに呟いた。
『婚約者が自領の至宝を贈る。この場にいる誰一人として、不審に思う者はいないわ』
王太子は、私が贈ったワインを一口、ゆっくりと含んだ。
「うむ、芳醇だ。エスターク領のワインはやや軽い印象を持っていたが、これは重厚で深みがあるな。素晴らしい」
何事も、起こらない。王太子は何の異変も感じることなく、上質なワインの味わいに酔いしれている。
私は目配せで、少し離れた場所にいた別の侍女に鋭い合図を送った。侍女は音もなく動き、給仕が下げた例のデキャンタ――フェリックスが下剤を入れた、紛れもない証拠品――を密かに回収し、素早く別室へと運んでいった。万が一にも、誰かが誤飲しないように、そして証拠として厳重に保管するために。
私は小さく、胸をなでおろすように息を吐いた。成功した。まずは第一段階、成功だ。
しばらくして、私は遠巻きにセシリアの様子を窺った。彼女は貴族たちと談笑しながらも、時折、扇で口元を隠しながら王太子の方を盗み見ている。
そして、何事もなくワインを飲み干した王太子を見て――。
一瞬だけ、その完璧な仮面が剥がれた。
困惑。ほんの一瞬、瞬きをするほどの短い間だったが、翠緑の瞳に明らかな困惑の色が浮かんだ。すぐにまた柔らかな微笑みに戻ったが、私は確かにそれを見た。
『見たかしら? あの顔』
アナが勝ち誇ったように笑う。
『王太子が平然としているから、計算が狂って困惑しているのよ。今頃、自分の計画がどこで失敗したのか、必死に考えているはずだわ』
(やったわね!)
心の中で、私は喝采を上げた。セシリアの陰謀を、私たちの手で未然に防いだのだ。彼女の目論んでいた「献身的な看病」という茶番劇は、今夜、上演されることはない。
『けれど、まだ油断しては駄目よ』
アナの声が、氷を打つように冷たく私を制した。
『ここからが本番なの。セシリアは必ず、失敗を取り戻そうと次の手を打ってくるわ。そして、フェリックスが下剤を入れたという決定的な証拠。これをどう使うか……タイミングがすべてを決めるのよ』
(分かっているわ、アナ)
私は周囲を改めて見回した。パーティーは相変わらず、何事もなかったかのように華やかに続いている。貴族たちは優雅に語らい、音楽は絶え間なく流れ、ダンスの靴音が床を叩く。
ふと、近くで談笑していた年配の貴族たちの会話が、私の耳に滑り込んできた。
「……最近、隣国のノルヴェリアの動きが、どうもきな臭いようでな」
「ああ、国境付近で挑発行為があったという話だ」
「北の守護、グレンヴィル公爵が兵を増強しているらしい。穏やかではないな」
「物騒な話だ。しかし、陛下もお体が優れないし、王太子殿下もあのご様子では……」
声は次第に小さくなり、周囲の雑踏に消えていった。
誰も、王太子の無能さをあからさまに批判はしない。だが、誰もがこの国の将来を憂いているのだ。
ノルヴェリア。隣国の不穏な名前が、棘のように私の心に引っかかった。
『気をつけなさい、リリィ』
アナの声が、かつてないほど真剣な響きを帯びた。
『この国は今、まさに内憂外患の只中にある。王太子は無能、国王陛下は病床に伏せっている。そんな絶好の好機を、野心溢れる隣国が見逃すはずがないわ。……空気の中に、血の匂いが混じり始めている』
◇
パーティーは夜更けまで続いた。
王太子は最後まで何事もなく、上機嫌でワインを楽しみ続けた。セシリアは相変わらず優雅に振る舞い、周囲を魅了し続けていたが、時折彼女が見せる僅かな表情の綻びを、私は一度として見逃さなかった。
フェリックスはといえば、まだ自分の犯行が成功し、いずれ効き目が現れるとでも思っているのだろう。軽い調子で貴族たちと談笑し、酒を煽っている。
『証拠は無事に回収し、安全な場所に保管させたわ。さて、次はこれをどのカードとして使うか……』
アナが、頭の中で冷徹に戦略を練っている。
『焦ってはいけないわ。最高のタイミングで、すべてを白日の下に晒し、奴らを叩き潰すのよ』
セシリア、あなたの計画は今、私の手によって崩れ去ったわ。
そして私は、あなたが次の罠を仕掛けてくるまで、獲物を待つ蜘蛛のように待っていてあげる。
私は深紅のドレスの裾をふわりと翻し、再びまばゆい光が溢れる広間へと戻った。




