第7話
【大陸暦一二二五年九月下旬】
ロートヴァイス侯爵邸での社交パーティーから、数日が過ぎた。
あの夜、セシリアの罠によって濡れ衣を着せられかけた私は、ヴィクトール殿下のおかげで危機を逃れることができた。証人たちは脅迫されていたことを白状し、私の無実は証明された。
だが、黒幕の特定には至らなかった。
セシリアは相変わらずあの柔らかな微笑みを湛えたまま、プラチナブロンドの髪を揺らして何食わぬ顔で社交界に留まっている。
私は自室の窓から、秋の庭を眺めていた。
木々の葉が、燃えるような朱や金へと徐々に色づき始めている。ひんやりとした空気の混じる、穏やかな午後だ。
けれど、私の心は少しも穏やかではなかった。
「お父様に、相談してみましょうか」
窓ガラスに映る自分の影に向かって、私は小さく呟いた。
『え? お父様に?』
頭の中で、未来の私が驚いたように反応した。
『無駄よ。未来では、お父様は私を信じてくれなかったもの。冷たく突き放されただけだったわ』
「でも、今回は違うかもしれないわ。未来とは、状況が変わっているもの」
『どう変わってるって言うの? お父様は変わらず冷徹で、証拠を何より重視する人よ。証拠のない話なんて、聞く耳持たないわ』
確かに、父は厳格な人だ。
エスターク公爵家の当主として、常に冷静沈着であり、感情に流されることはない。事実を重んじ、憶測や噂を嫌う。そんな父に、実体の掴めないセシリアの脅威を説明するのは容易ではないだろう。
「――それでも、試してみるわ」
私は拳を握り、決意を固めた。
父は厳格だが、公正でもある。正しいことは正しいと認め、間違っていることは間違っていると断じる。そして何より、私の父なのだ。
娘を愛していないわけがない。そう信じたかった。
『好きにすればいいわ。どうせ信じてもらえないと思うけど。でも、やってみるのも勉強になるかもね。お父様がどれだけ冷たいか、身をもって知ることになるでしょうけど』
「そんなこと……」
私は首を振った。
未来では、父は私を見捨てたという。公爵家の保身のために、娘を切り捨てた。
でも、今回は違うかもしれない。未来を知っている私なら、父を説得できるはずだ。
私は部屋を出て、父の書斎へ向かった。
◇
エスターク公爵家の書斎は、屋敷の二階、奥まった場所にある。
重厚なマホガニーの扉の前に立つと、緊張で心臓の鼓動が耳元まで響いた。
父の書斎――子供の頃から、この扉の向こうは特別な聖域だった。
重要な客人との会談、領地経営、国政に関する書類仕事。公爵としての父が、そこにいる。
私は一度深く呼吸をしてから、扉をノックした。
「お父様、リリアナです。少しお時間をいただけますでしょうか」
しばらくの沈黙の後、地響きのような低い声が返ってきた。
「入れ」
扉を開けると、古い紙とインクの香りが鼻をくすぐった。
壁一面を埋め尽くす書棚。窓から差し込む午後の斜光が、執務机の上の書類を白く照らしている。
父、アルフレッド・フォン・エスタークは机に向かって羽根ペンを走らせていたが、私が入ると顔を上げた。金髪を短く整え、彫りの深い顔立ちに厳格な表情を浮かべた偉丈夫だ。
「何用だ、リリアナ」
その声は冷静で、威厳に満ちていた。感情の色は乏しいが、まっすぐに私を見据えて話を聞く姿勢は見せてくれている。
「お忙しいところ申し訳ございません。お話ししたいことがありまして」
「話せ」
父は書類を脇に寄せた。
私は父の前に立ち、慎重に言葉を選んだ。
『まあ、一応は話を聞く姿勢は見せてくれるのね。でも、油断しないで。結局、信じてくれないのは同じよ』
アナの冷ややかな忠告を意識から追い出し、私はゆっくりと話し始めた。
「その……最近、王都の社交界で気になることがありまして。セシリア・ローゼンタールという令嬢のことです」
父のペンを持つ手が、わずかに止まった。
「ローゼンタール伯爵家の養女だな。何か問題でもあるのか」
「はい。彼女は、非常に危険な人物だと思うのです」
その言葉に、父はようやく完全に顔を上げた。鋭い視線が、射抜くように私を捉える。
「危険? 何を根拠にそう言う」
「先日のロートヴァイス侯爵家の社交パーティーで、私が濡れ衣を着せられそうになったのはご存じでしょうか」
「聞いている。第二王子殿下が動いて、証人の買収が発覚したそうだな。お前の無実が証明されて何よりだ」
父は簡潔に答えた。心配の言葉はない。ただ事実を整理しただけだ。
「その黒幕が、セシリアだと思うのです」
私がまっすぐに告げると、父の眉がぴくりと動いた。
「証拠は?」
たった一言。氷のような重みのある問いだった。
「証拠は……今のところ、ありません。ですが、状況証拠があります。社交界での立ち回り、証人への接触の可能性、そして――」
「リリアナ」
父が私の言葉を遮った。
「証拠のない疑いなど、公爵家の娘が口にすべきではない」
突き放すような声だった。
冬の夜の風のように冷たく、一切の歩み寄りを拒絶している。私は息を呑んだ。
「でも、お父様――」
「聞いたところでは、証人は買収を認めたが、黒幕は特定されていないそうだな。第二王子殿下も調査を続けているが、具体的な証拠は見つかっていない。証拠がないのであれば、それは憶測に過ぎん。憶測で他家の令嬢を非難することは、エスターク公爵家の名誉を傷つける行為だ。以上だ。下がって良い」
父は再び書類に目を落とした。
私は呆然と立ち尽くした。信じてもらえなかった。いや、検討の余地すらないと断じられたのだ。
『ほら、言った通りでしょ。お父様は変わらない。証拠がなければ何も信じない。公爵家の立場を何より優先する。愛情がないわけじゃないのは分かってる。でも、それだけじゃ娘は救えないのよ』
胸が、焼けるように痛む。
父を説得できると、どこかで自惚れていたのかもしれない。
「……失礼いたします」
私は頭を下げて、書斎を出ようとした。その時、父の声が背中に届いた。
「リリアナ。感情に流されるな。公爵家の令嬢として、常に冷静であれ」
それだけ言って、父は執務に戻った。
私は何も言えず、ただ重い足取りで書斎を出た。
廊下に出ると、私は冷たい壁に手をついた。膝がわずかに震えている。
『やっぱりね。お父様は変わらないわ。未来でも、今でも』
「でも……でも、諦めたくないわ」
私は掌に爪を立てた。
「お父様に、信じていただきたい。セシリアの危険性を、分かっていただきたいの」
『どうやって? 証拠もないのに』
「証拠を、見せれば良いのよ。父が信じるような、確かな証拠を」
『どんな証拠よ? セシリアは完璧に証拠を隠すわ。今回の濡れ衣事件だって、尻尾を掴ませなかったじゃない』
「今はセシリアに関することでなくてもいい。とにかく、私の言うことが正しいと認めざるを得ない『事実』があれば良いのよ。例えば……そう、予言とか」
私は顔を上げた。
未来の記憶を使って、これから起こることを予言すればいい。
『予言、ねえ。本当に大丈夫? それ、かなり危険よ。なんでそんなことを知ってるのか、問い詰められるわ』
「詳しく説明する必要はないじゃない。とにかく私が言ったことが的中すれば、お父様も無視できないはずよ」
『まあ、試してみる価値はあるかもね。何を予言する? 確実に起こることで、なおかつお父様が確認できることじゃないと意味がないわよ』
「王宮で起こる事件が良いと思う。お父様なら、王宮の情報はすぐに入手できるもの」
アナは心の中で記憶を掘り起こすように、しばし沈黙した。
『……そうね、あれが使えるかもしれないわ。王宮の財務卿、グスタフ・フォン・ヴァイスマンの不正経理事件。確か、この時期に発覚したはずよ。お父様ならすぐに確認できるし、的中すれば驚くでしょうね』
「……よし」
私は深く呼吸を整え、再び書斎の扉をノックした。
「また何か用か」
父の声には、隠しきれない不機嫌さが混じっていた。
「はい。どうしても、お伝えしたいことがあります」
私は退室したばかりの書斎へ、再び足を踏み入れた。父は呆れたような表情でこちらを見た。
「ローゼンタール家の養女の件なら、もう話は終わったはずだが」
「いいえ、それとは別のことです。お父様、近々、王宮で事件が起こります」
「――何?」
父が不審げに眉をひそめる。
「詳細は申し上げられませんが、間もなく、王宮の財務卿が不正経理の疑いで調査を受けます。国庫から私的に流用していたことが発覚するのです」
私は一言ずつ、噛みしめるように告げた。
『そう、間違いないわ。王宮の財務卿が不正経理で失脚する事件。三年前の今頃、確かに起こったことよ』
父の表情が、劇的に変わった。
驚愕、そして強い疑念が混ざり合った視線。
「何を根拠にそう言える。まさか噂話を真に受けたのか?」
「いいえ、噂ではありません。必ず起こります。数日のうちに、グスタフ財務卿が王宮の監査院に呼び出され、不正が明るみに出るはずです」
「リリアナ、お前、一体どこでそんな情報を――」
「詳細は申し上げられません。ですが、お父様、どうか数日だけお待ちください。私の言葉が真実だと、お分かりになるはずです」
父は黙って私を凝視した。その瞳には、困惑と、ほんの少しの興味が浮かんでいた。
「……分かった。様子を見よう。だが、決して口外するな」
「下がって良い」という言葉を受け、私は一礼して書斎を後にした。
◇
三日後、王都中に衝撃のニュースが駆け巡った。
グスタフ・フォン・ヴァイスマン財務卿が、王宮監査院の調査を受け、不正経理の疑いで職を解かれた。国庫から不正に引き出されていた額は、莫大なものだったという。
貴族社会は騒然となった。
私は自室でその知らせを聞き、静かに勝利を確信した。
『ほら、的中したでしょ。私の記憶は正確なんだから』
アナが得意げに笑う。
昼過ぎ、案の定、父から使いが来た。
「お嬢様、公爵様がお呼びです。至急、書斎にお越しください」
再び訪れた書斎。
扉を開けると、父は窓の外を見つめ、腕を組んで立っていた。
「リリアナ……お前、一体何を知っている」
振り向いた父の瞳には、警戒、そして隠しきれない驚愕が宿っていた。
「三日前、お前は私に言った。グスタフ財務卿が不正経理で調査を受けると。そして、今日、その通りになった。偶然ではあるまい。お前は何かを知っている。どこで、どうやって、その情報を得た」
「詳細は……申し上げられません。でも、私を信じてください、お父様。私には、これから起こることがほんの少しだけ、分かるのです」
「分かる? 予知能力とでも言うのか」
「そう呼ぶのが適切なのかは分かりません。ただ、私には確信があります。そして、セシリア・ローゼンタールも、本当に危険な人物なのです。今はまだ証拠をお見せできませんが、彼女は王国に害をなす存在です。どうか、私を信じてください」
私は退かずに、まっすぐ父の瞳を見据え続けた。
長い、長い沈黙が流れる。
柱時計の刻む音だけが、部屋の緊張を煽っていた。
やがて、父は深く、重い息を吐き出した。
「……お前は、クラリッサに似てきたな」
不意に出た母の名に、私は息を呑んだ。
「お母様、ですか?」
「ああ。お前の母は、直感が鋭い人だった。論理や証拠では説明できないことを、感覚で見抜く。そして、その直感はほとんど外れなかった。お前が幼い頃は、真面目で理屈っぽい娘だと思っていたが……最近、変わったな。目つきが鋭くなり、言葉に重みが出てきた」
父の眼差しが、わずかに和らいだ。
「クラリッサが生きていたら、何と言っただろうな。娘がこんなに成長したと、喜んだだろうか」
私の目に、熱いものが浮かんだ。十二歳の時に亡くなった、大好きな母。
『お父様が、お母様の名前を出すなんて……未来では、処刑される時まで、お父様はお母様のことなんて一言も言わなかったのに』
アナの声が、震えている。
「分かった、リリアナ。お前を信じよう。協力する」
「……本当ですか?」
「ただし、条件がある」
父は再び厳格な表情に戻った。
「無茶はするな。危険なことは私に報告しろ。そして、エスターク公爵家の名誉を傷つけるような真似は慎め。分かったな」
「はい! ありがとうございます、お父様!」
私は深く頭を下げた。胸が熱く、視界が滲む。
父が信じてくれた。協力してくれると言ってくれた。
『未来では私を見捨てたのに……今回は違うのね。本当に、未来を変えられるんだわ』
アナの呟きを聞きながら、私は確信した。
未来は変えられる。父との関係も、変えていけるのだ。
「ところで、リリアナ。国王陛下の体調が優れず、政務の多くが王太子殿下に委ねられているのは知っているな」
「はい……」
「陛下のご回復を祈るばかりだ。だが、王太子殿下では……」
父はそこで言葉を切り、苦渋を滲ませた。
言わんとする公爵の意図は明白だ。王太子殿下では国を治められない――父もまた、その事実に気づいているのだ。
「国政への不安が広がっている。リリアナ、お前は王太子殿下の婚約者だ。立場が難しくなるかもしれん。心構えをしておけ」
「はい、お父様」
「行け。そして、気をつけろ。セシリアとやらが本当に危険な人物なら、決して油断するな」
私は一礼して、晴れやかな気持ちで書斎を出た。
廊下に出ると、私は大きく息を吐いた。
エスターク公爵家の政治力という、強力な後ろ盾を得られた。
『まさか、本当に信じてくれるなんてね。未来では最後まで冷たかったのに。処刑される時も、ただ黙って見ていただけだった。でも、今回は違う』
「ええ、今回は違うわ」
窓の外、高く澄んだ秋空を見上げる。
「未来を変えられる。お父様の協力も得られた。これで、セシリアと戦えるわ」
『エスターク公爵家の力は大きいいわよ。政治的影響力、貴族社会での発言権、そしてお父様の冷徹な判断力。全部、味方につけられたのよ。セシリア、覚悟しなさい』
心強い味方が増えた。未来の記憶、ヴィクトール殿下、そして父。
窓から吹き込む秋風が、火照った頬に心地よい。
未来の私に呼びかけようとして、ふと思った。いつまでも「未来」と呼ぶのは、何だか他人行儀な気がする。もう一人の私。でも、確かに違う人格。だったら、名前で呼びたい。
「……アナ」
私は、心の中の彼女をそう呼んだ。
『アナ?』
「ええ。もう一人の私。でも、別の人生を歩んだあなた。名前で呼びたいの。親愛を込めて」
『……悪くないわね。じゃあ、私はあなたをリリィと呼ぶわ』
「ええ、それで良いわ、アナ」
二人で一つ。現在の私と、未来の私。
長い戦いは、まだ始まったばかり。けれど、確実に前進している。
運命を、自分の手で掴み取るために。
私は力強く、廊下を歩き出した。




