第4話
【大陸暦一二二五年八月下旬】
朝の光が窓から差し込む中、私は鏡の前に座っていた。
マリアに何も知らないふりをして接する日々にも、少しずつ慣れてきた。鏡越しに目が合うたび、私は心の奥底で冷たい計算を働かせる。
マリアが丁寧に髪を整えてくれる。その指先は、かつて私が全幅の信頼を寄せていたときと変わらず優しい。でも、私は知っている。この手が、私を裏切っていることを。そしてこの裏切りを、未来の私と共に利用すると決めたのだ。
「お嬢様、今日は王宮での昼食会ですわね。エドワード殿下にお会いできるのが楽しみでございますね」
マリアが穏やかに微笑む。かつてなら、私はこの笑顔に心底癒やされていたはずだった。
「ええ。殿下とお会いするのは久しぶりだわ」
実際、ひと月ほど会っていなかった。以前は頻繁に届いていた誘いの手紙も、最近は減ってきている。そのことに、私は無自覚な寂しさを覚えていた。
けれど、今は「何も知らない可憐な婚約者」を演じるのが私の役目だ。笑顔の裏で策を練り、優しい言葉の裏で次の手を考える。これが、私の新しい日常。
『偉いわね、リリアナ。よくできている。……上出来よ』
未来の声が、心の中で満足げに囁いた。
私は心の中で小さく頷く。耐えられる。未来の私が見守ってくれているから。
身支度を終え、エスターク家の紋章が刻まれた豪華な馬車に乗り込んだ。
窓の外には活気に満ちた王都の街並みが広がっている。平和な光景。けれど、私の心はどこまでも荒んでいた。
『今日は王太子と会うけれど、覚悟しなさい』
未来の声が、冷淡に告げた。
「殿下は……根は優しい方よ」
私は小さく、自分に言い聞かせるように呟いた。エドワード殿下。私の婚約者。亡き先妃の忘れ形見として、国王陛下に慈しまれ、聡明に育ったはずの方。けれど、未来の私は言った。その彼が、私を断頭台へと送ったのだと。
『……まあ、すぐに分かるわよ。嫌というほどね』
その諦めを含んだ響きが、妙に不安を掻き立てる。
王宮に到着し、案内されたのは中庭に面した小食堂だった。
そこには三人の男性がすでに席についていた。
「リリアナ、よく来てくれた」
エドワード殿下が立ち上がり、私を迎えてくれた。金色の髪と青い瞳を持つ、絵画のように美しい容姿。けれど、向けられた笑顔はどこか表面的な気がした。傍らには、側近のダミアン・クロウとフェリックス・バーネットが控えている。
「殿下、お久しぶりでございます。お健やかそうで何よりです」
私は完璧な貴婦人の礼をした。エドワード殿下は満足そうに頷き、私を席に促す。
昼食が始まると、すぐに違和感の正体が判明した。殿下の話題が、異常なほどにある一人の女性に集中していたからだ。
「最近、素晴らしい令嬢に出会ってね。セシリア・ローゼンタールというのだ」
殿下は、まるで初恋に浮かれた少年のように語り始めた。
「清楚で知性的、かつ慈愛に満ちた女性だ。先月、王立図書館で偶然会ってね。私が探していた古代史の稀少な文献を、彼女が見つけて差し出してくれたんだよ。その折、実に的確な見解を述べてくれた」
殿下の目が、キラキラと輝いている。
「その後の茶会でも少し話したが、これほどまでに話の合う令嬢は初めてだよ」
セシリア。その名を聞いた瞬間、私の心臓が嫌な音を立てた。
すべては仕組まれていたに違いない。殿下の趣味を調べ上げ、偶然を装って近づく。未来の私が語った「演技」そのものだ。
(殿下……そんなに簡単に……)
『セシリアは天性の女優で詐欺師よ。殿下の好みを調べ上げ、理想の女性像を投影して見せただけ。古代史への興味も、すべてはあなたの婚約者を奪うための釣り餌よ』
未来の声が吐き捨てる。
幼い頃から知っているエドワード殿下は、もっと冷静で思慮深い方だと思っていた。こんなに脆く、他人の誘惑に流されるような方では……。
『あなたが気づいていなかっただけよ。殿下は昔から、自分を無条件に肯定し、持ち上げてくれる人間を好んだ。あなたは婚約者として、時に彼を想って苦言を呈したけれど、彼はそれを心の底では煙たがっていたのよ』
(そんな……)
『セシリアは違うわ。殿下を褒め称え、その意見を盲信し、完璧に立てる。王太子という温室で育った男なんて、そんな安っぽい「理想」に弱いのよ』
殿下は、婚約者である私の前で他の女性を褒めちぎるという、無礼な振る舞いにすら気づいていない。
「それは、とても素敵な出会いをなさいましたわね、殿下」
私は引き攣りそうな頬を押さえて笑顔を保った。殿下は、私が祝福してくれたと勘違いしたのか、さらに上機嫌に頷く。
「セシリア様って本当に可愛いですよね! 殿下、お目が高いですよ!」
側近のフェリックスが、軽薄な笑みを浮かべて追従した。殿下も、その無作法な発言を諫めるどころか、共に笑っている。
『犬確定ね、フェリックス。尻尾を振って主に媚びる、ただの忠実な番犬よ。あいつ、セシリアのためなら毒を盛ることだって厭わないわ』
(毒……!?)
その言葉の重みに、私は背筋が凍るのを感じた。
私はなんとか重苦しい空気を変えようと、言葉を選んで話題を振る。
「殿下、最近の政務はいかがですか? 学問もさることながら、政治の舵取りは重要でございますわよね」
婚約者としての当然の気遣い。けれど、その瞬間、場の空気が凍りついた。
「リリアナ様。殿下の学識を侮辱されるおつもりですか」
低く、冷徹な声。
隣に座るダミアン・クロウが、眼鏡の奥の瞳で私を射抜いていた。
「そ、そんなつもりは! 私はただ、殿下のお立場を案じて……」
「お言葉ですが、殿下は陛下の代行を完璧にこなしておられます。あなたの不用意な発言は、殿下の努力を軽視しているように聞こえますが」
『無駄よ。こいつは確信犯だわ』
未来の声が、冷たく突き放す。
『曲解するのが仕事なのよ。何を言っても悪く取られるわ』
「リリアナ。私の政務能力に不満があるのか?」
エドワード殿下の声にも、あからさまな不快感が混じる。私は首を横に振り、沈黙を守るしかなかった。
気を取り直すように、ダミアンが話題を転換させた。しかしその内容は、穏やかでないものだった。
「そういえば殿下、東の国境でまた隣国ノルヴェリアの兵が越境してきたようですが」
ノルヴェリア。その国名に、私の胸が騒いだ。
「ああ、その件か。あんな辺境の揉め事より、今は来月の祭典の準備の方が重要だ。対処はグレンヴィル公爵に一任してある」
エドワード殿下は興味なさそうに、肉料理にナイフを入れた。
私は思わず息を呑んだ。国境を侵されるのは、本来なら一刻を争う事態のはずだ。
(それに、グレンヴィル公爵に任せるなんて……。あの方は現王妃様の兄君で、第二王子殿下の伯父様。解決すれば公爵家の手柄になり、ひいては異母弟殿下の立場を強めることになるのに)
エドワード殿下は亡き先妃の子。一方、現王妃には彼女の血を引く第二王子がいる。王太子の地位にあるとはいえ、殿下の立場は決して安泰ではないはずだった。
『呑気なものよね。公爵が国境問題を武力や交渉で解決すれば、軍部での発言力は増し、王妃派の勢いは止まらなくなる。自分から王座を異母弟に譲るようなものなのに』
未来の声が呆れたように鼻で笑う。
「そうですとも! ノルヴェリアなんて文化の遅れた野蛮な国、わざわざ殿下の手を煩わせるまでもありません。グレンヴィル公爵に泥臭い仕事は任せておけばいいんですよ」
フェリックスが軽薄に同調する。彼らの危機感のなさに、背筋が寒くなった。
『無能が実権を握ると、国はこうして傾いていくのよ』
「……国王陛下のご体調はいかがですか?」
さらに話題を変えようと尋ねる。父王ルドルフ陛下は、本来なら厳格で聡明な統治者だった。
「ああ、父上は最近お疲れのようでな。政務の多くを私が代行している。父上も年だ、私が支えなければこの国は回らんよ」
得意げに語るエドワード殿下。けれど、未来の私は残酷な事実を突きつけた。
『疲労でなく病よ。陛下は持病が悪化して、政務を執ることが難しくなっている。エドワードはそれを「自分の有能さゆえに任されている」と盛大に勘違いしているけれど、実際は王妃派に利用されているだけ。……悲惨ね』
昼食会が終わり、王宮を後にしたとき、私は全身の力が抜けていた。
たった一回の会食。それだけで、私の精神は削り取られたようだった。
『お疲れ様。よく頑張ったわ、リリアナ。初めてにしては上出来よ』
「……あの方は、変わってしまったのね」
『いいえ。本来持っていた傲慢さが引き出されただけよ。セシリアという劇薬によってね』
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
天蓋の美しい刺繍を眺めながら、私は自分の運命を呪いたくなった。
「未来の私。……本当に、私たちは勝てるの?」
『勝つわ。あなたは私であり、私はあなたの「失敗」そのものだもの。同じ轍を踏まなければ、勝ち筋は見えているわ』
不敵に笑う「彼女」の気配が、私を奮い立たせる。
そうだ。私には未来の記憶がある。セシリアの手口も、側近たちの裏切りも。
『次は社交界で、セシリアが直接罠を仕掛けてくるわ。覚悟はいい?』
「ええ。……分かっているわ」
私は瞳を閉じる。
窓の外では夕日が沈み、世界が闇に包まれようとしていた。
王太子との決定的な温度差、そして迫りくる王妃派の影。
地獄の三年間という幕は、もはや完全に上がっていた。




