第31話
【大陸暦一二二七年八月中旬】
私たちが決定的証拠を手に入れてから数日。王宮の医師から、慎重ながらも希望に満ちた診断が下された。
「国王陛下のご容態は着実に回復しており、このまま順調に推移すれば、あと一ヶ月ほどで短時間であれば重要な裁定にお立ち会いいただけるでしょう」
ヴィクトール殿下と私は、報告を受けると同時に顔を見合わせた。
一ヶ月――。その間、私たちはあの証拠を守り抜き、ナターシャを泳がせながら、彼女の最後の一撃を封じ込めなければならない。
「警護と監視はすでに強化済みだ」
殿下が低い声で言った。
「父上と私には騎士団の精鋭による二十四時間体制の警護がついている。ナターシャにも二十四時間、密偵を張り付かせた。エスターク家の警備にも人員を回したいのだが、構わないか?」
「ありがとうございます。ただ、あまりに露骨な増員はナターシャに勘付かれる恐れがあります」
「分かっている。だが、安全に関しては万全を期したい。たとえ彼女の正体を暴いたとしても、我々の誰かが欠ければ、それは負けに等しいのだから」
殿下の青灰色の瞳には、守り抜くという静かな決意が宿っていた。
表面上、ナターシャは何も気づいていないように見えた。相変わらず清楚な令嬢を完璧に演じ、王太子に愛らしく微笑みかけ、貴族たちと優雅に言葉を交わしている。
だが、私たちは知っている。あの可憐な仮面の下には、一国の運命を容易く塗り替える、ノルヴェリア史上最高の工作員が潜んでいることを。
◇
一週間後、ヴィクトール殿下と私は、ローゼンタール伯爵邸を訪れた。
重厚な扉の向こう、書斎の椅子に座る伯爵は、いつもの穏やかな笑みで私たちを迎えてくれた。中年の紳士が浮かべるその慈愛に満ちた表情が、これから告げる真実によって無残に引き裂かれることを思うと、胸が痛んだ。
「伯爵」
殿下が机の上に書類の束を広げ、沈痛な面持ちで切り出した。
「お辛いお話になりますが、お聞きいただかなければなりません」
伯爵の表情が、わずかに曇る。
「それは……セシリアに関することですか?」
「はい」
私が一歩前に出て、答えた。
「正確には『セシリア』と名乗っている人物に関することです」
伯爵の顔色がみるみる青褪めていった。殿下が一枚ずつ、証拠の書類を説明していく。ノルヴェリアの内部文書、ナターシャ・ヴォルコフの経歴、本物のセシリア一家を襲った惨劇の詳細……。
「そんな……セシリアが、セシリアではないというのか……?」
伯爵の声が、枯れ葉のように震えた。
「本物のセシリア様は、あの事故で亡くなられました。いいえ、殺されたのです」
私は、残酷な事実をはっきりと言葉にした。
「伯爵がこの四年間、心から慈しんでこられた養女は、ノルヴェリアの工作員です。実年齢二十一歳、ナターシャ・ヴォルコフ。彼女は、あなた様の善意を利用したスパイなのです」
書類を握る伯爵の拳が、白くなるほど強く震えていた。
「すべて……すべて嘘だったのか」
絞り出すような声に、深い悲しみと怒りが滲む。
「私は……あの娘を、本当の娘だと思っていた。心根が良く、優秀で、私の誇りだとすら思っていたのだ……!」
「伯爵は、卑劣な罠の被害者です。善意を利用され、そして今も利用され続けているのです」
私は伯爵の目を見つめた。伯爵は深く息を吐き、きつく目を閉じた。長い沈黙が続いた後、私は伯爵に尋ねた。
「本物のセシリア嬢は、どのような子だったか覚えておいでですか?」
その問いかけに、伯爵の瞳には懐かしむような光が宿った。
「覚えていますとも」
彼の声は、もはや涙を堪えきれないように震えていた。
「セシリアが八歳の頃、屋敷の掃除婦が高価な花瓶を割ってしまった。父親が激怒し、彼女を即座に解雇しようとしたときです。セシリアは『私が落としたのです』と嘘をついて庇ったのです」
「嘘を……身代わりになったのですか?」
「ええ。あとで理由を問うと、セシリアは泣きながら言いました――『彼女には小さな子供がいます。職を失ったら困ります』と」
伯爵の目から、一筋の涙が溢れた。
「結局、彼女は一ヶ月の小遣いを没収されましたが、『彼女が辞めさせられなくて良かった』と笑っていた……。弱い立場の人を放っておけない、心優しい子でした。そんな子が……あんな、あんな形で……!」
伯爵は机を強く叩き、怒りと悲しみに顔を歪めた。
「許せん。ノルヴェリアも、あの偽物も。絶対に、絶対に許さんぞ!」
「協力していただけるだろうか」
殿下が静かに、しかし力強く告げた。
「表面上は何も知らないふりを続けてほしい。そして一ヶ月後、国王陛下の御前で、あの偽物を裁く場に立ち会っていただきたい」
伯爵は、溢れる涙を拭い、力強く頷いた。
「もちろんです。本物のセシリアの供養のためにも、あの化け物を必ず、法の裁きにかけてみせます」
その瞳には、かつての温厚な紳士とは思えぬ、峻烈な決意が宿っていた。
◇
数日後、私は王宮の廊下である光景を目にした。
年配の侍女が重そうな荷物を運んでいるのを見て、向こうから歩いてきた王太子エドワードが足を止めた。
「それは重そうだね。誰か手伝いを呼ぼうか?」
侍女は恐縮したように頭を下げた。
「いえ、殿下。お気になさらず」
「でも、腰を痛めたら大変だよ。誰か、手を貸してやれ」
王太子の指示で侍従が進み出て、荷物を取り上げる。
侍女は再び深々と頭を下げ、荷物を持った侍従と共に去っていった。エドワードはその背中を見つめながら、満足げに呟いた。
「年配の使用人には、もっと楽な仕事を割り振るべきだな」
その言葉を聞いて、私は暗澹たる気持ちになった。
王太子の思い描く「楽な仕事」――そんな特権的な椅子は、王宮の底辺には存在しない。仕事を取り上げられた下級使用人に待っているのは、配置転換ではなく「解雇」だ。
『優しさはあるのよ』
アナが冷ややかに呟いた。
『でも、深く考えようとしない。その場の思いつきで善行を積んだつもりになって、根本的な弊害にまで想像が至らないの。まさに、スパイにとっては最高の獲物ね』
(ええ……ナターシャのような悪人には、これほど扱いやすい操り人形はいないでしょうね)
『善良だけど、無能。それが王太子の本質よ』
私は複雑な思いでエドワードの背中を見つめた。彼自身も、ある意味では「セシリア」という毒に侵された被害者なのかもしれない。だが、それでも王位を継がせるわけにはいかない。それが、この国を守るための唯一の道なのだから。
◇
八月下旬、ヴィクトール殿下の諜報機関から不穏な報告が入った。
――偽セシリアが密かに港の商人と接触。ノルヴェリア行きの船の手配を打診した模様。
報告書を読み、殿下が眉をひそめる。
「逃亡の準備でしょうか」
「そうだろうな。監視をさらに強化する。鼠一匹、出国させるな」
数日後、今度は王宮の侍従からさらなる情報がもたらされた。
「セシリア様が、自室の変更を希望されました。現在は庭を一望できる見晴らしの良い部屋ですが、夏の陽が眩しすぎるからと、裏手に面した端の部屋を希望なさっています」
「裏手、か。いざとなれば庭の木を伝って姿を消すつもりだろうな。だが、就寝中も隙なく見張っている。泳がせておけ」
殿下が自信ありげに指示を出す。頭を下げた侍従が下がっていく。
『リリィ、殿下は「見張っている」ことで安心しているけれど……追い詰められた鼠は、私たちの想像を超えた手段を選びかねないわよ』
アナが鋭く警告する。
(分かっているわ。……油断はしない)
私は懐に忍ばせた護身用ナイフの感触を、そっと指先で確かめた。
◇
九月初旬。ついに、待ち望んだ朗報が届いた。
「国王陛下のご容態、予想以上に回復されました。短時間であれば、謁見の間に出向くことが可能でしょう」
医師のその言葉に、私たちは弾かれるように陛下の寝所へ向かった。
以前よりずっと顔色の良くなった陛下が、ベッドの上で穏やかに微笑んでいる。
「ああ、ヴィクトール。リリアナも。……だいぶ良くなった。明日にでも、重要な裁定に立ち会えると医師から許しが出たぞ」
「……ついに、その時が来ましたね」
殿下が噛みしめるように言った。
「報告は簡潔にだが聞いている。セシリアが……ノルヴェリアの工作員であると」
「はい。証拠も、立ち会い人の手配も、すべて整っております」
「分かった」
陛下は力強く頷いた。その瞳には、一国の長としての峻烈な威厳が戻っていた。
「明日、すべての証拠を提示せよ。私が、王の名において裁定を下す」
◇
陛下の部屋を退室する頃には、王宮の廊下は深い静寂に包まれていた。月明かりが大理石の床を青白く、冷たく照らしている。
『リリィ、怖い?』
アナが、私の心の深淵に触れるように尋ねた。
(……怖いわ。でも、逃げられない。やらなきゃいけないのよ)
『そうね。でも、大丈夫。今のあなたは一人じゃない。私たちなら、絶対に勝てる』
アナの声が温かく響く。
不思議だった。未来の絶望を知るアナと、現在を生きる私。その境界が溶け合い、一つの強固な意志へと変わっていくのを感じた。
◇
同じ頃。王宮の片隅、裏手の端の部屋で。
ナターシャ・ヴォルコフは、窓の外の闇を見つめていた。その翠緑の瞳には、清楚な仮面の下に隠されていた、凍てつくような殺意が宿っている。
扉が静かに、事前に示し合わせていた暗号のリズムでノックされた。
「入れ」
ナターシャが短く命じる。
現れたのは、黒い外套に身を包んだ、顔の見えない男だった。
「依頼の件、承りました」
感情を殺した男の声に、ナターシャは引き出しから金貨の詰まった革袋を取り出した。
「これが前金だ。……詳細は?」
「明日の夜、指定の場所で」
ナターシャは冷たく、残酷な笑みを浮かべた。
「お前が必要な情報は、すべてここに用意してある。……失敗は許されない」
「承知いたしました」
男は音もなく姿を消した。
再び訪れた静寂。だがそれは、翌日に吹き荒れる血の嵐を予感させる、あまりに不穏な静けさだった。




