第27話
【大陸暦一二二七年一月】
新年を迎えた王都は、厚い雪に覆われていた。
エスターク公爵邸の執務室。窓の外では雪が音もなく降り続き、庭園の木々は白い綿帽子を被ったように見える。
暖炉では薪が赤々と燃え、パチパチとはぜる乾いた音が静かな室内に響いていた。
私は、温かい紅茶のカップを両手で包み込むようにして持ちながら、父と兄に近況を報告していた。
「フェリックス・バーネット、ダミアン・クロウ、そして王妃アデライーデ。この三ヶ月で、セシリアの協力者が次々と失脚したわけだな」
父が暖炉の火を見つめながら、低い声で言った。その横顔には、満足と警戒が入り混じった複雑な表情が浮かんでいる。
「ですが、セシリア本人は完全に無傷です。それどころか……」
「王太子への影響力は、むしろ強まっているんだろう?」
窓辺から振り返った兄の目には、苦々しい光が宿っていた。
「聞いたぞ、リリアナ。王太子は今や政務のすべてをセシリアに相談し、自分では何一つ決められないそうじゃないか。宮廷の者が嘆いていたよ」
兄の言葉に、私は小さく頷いた。
窓の外では、雪がひたすら降り積もっている。真っ白に塗りつぶされた世界が、どこか冷たく、そして恐ろしいほどに美しい。
『そうよ、未来でもそうだった。王太子は完璧にセシリアの傀儡。政務も外交も、全部あの女の思い通りだったわ』
アナの忌々しそうな声が頭の中に響く。
(今回は、それを阻止しないと……)
「ヴィクトール殿下は、何か手を打っておられるのか?」
父が私を見た。その視線は鋭く、しかし娘への信頼に満ちている。
「はい。セシリアの過去を、諜報機関を使って徹底的に調べておられます」
「過去……ね」
兄が腕を組んで、考え込むような仕草を見せた。暖炉の火が揺れて、彼の影が壁に大きく映し出される。
「セシリア・ローゼンタールという人物、言われてみれば確かに謎が多い。ローゼンタール伯爵の養女だということは広く知られているが、それ以前のことはあまり語られない。いや、語られないというより、誰も知らないのかもしれないな」
「殿下も、そこに疑問を持たれたようですわ」
私の言葉に、父と兄が同時に頷いた。
時おり薪のはぜる音だけが、密やかな沈黙を埋めていた。
◇
二月に入って間もない頃、私はヴィクトール殿下から呼び出しを受けた。
王宮の図書室。いつもの小部屋に入ると、冬の弱い陽射しが窓から差し込んでいた。
殿下は窓際のテーブルに座り、分厚い報告書を前に険しい顔をしている。その周りには、何冊もの書類の束が積み重ねられていた。
「リリアナ、よく来てくれた」
顔を上げた殿下の表情は真剣そのもので、その青灰色の瞳には鋭い光が宿っている。
「お呼びいただき、参りました」
私が向かいに座ると、テーブルの上からは微かにインクの匂いが漂ってきた。几帳面な文字でびっしりと書かれた報告書が、私の前に広げられる。
「諜報機関の調査で、いくつか興味深い報告が上がってきた。まず、表向きの経歴だが……セシリアはローゼンタール伯爵の遠縁にあたる下級貴族の娘だ。四年前に一家が馬車事故で死亡し、彼女だけが生き残った。伯爵が遠縁として引き取り、養女にしたとされている。これは一般によく知られている話だな」
「ええ、私もそのように聞いております」
「しかし」
殿下の指が、報告書の別の箇所を指し示した。
「諜報機関が当時を知る人々に話を聞いたところ、どうも話が合わない点が出てきた」
殿下は、報告書の束の中から元使用人の証言記録を取り出した。
「これを読んでほしい」
私は記録に目を通した。
『セシリア様は、とても内気なお子様でございました。社交の場を大変苦手とされていて、お屋敷の中でもほとんどお部屋から出られないほどに。客人がお見えになると、いつもお部屋に隠れておられました』
私は驚いて顔を上げた。
「内気……ですか?」
「今の彼女からは、想像もつかないだろう? だが、この証言だけではない。遠縁の親戚からも、似たような話が出ている」
殿下が示した次の記録には、こう記されていた。
『事故の後、伯爵のお世話になることになったと報告に来てくれた時は、本当に驚きました。幼い頃はあんなに引っ込み思案だったセシリアが、まるで別人のように堂々としていて。ああ、悲しみを乗り越えて成長したのだと、私たちは思いましたけれど』
私は記録から目を離せなくなった。「別人のように」という言葉が、不吉なほどに心に引っかかる。
『子供は成長するものだけど、性格がここまで劇的に変わるものかしら』
アナの声が響く。
(確かに……内気で引っ込み思案だった少女が、数年で王宮を支配するほどの社交術を身につけるなんて)
「それだけではない」
殿下の声が低くなった。彼は三枚目の記録――元家庭教師からの証言を取り出す。
「これを見てほしい。元家庭教師によれば、セシリアは学問が苦手で、特に外国語は何年教えても簡単な挨拶がやっとだったそうだ」
私の手が、無意識に震えた。
「でも、今のセシリアは……」
「ああ。少なくとも三つの言語を、母語のように流暢に話す。先月の茶会でも、外国の商人と完璧に会話していた。あれは、たかだか数年の努力で身につくレベルではない」
窓の外では、雪が降り続けている。白い雪片がゆっくりと舞い落ちていく光景は、どこか不吉な予感を孕んでいた。
『やっぱりおかしいわ。性格の変化は環境のせいにできても、能力までは無理よ。子供の頃に全くできなかった外国語を、数年でここまで完璧にするなんて』
(それに……)
私は、先月の光景を思い出した。
セシリアが北方の商人と、専門的な商業用語まで使って会話していた場面だ。あの時は単に「勉強家なのだわ」と感心すらしたが、もし元々が不得手だったのだとしたら、あまりに不自然だ。
「殿下、もしかして……」
言葉を続ける前に、殿下が静かに頷いた。その青灰色の瞳には、冷徹な確信が宿っている。
「ああ。考えたくはないが……別人の可能性がある」
◇
二月の半ば、私は屋敷の自室でマリアと二人きりで話していた。
窓の外では雪解けが始まり、屋根から滴る「ポタリ、ポタリ」という雫の音が聞こえてくる。
暖炉では火が弱まり、部屋の温度が少しずつ下がっていた。マリアが薪を足すと、再び火が勢いを取り戻してパチッと音を立てた。
「マリア。あなたがセシリアと接していた時、何か違和感だとか、不思議だと感じたことはない? どんな些細なことでも構わないわ」
「不思議なこと、ですか」
マリアは少し考え込むような仕草を見せた。
「私が直接見聞きしたことではないのですが……ローゼンタール伯爵家のタウンハウスに出入りしていた頃、そこの使用人たちとも話す機会がありました。彼らは私のことをセシリア様が慈悲をかけている娘と認識していましたから、セシリア様の素晴らしさを語っていました。ただ私の感覚では、どうにも妙だと感じることがございまして」
「例えば、どんな話?」
マリアは周囲を確認するように視線を動かしてから、さらに声を落とした。
「セシリア様は時々、貴族の令嬢らしからぬことをご存じなんだそうです。厨房で料理人が困っていた時、保存食の作り方を教えたり。馬丁が新しい馬具の扱いに悩んでいた時、その手入れ方法を詳しく説明されたとか。田舎育ちだからよ、とセシリア様は笑って仰っていたそうですが」
『何それ。貴族の令嬢が保存食や馬具の手入れ方法に詳しいって、どんな田舎よ』
アナの声が鋭く響く。
「それに、使用人たちの間で、こんな噂もありました」
マリアの声が、震えるように小さくなる。
「セシリア様は普段とてもお優しい方なのに、時々……ほんの一瞬だけ、ぞっとするような冷たい表情をされることがあるそうなんです。すぐに元の笑顔に戻られるので見間違いかと思うそうですが、何人もの使用人が同じことを言っていました」
私は背筋が寒くなるのを感じた。暖炉の火が揺れて、部屋に不気味な影を落とす。
「ぞっとするような……」
「はい。それからもう一つ。ある晩、セシリア様の部屋の前を通りかかった使用人が、中から外国語で独り言を言っておられる声を聞いたそうです。語学の練習だったのかもしれませんが、あまりに流暢すぎて気味が悪いほどだった、と」
マリアの証言は、諜報機関の報告と残酷なまでに重なり合う。
別人。その可能性が、いよいよ現実味を帯びてきた。
窓の外では、雫が規則正しく落ちている。まるで、真相へと向かう時を刻む秒針のように。
◇
三月に入り、雪解けが本格的に始まった。
庭園では雪の下から緑の芽が顔を出し始め、冬の間眠っていた命が目覚めようとしている。しかし私の心は、春の暖かさとは裏腹に、凍てつくような緊張に包まれていた。
ヴィクトール殿下から緊急の呼び出しがあったのは、三月の半ばのことだ。
小部屋に入ると、殿下は窓際に立って外を凝視していた。その背中は、いつになく強張っている。テーブルの上には、新しい報告書が広げられていた。
「殿下、一体何が……?」
声をかけると、殿下はこちらに振り返った。青灰色の瞳には何かおぞましいものを見たような光が宿っている。
「セシリア一家が遭った事故に関して、決定的な矛盾が見つかった」
殿下の声は低く、押し殺されていた。彼はテーブルに戻り、報告書を手に取る。
「事故の記録を、専門家に分析させたんだ」
私が隣に座り報告書を覗き込むと、そこには事故の状況が詳細な図解とともに記されていた。
「一家全員が死亡したのに、セシリアだけがほぼ無傷で生還……」
「専門家によれば、『物理的にありえない』そうだ。馬車が崖から転落した衝撃で、一人だけが無傷というのは不可能に近い。少なくとも、重傷を負っていなければおかしい」
報告書の数字は、容赦なく現実を突きつけてくる。
転落の角度から見て、車内の全員が致命的な衝撃を受けたはずだ。一人だけ無傷というのは、もはや奇跡という言葉では説明がつかない。
「それに」
殿下が別の記録を開いた。その手が、わずかに震えている。
「葬儀の記録も調べた。事故からわずか二日後に、異常な速さで執り行われている。棺は密閉され、開けられることはなかった。立会人も最小限。検死も、形だけのものだったらしい」
窓の外からは、春を喜ぶ鳥のさえずりが聞こえてくる。しかしこの部屋の空気は、真冬のように冷え切っていた。
「二日……貴族の葬儀としては、早すぎますわね」
「ああ。通常なら、遠縁の者が集まるまで一週間は待つ。まるで横槍を入れられたくないかのようだ」
殿下は、恐ろしいものに蓋をするかのような手つきで報告書を閉じた。
「もし、事故が本当の事故ではなかったとしたら……一家は殺されたんだ。そして、セシリアだけが『奇跡的に生き残った』ことにされた。その上で――」
殿下が私を見た。その瞳には、冷たい確信と、抑えきれない怒りが混ざり合っていた。
「別人が、セシリアの名を名乗って生きている」
室内が静まり返った。あまりの衝撃に、時が止まったかのような錯覚に陥る。私は椅子の肘掛けを、指が白くなるほど強く握りしめた。
「……つまり、セシリアという少女の戸籍を奪うために、一家全員を葬ったということでしょうか?」
『そんな……そこまでする? あの女一人で、そこまでのことが……』
アナの声が、かつてないほど動揺して震えていた。
「本物のセシリア嬢は……」
「恐らく、一家と一緒に殺されているのだろう」
殿下の言葉が、重く胸に突き刺さる。罪のない少女が、家族と共に命を奪われた。そしてその名前を奪った何者かが、今も王宮で微笑んでいるのだ。
私は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
外では春の陽射しが庭園を照らし、雪解けの水が小川となって流れている。美しい命に満ちた光景が、今はひどく残酷に思えた。
「しかし、まだ証拠が不十分だ。性格の変化も能力の向上も、本人の努力と言い逃れされてしまう。事故の不自然さも、『奇跡』の一言で片付けられてしまうだろう」
「状況証拠だけでは、こちらが返り討ちに遭いかねませんわね」
「ああ。あの女なら、完璧な弁明を用意するはずだ。もう少し泳がせよう。追い詰めれば、必ず尻尾を出す」
殿下の声には、静かだが揺るぎない決意が込められていた。
◇
その夜、私は自室で一人、窓辺に座っていた。
月が昇り、雪解けの水が銀色にきらきらと光っている。美しい夜景。しかし、私の心は鉛のように重く沈んでいた。
『まさか、ここまでとはね……』
アナの声が、いつになく静かだった。
(殺人……それも、一家全員を。そんなことが許されていいはずがないわ)
『でも、まだ推測よ。ヴィクトール殿下の言う通り、確実な証拠を掴まないとあの女はまた逃げ切る。リリィ、焦っちゃ駄目よ』
(ええ。必ず、暴いてみせる。セシリアの正体を)
窓を打つ三月の風は、冬の名残と春の気配を混ぜ合わせながら、不穏な音を立てていた。
◇
同じ頃、王宮では政務会議が開かれていた。
広い会議室。国王ルドルフをはじめ、主要な貴族たちが居並ぶ中、空気は重苦しく淀んでいた。
「陛下、雪解けが進むにつれてノルヴェリアの軍事活動が活発化しております」
軍事担当の貴族が地図を広げた。指が国境沿いの数箇所を鋭く指し示す。
「国境地帯での兵力集結が確認されました。演習の回数も増加しており、警戒を強化すべきかと存じます」
「我が軍の状況は?」
「……万全とは言い難いです。先代グレンヴィル公爵の失脚後、軍全体の主導権を握れる者が不在となっております」
国王は深くため息をついた。妻の不正が、これほどまでに王国の屋台骨を揺るがしている。
「引き続き警戒を怠るな。ノルヴェリアの動きを注視せよ」
国王の命令に、貴族が頭を下げた。その時だった。
「そこまで深刻に考えるほどのことではないだろう」
王太子エドワードの声が、会議室に響き渡った。
室内が、一瞬で凍りつく。貴族たちの視線には、驚きと呆れ、そして隠しきれない軽蔑が混ざっていた。
「エドワード。深刻ではない、だと?」
国王の声が、地を這うような低さで響く。しかし王太子は気づかず、得意げに続けた。
「事実です。ノルヴェリアなど小国。たとえ小競り合いで押し込まれたとしても、あの国の国力でこの王都まで戦線を維持できるはずがありません」
「黙れ!」
国王の一喝に、テーブルの上の地図が震えた。
「お前は国境の重要性が分かっていない。戦争は国の大小だけで決まるものではないのだ。地の利、兵站、情報……すべてを侮れば、必ず痛い目を見るぞ」
王太子は黙り込んだが、その顔には不服そうな色が浮かんでいた。まるで駄々をこねる子供のようだ。
会議室の片隅で、ヴィクトールは無表情のまま兄を見つめていた。その青灰色の瞳の奥にある深い失望を、決して表には出さずに。
会議が終わると、廊下では貴族たちの囁き声が石壁に反響した。
「王太子殿下は、本当にもう……」
「やはり、第二王子殿下の方が……」
王太子の評判は、もはや修復不可能なほどに地に落ちていた。
◇
三月の終わり、王宮の庭園で、私はヴィクトール殿下と最後の確認をしていた。
桜の蕾が今にも弾けそうに膨らんでいる。春の陽射しは、冬の間凍えていた大地を優しく包み込んでいた。
「リリアナ。これから先は、さらに危険が増す。セシリアを追い詰めれば、彼女は必ず容赦のない形で反撃してくるだろう」
「覚悟はできています。私は未来を変えるために、今ここにいるのですから」
私は真っ直ぐに殿下を見返した。春の風が私の髪を揺らす。
『その意気よ、リリィ。絶対に逃がさないわ』
「分かった。必ず、決定的な証拠を掴む」
桜の枝が風に揺れる。
長い冬が終わり、新しい季節が始まろうとしていた。セシリアの過去に潜む闇はまだ深い。しかし、私たちの包囲網は確実に狭まっている。
(必ず、すべてを暴いてみせる)
私は、雲一つない澄み切った春の空を見上げた。




